Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

豪州にて 韓国の人々と

2006-03-26 | Half Time
実は?先週初めより商用でオーストラリアを廻っています。日本がWBCの決勝戦を戦ったのも、愛する母校が本日東海大相模に惜敗したのも、そして京都パープルサンガがまだ勝利を挙げていないのも結果や経過を知るだけなのです。 ここオーストラリアはアジア系の移民が大変多い。最近は中国大陸から来た人々が目に付くが、数でもここでの生活ぶりでも圧倒するのは韓国系の移民達だ。取引先でも韓国系はかなり多い。仕事以外でも日韓の事について話す事も。会う人全てに最初に言われたのは WBC の事だった。会う人全てが“日本はどうしたんですか?2回も負けた韓国に、3回目は快勝して、キューバも破ってしまった。”そして私は言うのだ“ただ Lucky だったに過ぎない。同じ大会で同じ相手と3回も対戦するなんて有り得ない。3回目の対戦があったから勝つ事が出来た。”とそして“韓国は何処がダメだったのか?”と訊かれる。彼らはオーストラリアでは試合の様子が生で見られない。翌週にレンタルビデオで廻って来るのを待つしかない。“打撃陣が今一つだった。李鍾範、李承、崔熙渉 の3人以外からは打点の可能性が低かった。それに機動力にも欠けた。しかし朴賛浩を始め投手陣は良かった。それだけに準決勝の日本戦で具成晟が怪我で使えなかったのは痛かっただろう。さらに良かったのは守備だ、ショートの朴鎮万、ライトの李晋暎らのファインプレーはすごかった。そして金寅植監督は Gentleman だった”と私は英語で語った。ここにいる韓国人とは英語で話せる。いままで幾多の事を話すことが出来た。韓国語や中国語が出来ればもっと多くの人と色々話せるのだがといつも思う。そして例のイチロー報道にも私は“あれは韓国にではなく、全ての対戦相手が”今後30年は手が出せない云々“と日本向けに記者会見したもの。おそらく韓国の新聞が発行部数を伸ばしたいから韓国向けの発言にしたのだろう”と言うとみな爆笑していた。“(韓国の)新聞記者ならそれくらいはするよ”とも。だが当地にいる韓国系移民の大会の総評は概ね満足との事。プロ野球の歴史が50年も長い日本にまだ勝てるとは本気で思っていない様だった。 それよりもアメリカに勝ったこととアメリカ人審判の酷さの事をよく指摘していた。 朝鮮日報紙でも下記の様な朴賛浩のコメントが。

朴賛浩(サンディエゴ) は23日、メジャーリーグの公式ホームページ(MLB.com)とのインタビューで日本のWBC優勝についてコメントした。「韓国が(準決勝で)日本に負けた時は悔しかった。だけどそれよりも私にはもっと大きな意味があった。私は日本に優勝してほしかった。韓国はできなかったからね。アジアのためにも日本の優勝はとても嬉しかった」と語った。

またイチローの現地での評判も紹介していた

「開拓者は野茂英雄だった。しかし、日本人野手初の大リーガーとしての成功例はイチローだ」
ESPNのコラムニスト、ピーター・ゲモンスが23日(以下韓国時間)、イチロー(32/シアトル・マリナーズ)に対する特別な賞賛をつづった。 ゲモンスはワールド・ベースボール・クラシック(WBC)を通じて見た「イチローの独特な偉大さ(Ichiro\'s unique greatness)」という見出しのコラムを通じ、イチローと日本プロ野球に対する考え、ひいてはアジア野球に対する再発見を書き下した。 ゲモンスは、WBCの大会期間中の試合前後にグラウンドやダグアウトで自分が見たイチローの姿を日本野球の独特さと結合させ、「大リーガーが模範とするに値する点」と指摘した。 コラムの要旨は「イチローは日本出身で、大リーグでも日本野球のプライドを失っていない。それだけでなく、必要に応じて米国野球に同化しながらも、自分だけの独特なスタイルを確立している」というのだ。
ゲモンスは1つのエピソードを紹介した。キューバとの決勝戦の後、日本人記者の1人がイチローに「National Baseball Hall of Fame(野球の殿堂)に選ばれれば、その感想を日本語でコメントするのか、それとも英語でコメントするのか」と聞いた。イチローは「多分スペイン語にすると思います」とかわした。イチローは英語が上手だ。スペイン語はソリアーノから学んだ。そして、ソリアーノには日本語を教えた。 ゲモンスは「WBCをきっかけにアジア野球が正当な評価を受けなければならないだけでなく、米国の野球文化に取り入れられるに値する」とコメントした。 イチローが初めて大リーグに進出した時、日本国内では「イチローが日本野球を裏切った」とする情緒が広がった。しかし、「今大会をきっかけに、日本国内の否定的な感情はすべて消えた」というのがゲモンスの説明だ。 ゲモンスは「大リーグでイチローの姿を見られるのは、私たちに与えられた特権だ。イチローほど独特なスタイルを持った選手はいない」としながら、「野球の殿堂に選ばれた時は、日本語、英語、スペイン語のすべてで感想を語ってもらえればと思う」という言葉で締めくくった。

だがイチローがアメリカに渡った時は誰も日本野球を裏切った等とは思わなかっただろう。それとも李承が日本に渡ったときに韓国人は彼を裏切り者扱いしたのか? 確かに宣銅烈の時代は少しあったかもしれないが。 オーストラリアの韓国人達は李承が今年東京ジャイアンツでどんな活躍を見せるか楽しみであるとも言っていた。趙成民は残念ながら今一つだったが、その後の韓流ブームでチェ=ジンシルが彼と結婚していた事(後に離婚したが)も話題に出したら、受けた。 そしてイチローのバッティングフォームを真似た。場所は人気の韓国レストラン、お客は皆韓国系の中だ。すると他の席の子供から拍手とブーイングと笑いが漏れた。個人同士ではこんなに仲良く出来るのに。思わず苦笑してしまった。 いつか北朝鮮の人と話せればね。でもその時はにぎやかな場所でお願いしたい。何を話すかはその時でなければわからないだろう。

元 Ireland 代表 Nial Quinn, Bangkok に登場

2006-03-26 | Football Asia
ACL Champions League が始まったが、タイから出場資格があったチームは提出書類の不備があったということで信じられない理由で失格処分に。そのタイの国内リーグ、英語ではThailand Premier Leagueと表記されているが、そこからの Newsを。あまり話題にならなかったかつて Ireland 代表としてプレーした Nial Quinn がタイの強豪チーム BEC テロサーサナで現役復活デビューを果たした。 
3月5日に行われた国内リーグの第6節、対Tobacco Monopoly戦で40歳の Quinn は FW として先発出場し70分プレーした。試合は両チーム退場者を1人ずつ出す中 1-1 で引分けた。試合の三日前にバンコック入りした Quinn は自身の久しぶりのプレーに満足をしているとのコメントを残している。
Tobacco Monopolyは昨シーズンのリーグ王者で今年の ACL 出場資格がありながら失格となったチームの1つ。Quinn の所属するBEC テロサーサナは2003年ACLの準優勝チームだ。 
Quinn はArsenal と1983年に契約を結び1990年に Manchester City に移籍。その後1996年にSunderland に移り2003年までプレーをした。まだ80年代当時は移籍が盛んでなかったことがよくわかる。代表暦は1987年にデビューを果たし84試合アイルランド代表としてプレーをした。1988年、Bulgariaらを予選で退け欧州選手権本大会に出場。初戦で England を 1-0で破った時の代表に加わっている。そして1990年のワールドカップイタリア大会にも出場。エジプト戦でゴールを決めていている。その4年後のワールドカップアメリカ大会にはエントリーされなかった(怪我でもしたのかな?監督の構想に合わなかったのか?)しかし、2002年の日韓大会には36歳で代表入り、カメルーン戦こそ出番は無かったが続くドイツ戦では73分から、サウジアラビア戦では後半から、そして決勝トーナメントのスペイン戦でも55分にKelly Gary に替わって出場を果たしている。 そして翌年には引退その後 Sunderland のコーチを務めたりしていたが、最近では解説業をしていた。 彼は身長196cmと典型的なというよりも古典的な Center Forward であった。
引退後はMick McCarthy の後を受けて Sunderland の監督にもと噂された。Bookmakers はこの監督後任人事にAlex McLeish と Kevin Ball を 9-2 で表示と伝えNiall Quinn も50-1と発表したが直後に 33-1 にまで下がったと。また当時からイングランド代表監督であった. Sven-Göran Eriksson の賭率も 80-1 とまで発表された。 
だけど彼が Bangkok で現役を復帰する事は賭けの対象になっていただろうか? もしこれに賭けていた人がいたならきっと大もうけしたに違いない。 しかし、アジアに移ったとは言え40歳で尚も現役に復活するその姿勢には脱帽だ。これからタイは地獄の4月と言われるような高温多湿の季節がやってくる。 うまく乗り越えて欲しい。それからもしテロサーサナが優勝すれば来年、AFCに Quinn も出場するかな?このさい手続きも彼に行ってもらったほうがいいかもしれない。

京都西高校 いざ出陣

2006-03-26 | 京都西高校
23日に開幕した第78回選抜高校野球大会。いよいよ明日は愛する母校、京都西高校の登場である。相手は神奈川県代表の東海大相模高校。2004年の夏には同じ神奈川県代表の横浜高校にサヨナラ負けを喫しているだけに同じ神奈川県代表校に雪辱をして欲しいものだが、こちらも強豪だしなぁ。私が小学校2年の時の東海大相模は全国優勝を果たしているが、この時の決勝戦の相手はPL学園。後に東映フライヤーズ(後に日本ハム)に入団した新美投手を擁しての決勝進出であった。東海大相模はそれ以来優勝が無い。あの原辰徳を擁しても夏の大会はベスト8が最高。選抜では準優勝している。 さて京都西高校だが昨夏の快進撃を支えた北岡君(3年)-本田君(2年)の継投がこの春も戦い方の根幹となる。さらに昨秋の京都府大会では左腕の大野君(3年)が先発の柱として活躍し、投手陣は再武装されて甲子園に戻ってくる。チーム打率は出場32校中21位の3割1分6厘、本塁打はわずかに2本。しかし秋季大会では1試合平均5個の四死球を選んで出塁。チーム一の10打点をマークした吉田君(3年)や8打点の南本君(3年)ら中軸の勝負強い打撃しぶとく得点を奪う。京都府の秋季大会は昨夏の甲子園大会後のわずか4日後に始まったらしい。昨年は結構2年生がいたから新チーム作りには大丈夫であろう。  

私が入学した時は本当に甲子園が遠かった。野球部は毎日遅くまで練習に明け暮れていたが甲子園にいけるとは考えられなかった。しかし、前にも書いたが、野球部の顧問が“お前達が3年になった時が楽しみだ”といっていた通りになった。2年の時の秋季大会、京都府大会を勝ち抜き何と平安高校と共に近畿大会に進出したのだ。そして1回戦の相手はこれも近畿大会は初進出の大阪代表上宮高校。 試合の数日前に担任が“日曜日の近畿大会に応援バスを出すけど、応援に行こうと思ってい者は手ぇ挙げ。”と問うたところ、なんと挙手をしたのは私だけ。これには担任は怒った。“おまえらの同級生が頑張っているんやぞ。何で行こうとせんのや?日曜日やけど他に何の用事があと言うんや?あかんなぁ。バスが足らんから追加してくれ言うくらいになるのが普通とちゃうのか?”と言い放った。結局私のクラスからは20人近くが応援に出かけた。相手の上宮高校は恐らく全員が来ていたのではないかな?2倍くらいの生徒が来ていた。 試合は初回、先攻の西校がチャンスを掴むが得点にならなかった。その裏の上宮もチャンスを掴む、そして次打者の打った打球はサード正面のゴロ、これでチェンジだ、と思うも3塁手の直前でイレギュラーバウンドし、そのまま外野へ転がる。結局この回2点が入り、その後も追加点を許し5点を許す。やはり甲子園は遠いのか?と諦めかけた8回、突如西校の猛攻が始まり、一挙4点を返す。我々は総立ちで声援を送る、いつも学校で気軽に話す同級生がプロ野球選手に見えた。その裏に追加点を許すがそれでも最終回、更に大声で声援を送る、だが残念ながら点差は詰まらずセンバツの夢は消えた。試合終了後、3塁手(確か1学年下だったと思う)が泣いていた様だった。そして天気が崩れ出し帰宅したときは雨が降っていた。帰宅後は日本シリーズの、あの江夏の21球をテレビで観た。
そして夏、1,2年の時は共に府予選の1回戦で敗れたが、野球部でも無いのに甲子園の銀傘を夢見た。在校中にまさか母校を応援できるなんて、同じクラスの奴らが甲子園に立つのか?と期待した。京都府大会の3回戦であったか、東宇治高校と対戦する事に。この年は宇治市のいくつかの高校が力を持っていると教えてもらっていた記憶がある。しかし、負けるとは思わなかった。私は受験生らしく、夏期講習の帰りに予選のあった西京極球場に行った。この日もあまりいい天気ではなかった。 試合は西校が2点を先制した。しかし東宇治が1点を返しさらに二死ながらランナーが二人いた、そしてバッターの打球は外野を破った、その打者走者は2塁を廻って3塁を狙うがここは外野からの好返球、好中継でアウト、だがそれより1塁走者のホームインが早く、逆転されてしまった。しかし試合はまだ中盤、チャンスはあると思い声援を送ったが中々得点に繋がらない。終盤に逆にピンチを迎えた。その時マウンド上にいるエース投手に懸命に声援を送った。彼は同じクラスの奴だった。私と同じく走るのが速く、何度も競争をしたものだ。そのエースが踏ん張り追加点を許さない。そして最終回。雨が降ってきた、もうみんな総立ちだ。ブラスバンドの連中も椅子の上に立って楽器を奏でている。同点のランナーが出た。しかし、彼は生還しなかった。そして彼らの夏も終わった。3年間毎晩遅くまで練習をし、修学旅行にも行かずそして日曜日も試合や練習で遊べなかっただろう。私もクラブ活動をしていたが、彼らほど練習漬けでは無かった。帰りの阪急電車の中で数人の同級生と“惜しかったなぁ、残念だったなぁ、夏休みどないしてるんや?”等と話した。 だけど、負けはしたが彼らが羨ましかった。俺も応援される側になりたいと思った。進学希望だったので大学に入っても絶対スポーツはしようと思った。母校が甲子園に出られたのは4年後であった。そして私もあるスポーツ競技で全国レベルになった。 同級生の活躍は大いに刺激になった事は間違いない。 今の在校生達の中にも当時の私の様な思いをしたり、将来同じ思いをする子達も出て来るだろう。 スポーツは全てが積み重ねだ。 西校生よ これからもがんばれ !!! ( 文章は私の遠い記憶を頼って書いたものです。おそらく数箇所、記憶違いがあるかも知れませんがご勘弁下さい。)