Mr.コンティのRising JAPAN

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イングランド ロン=グリーンウッド監督時代

2006-03-15 | EURO Football
開催国ドイツの不振、フランスがスロヴァキアに敗れるなど欧州戦線はワールドカップに向けて課題の多い国もあるが、それを尻目にウルグアイを逆転で破ったイングランド株は上昇中だ。11月のアルゼンチン戦でも出場した202cmの長身選手Liverpool 所属のクラウチがルーニーと替わって入った後に同点ゴールを決めるとJコールがロスタイムに逆転ゴールを叩き込みアルゼンチン戦に続く劇的な勝利。不安はAコールのバックアップと期待されていた左バックのブリッジがわずか30分で負傷退場したこととオーウェンの回復時期か? 欧州勢の中ではイタリアとイングランドがベスト4以上候補と早くも予想する欧州専門誌も。 話題が少し前になるがトリノ五輪開幕直前の2月9日付 TIMES 紙はかつてのイングランド監督、ロン=グリーンウッド氏の逝去を伝えた。 享年84歳であった。グリーンウッド氏は1961年~1974年まで West Ham United の監督を努め1964年にはFA Cup でチームを優勝に導き、翌年のウェンブリーで行われた 欧州Cup Winners Cup のTSVミュンヘンとの決勝戦では 2-0 と勝利を収め欧州タイトルも手に入れた。1975年からは General Manager に退いていたが1977年にイングランド代表監督の大役が廻ってくる。しかし、当時のイングランドは非常に困難な時期であった。地元で開催されたワールドカップで優勝監督となったアルフ=ラムゼィは1970年メキシコ大会、西ドイツとの2-1とリードしていた準々決勝戦でボビー=チャールトンを引っ込める愚行を犯し、延長戦に敗れる敗因を作りながら(敗因のもう1つのはGKゴードン=バンクスがメキシコの生水が原因で腹痛を起こすという“モクテマスの復讐”により起用できなかった事。)引き続き指揮を取り続けた。その結果 1973年に行われたワールドカップ予選ではミュンヘン五輪金メダルの Poland に屈し、西ドイツ大会のピッチに現れなかった。ラムゼィの後を継いだドン=レヴィは更に悲惨だった。当時の欧州サッカーは世界のトップクラスがここを目指したと言われるブンデスリーガを持つドイツの全盛期。欧州チャンピオンズカップでもバイエルンミュンヘンが3連覇を果たすがイングランドは欧州のクラブカップ戦でも芳しくなかった。1976年の欧州選手権は優勝したチェコスロヴァキアに屈し準々決勝に進めず、同年11月17日、ローマで行われたイタリアとのワールドカップ予選に、 0-2 と惨敗し、巻き返しを誓ったアルゼンチン行きに早くも黄信号が灯ると、レヴィは辞任(一説には更迭されたくなかったから?)その直後に中東のクラブチームに大金を持って迎えられ地元では非難の嵐に。そんな中、あくまでも暫定的にという条件でグリーンウッド氏が残りの3試合を指揮することに。1977年11月16日、ウェンブリーで過去数年の不振を払拭するような内容でイタリアを 2-0 と破るが、得失点差で2大会連続ワールドカップ予選落ちとなり、4年前に“イングランドは Football の荒野を4年間さまよわねばならない”と地元サポーターに嘆かれたのが8年間となってしまった。アルゼンチンワールドカップ開幕直前にウェンブリーにブラジルを迎え 1-1 と好ゲームを披露したが、ワールドカップ予選落ちの事実を慰められるものではなかった。グリーンウッド氏は予選後もイングランドを指揮することとなったが、欧州大陸の良い所(特に当時の西ドイツ)は積極的に取り入れ改革を進めた。またLiverpool が76-77, 77-78, Nottingham Forest が78-79, 79-80 と連続して欧州チャンピオンズカップを制し、イングランフットボール界が再浮上を始める。するとグリーンウッドはノティンガムからウッドコック、ブブ=アンダーソンを代表に呼ぶなど新しい選手を起用。アンダーソンは史上初めて黒人代表選手だった。世界的には話題にならなかったが1979年には英国選手権、いわゆる Home International で2連覇をかざるそして 欧州選手権予選ではケビン=キーガンが8試合7得点の活躍で7勝1分けと無敗で本戦出場を決める。しかし予選で同組だったのは北アイルランド、アイルランド、ブルガリア、デンマークと比較的楽な組でもあった。だがイタリアで行われた本戦、初戦のベルギー戦ではフーリガンがスタンドで暴れ機動隊が催涙弾を発砲。GKクレメンスがその被害を受け試合が中断してしまうなどいい所無く引分に終わり、第二戦地元イタリアとの戦いではエース、キーガンがタルデリに痛めつけられ結局決勝に進出することなく帰国をすることに。そしてこの大会は西ドイツが優勝した。イングランドは3大会ぶりというよりも20年ぶりの予選突破を目指しワールドカップ予選に臨むがルーマニア、スイスにアウェーで敗れまたもや暗雲が漂う。後に自叙伝“Yours Sincerely “ に述べられているがこの時退任を決めたが説得されて指揮を取り続けた。だがその直後のオスロでのノルウェー戦も 1-2 で落とし、著名な地元解説者 Bjorn Lillelien に試合後 “ Can you hear me, Maggie Thatcher ? Your boys took a helluva beating “ ( サッチャー(首相)さん聞えますか?あなたの子供達が打ちひしがれています ) とコメントされた。しかし、ハンガリーにはホーム&アウェーに勝利し、最終戦のウェンブリーでのハンガリー戦ではロブソン、ブルッキング、キーガンらの好プレーで 1-0 と勝利を収め連続予選落ちにピリオドを打った。
スペインワールドカップではイングランドはシードされ他の列強からは疑問の声が鳴り止まなかったが、初戦のフランス戦、開始27秒でロブソンのゴールで先制しプラティニ率いるフランスを 3-1 で下すと、チェコスロヴァキア、クウェートに連勝し全勝で2次リーグへ。まず西ドイツと対戦した。過去のワールドカップでの対戦は1勝1敗。だが西ドイツのルンメニンゲのシュートがバーを叩いた以外は見せ場が乏しく、試合後西ドイツデアバル監督が語った“お互い敬意を払いながらゲームに臨んだ”と言うとおりスコアレスドローに終わる。続くスペイン戦で 2-1 以上のスコアで勝てば準決勝進出であったが、既に西ドイツに破れベスト4進出の路が途絶えたスペイン相手に攻めあぐねゴールを割れない。後半19分、グリーンウッドは怪我で本大会出場機会の無かったキーガン、ブルッキングをついに投入する。しかし二人は1度ずつ決定機を逃し、結局スコアレスドローに終わり、意地を見せた地元スペイン代表の引き立て役に終わり無敗で大会を後にした。この二人の投入は彼らベテランの力を頼ったのか、それとも花道を作ったのか?試合後 Times 紙は、“これまでイングランドは地元で行われた大会以外はベスト4以上の成績は無い。グリーンウッドは退任前にそれにどれだけ近づけたか知った。彼はイングランド代表監督として、ハンガリーに勝利を収めてから9連勝を飾ったその功績に慰められるべきだ。”と述べている。 
イングランドのベスト4はその8年後イタリアでようやく遂げられた。7月、ワールドカップが母国に初めてもたらされるか?その可能性は前回よりは高いと思われる。