歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

③ 方丈記 俗世間の地位と名誉の争いに敗れ! 辿り着いた方丈の暮らし!

2018年11月06日 | その他

前回の続きです。

鴨長明さんのお話しです。

「カモノチョウメイさん」の俗名は、訓読みで「ナガアキさん」のようです。昔から偉くなると、名前を音読みする傾向があったのです。

私の名前は、生まれた時からずっと、偉くもないのに音読みです。

まあ、そんな事はどうでもよいのです。

それで、鴨長明さんですが、この方は、

1155年 下賀茂神社の禰宜の次男として生まれ

1161年 7歳 「従五位下」を授け

1172年 18歳 父が亡くなり

1177年 23歳で大火に遭遇

1180年 26歳の時に竜巻に遭遇

1181年 27歳の飢饉に遭遇

1184年 30歳で家族と離れ河の淵で一人暮らし

1185年 31歳で大地震に遭遇

1201年 47歳 後鳥羽天皇の抜擢により和歌所の選者になる 

1204年 50歳 河合社の禰宜後継争いに敗れ、和歌所も辞め出家

1205年 51歳 新古今和歌集に十首入集

1208年 54歳 京都郊外日野の山中へ移り方丈の庵で暮らす

1211年 57歳 鎌倉に赴き将軍源実朝の和歌指導役を藤原定家と争い敗れる

1212年 58歳 方丈記出筆

1216年 62歳 没

と云う一生を歩んでこられた方なのでした。

下賀茂神社の禰宜の次男として生まれたのです。禰宜は神主より下のようですが、それなりの地位なのです。

それなり、と、云っても、一般庶民からは、遠く、遠く、かけ離れた、7歳にして 「従五位下」を授けた、大きな屋敷に住む支配階級に属するお方でした。

そして、しかし、1172年、18歳の時に父を亡くし、後ろ盾を失い、中心に位置していた人が、少し端っこに追いやられ、不運の幕開け、方丈記につながる第一歩となります。 

それからは、官職から遠ざかり、和歌を詠み、琵琶を奏で唄い、自由人として暮らしをしているのです。その間、歌人として、それなりの地位にあったようです。

その頃に、大火に、竜巻に、飢餓に、大地震に遭遇して、人間の、そして、住居の虚しさ、儚さを、感じるのです。

それでも、世の中の端っこから、中心に戻りたい気持ちは消えていなかったのです。そして、1201年47歳の時に、後鳥羽天皇の抜擢により、宮中の和歌所の選者になるのでした。 

ところが、ところが、3年後の1204年50歳の時に、下賀茂神社の関連神社、河合社(ただすのやしろ)の禰宜後継争いに敗れ、和歌所も辞め出家してしまうのです。

彼は、河合社の禰宜に、相当な思い入れがあり、後継争いに敗れたショックは大きかったようです。

それにしても、です。神社に生まれた方が、出家して仏門に入ってしまうの?

まあ、隠遁生活で、神道はあまり聞いたことがありませんから、神道と隠遁は結びつかない? 

神道だとしたら、山伏となって、野原を、野山を、駆け巡る、そんな活発なイメージとなり、かなり、かなり、隠遁的、内省的、そして、虚しさ、儚さ、とは、遠ざかることになる?

兎に角、54歳から、本格的に世間とは離れ京都郊外で、折り畳式で移動可能な、方丈での暮らしを始めるのです。

※光文社古典新訳文庫「方丈記 鴨長明 蜂飼耳 訳」より引用。

歌を詠み、琵琶を奏で唄い、また経典を読み、村の少年と野山を歩く生活に入り、俗世間から隔絶した暮らしをはじめるのです。

でも、しかし、1211年57歳、隠遁生活たった3年で、俗世間の官職を目指し鎌倉に赴き、将軍源実朝の和歌指導役を、藤原定家と争い敗れるのです。

彼としては、18歳で父を失い、50歳で河合社の禰宜後継争いに敗れ、57歳で定家との争いに敗れ、つくづく運の悪さを嘆くのです。

そして、そして、57歳にして「方丈記」に辿り着き、書き終わって4年後にこの世を去るのでした。

まさに、彼にとっては、大邸宅から、掘立小屋への、貴族から乞食同然の、急降下の、敗北の、不運の、人生なのでした。

鴨長明、方丈記は、薄っすらとは知っていましたが、今回、それなりに、勉強になりました。

本日はこのあたりで終わりますが、もう少し方丈記に思いを巡らしたいと思います。

それでは、また次回。

 

 

 

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