前回の続きです。
志村第6小学校を後にして高島通りを越えて渡辺製菓の裏に向かいます。そこには、あのころ“小川”と云うか、生活排水が流れ込む、周囲に雑草が茂る、ほぼ“どぶ川”が流れていました。
“どぶ川”は深さがオヘソ位で、幅が2メートル弱位だったような?渡辺製菓の灰色のコンクリート塀に沿って流れていました。周囲は原っぱと、田圃と、畑だった気がします。
どぶ川で、ザリガニ(アメリカザリガニ・またの名を真っ赤チン)とか、ドジョウとか、鮒を釣って遊んでいました。
一番記憶に残っているのは、近くの原っぱに捨てられていた「畳」を浮かべて遊んだ事です。畳の筏は直ぐに沈没し、半ズボンもパンツもビショビショなりました。
季節は夏で、隣の部屋に住んで居た二つ歳上の“ひとしちゃん”と一緒だったと?半ズボンだけを脱いで、暫く乾かし、生乾き状態で家に帰った記憶があります。
その時の帰り道で、お蕎麦屋さんの前に置かれた真っ赤なシロップを飲んだ記憶があります。シロップは下に蛇口が付いた、直径・高さが30㎝位の鉄製の寸胴に入っていました。
何故か、食い物に纏わる記憶は、いつまでも、いつまでも、ハッキリとシッカリと記憶に刻まれるのです。とても、とても、食い物には卑しい性格なのです。まあ、兎に角、食料事情の悪い時代でしたからね。いや、もしかして!我が家だけが食糧難だった?
このシロップは、お祭りの時に神輿や山車が休憩するポイントに置かれ、子供達に無料でふるまわれた残りです。残り物でしたが、まだ冷たくて、甘くて、美味しくて、当時の私にとっては、とても御馳走でした。
渡辺のジュースの素といい、真っ赤なシロップといい、人工着色料、人工甘味料が全盛の頃です。そう云えば、ミドリ色をしたメロン味の“イムラヤのソーダの素”何てモノも売れていました。
それで、“どぶ川”の痕跡を探し求めて、高層マンション群の間を縫って辿り着いたのがこの風景。左を見ると緑地帯、
右を見ても、この緑地帯、
このくねくね曲がった緑地帯は、間違いなく、あのどぶ川の跡です。間違いありません。たぶん暗渠になっているのです。この下に、あの畳を浮かべて沈没し、パンツを濡らした、あの想い出の、懐かしいどぶ川が流れているのです。
「みどりの広場」は板橋区が無償で借りているようです。借り上げ期間が終了したら返還されることもあるようです。
“コーシャハイム”に隣接する土地ですから、住宅供給公社が所有者だと思います。公社と板橋区はお友達関係ですから、借り上げ期間は不明ですが、期間終了時には当然更新されるのでしょう。
それにしても、小川と云うか、昔し農業用水路だっと云うか、生活排水路と云うか、どぶ川と云うか、この辺りにはいろいろな流が、あっちコッチにあったのです。
次回も、 どぶ川に纏わるお話です。
それでは、また。