“キューポラのある街”です、吉永小百合です。
昭和37年(1962年)の作品です。今から、なんと、なんと、もう、48年も前の作品です。当時、わたしは12歳でした。そうすると、小学校の6年生だったのか?中学1年生だったか? そこいらへんは、あまり定かではありません。
それで、実は、わたくし5年生の時に板橋区から、北区の赤羽に引っ越したのです。赤羽の川向こうが埼玉県川口市になります。そうなのです、映画の舞台になったキューポラのある街は隣町だったのです。
でも、当時、リアルタイムで観た記憶はありません。そのことはハッキリしているのですが、いつの頃か映画館かテレビで一度観た記憶がうっすらと残っています。
今回、あらためて、じっくりビデオで鑑賞したのですが、先ず、何と云っても、風景が懐かしいのです。白黒の画面は遠い過去の想い出にぴったりと重なり合うのです、
この土手沿いの工場は、つい最近と云っても2年前だったか?通りすがりに、見かけたような気がします。
当時は、こんな風景の灰色の街でした。現在はカラフルな高層マンションが建ち並ぶ街になっています。
この建物も見かけた記憶があります。
これが“キューポラ”の煙突です。
煙突の先のへんてこな部分は、煙の中の煤や灰をそれなりに除去する装置なのです。以前、この煙突のへんてこりんな“先っぽ”のことを“キューポラ”と云うのだと思っていました。キューポラの本体はこの下にある、鉄を溶かす炉のことだったのです。
キューポラの話ではなく、“キューポラのある街”の話に戻します。映画の風景から、当時の川口の風景を懐かしく思い出すのは、12歳当時の記憶ではなく、高校を卒業して社会人となり、仕事で度々川口に行っていた頃のことです。
その当時の勤めていた会社は、クレーンとかエレベーター等の製造販売会社で、設計は自社でやるのですが、製造は外注化していたので、川口にあった協力工場に良く行っていたのです。家が隣町ですから、直帰とか、直行なんてことがよくありました。
その協力工場は経営者も、2~3人居た従業員も、みんな在日朝鮮人でした。社長の長男はわたしと同じ年で、その下に二人姉妹が居り、妹の方が可愛かった記憶があります。
あるとき、たまたま事務所で妹と二人だけになったとき、何故か、話の流れで“○○さんて、とっくに結婚して子供もいると思ってた”と云われたのです。
うら若き女性から、まだ二十歳前後の頃に既婚で子持ちだなんて思われていたこと、とても傷ついたのです。話し方とか物腰がとても落ち着いて大人に見えたそうなのです。40年後いまでも、その時の情景をハッキリ覚えているのです。
もしかして、あの妹に、わたくし、ほのかな想いを抱いていたような・・・そんな気が・・・何となく・・・してきました。あの妹は、いまどこで、どんな暮らしをしているのでしょうか。甘く、すっぱく、切ない、想い出です。
話が映画から逸れてしまいました。でも、この際、もう少し逸れます。
この川口の外注工場で思い出を手繰っていくと、あの元毎日新聞記者で、あの頃、外信部長だった“大森実”と“東京オブザーバー”の事です。
ベトナム戦争の報道で“ベトコン寄りの偏向記事を書いたとして、アメリカからの圧力で毎日新聞を退社させられた・・・その頃そんな噂があったような記憶が・・・”大森実が、週刊の“東京オブザーバー”と云う新聞を発行していたのです。
東京オブザーバーは新聞名のロゴが“鮮やかなブルー”で印刷されていたと思います。駅売りで、当時、その色は目立っていました。
わたしは、その“週刊新聞”を時々駅の売店で購入していました。ある日、ある用件で、川口の工場に行くときに、浜松町駅でオブザーバーを購入し、京浜東北線で川口に向かったのです。
その時の紙面に朝鮮半島情勢を特集した記事が掲載されていました。わたしが持ってきた新聞を社長が真剣な表情で見つめていた記憶がいまでも残っています。
こうやって、当時を思い出し、記憶を辿っていくと、社長も、姉も妹も、長男も、従業員で一番年配だった人も、みんな、その表情が、その情景とともに浮かんできます。不思議なものです。
“人間の脳は過去の出来事のすべてを記憶している”何てことを、いつか、どこかで、聞いた事があります、記憶の糸を手繰って行くと、少しずつ、ホントに記憶が蘇ってきます。
それで、大森実さんの方ですが、調べてみたら、今年の3月25日に88歳で肺炎の為に亡くなっていました。
そう云えば、もう一人、ベトナム報道のジャーナリスト田英夫さんも、去年、86歳で亡くなっています。
大森実、田英夫、懐かしい名前です。
映画キューポラのある街から、かなり、かなり、話が遠くに逸れてしまいました。次回は、たぶん、映画の話に戻ると思います。
それでは、また明日。