歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

秋の夜長はしみじみ演歌・・・その2・・・“さゆり”と“冬美”

2010年10月15日 | その他
昨日の続きです。

「都はるみ」も、いいのですが、

大阪しぐれ



最近では、「石川さゆり」が女性演歌歌手では、ダントツでナンバーワンだと思います。“天城越え”には強烈なインパクとがあります。艶っぽいイイおんなになりました。

天城越え 石川さゆり



16歳で歌った「津軽海峡冬景色」、詩の内容と唄う“女の子”とのギャップが面白かったのですが、詩の内容と人生が重なり合う年齢となり、とても魅力的な大人の曲になりました。

石川さゆり -津輕海峽冬景色




石川さゆりを追いかける、次の世代の代表は“坂本冬美”です。彼女がまだデビュー前で「猪俣公章」の内弟子だったころ、テレビのドキュメンタリー番組で取り上げられたことがありました。

後から内弟子になった、「マルシア」が先にデビューし、彼女がその心境を、ぽつり、ぽつりと語るシーン、とても印象に残っています。

坂本冬美 夜桜お七




最後は、やはり、誰が、何と云っても、はるみちゃんで締めます。

都はるみ-北の宿から



それでは、また来週。


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秋の夜長はしみじみ演歌・・・・・・

2010年10月14日 | その他
秋の夜長にひとり寂しく、しみじみと“演歌”・・・・・・。

演歌は秋から冬が似合います。

やはり、東北から北海道へ、北に向かいます。

それで、“都はるみ” 復帰(1990年)第一作の「小樽運河」です。本人は“演歌歌手”と呼ばれることを嫌っていたと、いつか何かで読んだことがあります。

叫んだり、力んだり、唸ったり、小節を回したり、あまり好きではないそうです。そして、復帰第一作で、こんな曲を歌ったのです。この曲は彼女のプロデュースだそうです。

小樽運河  都はるみ(作詞:吉岡治/作曲:弦哲也/編曲:櫻庭伸幸)

とても、詩も、曲も、編曲も、歌い方も、とても好きです。この頃はまだ42歳、詩と実生活とのギャップはすくなかったと思います。まだ、色恋を唄える歳でした。でも、もともと、色恋的には、ちょっとムズカシイところが・・・・・・。


新沼謙治の曲で一番好きです。最近の“ケンちゃん”かなり都会的になってきました。でも、この曲は、東京を捨てた歌です。33年前の1977年の曲ですが、歌い込んでとても良くなったと思います。

辛いことばかりの東京を捨て、北に向かいます。こういう設定が演歌です。適度に“辛く、悲しく、寂しく”、適度な“不幸せ”に、それとなく憧れるのです。ホントに悲しいことは歌にはなりませんからね。

ヘッドライト-新沼謙治


でも、この曲では、傷つき、打ちひしがれて、ひとり北に向かうのではなく、同乗者の女性が居ます。故郷に近づくにつれて、“悲しみヘッドライト”が、“幸せのヘッドライト”に変わります。

それで、曲名が単に“ヘッドライト”になっているのです。最後に救いがあるのです。聴いている方も、ヨカッタ、ヨカッタと、安心して聴き終わることができるのです。

作詞の阿久悠さん、幸せを仄めかして終わらすのか、不幸せのままで終わらせるのか、迷ったのでは? でも、ふたりですからね。わたくし、ずっと、曲名を“悲しみのヘッドライト”と記憶していました。


この人は、まだ、まだ、色恋でいけます。

八代亜紀 舟唄



秋の夜長の演歌でした。


それでは、また明日。


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秋の夜長はしみじみボサノバ・・・・・・

2010年10月13日 | その他
秋の夜は“ささやきの歌”ボサノバが似合います。

夢、希望、嘆き、悲しみ、

さすらい、ふたり、別れ、孤独、・・・・・・

アントニオ・カルロス・ジョビン・・・。

ジョアン・ジルベルト・・・。

その名を聞いただけで、ボサノバです。

想いあふれて  アントニオ・カルロス・ジョビン



波(WAVE) アントニオ・カルロス・ジョビン



Desafinado by Joao Gilberto


へッドホンで、ひとり寂しく、聴いています。

それでは、また明日。

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“キューポラのある街” ⑦ 思いつくままに

2010年10月12日 | 東京の風景
先週の続きです。

映画「キューポラのある街」は、とても懐かしいなのです。リアルタイムで観た記憶はありませんし、当時「吉永小百合」にはほとんど興味がありませんでした。可愛くもなく、演技が巧いわけでもなく・・・・・・。

ところが、いまでは、イイ女になりとても魅力的です、芝居も上手になり、アイドルから日本を代表する女優になりました。でも、後、ほんの数年でしょう、そして、いつの日か、女が消え“皇潤”の八千草薫になってしまいそうです。

映画に話しを戻します。

今観て思うのは、風景の懐かしさであり、風景から辿る記憶です。

この荒川に架かる橋、何か夢を見ているようです。

それにしても、白黒画面とは云え、貧乏な時代にしては何故か体操着が、みんなこざっぱりとして“真っ白”です。

私の周りでは、こんな真っ白な“トレパン”は珍しかったです。そうあの頃、漂白剤と云えば“白元”でした。

懐かしいです。この校舎、この校庭、覚えています。


これが、3年前に車で通りすがりに東京側から撮った川口の風景。


これが映画の舞台になった現在の川口南中学。隣が幼稚園で、そのとなりが小学校。小中高一貫ではなく、幼小中一貫のようです。


家族と一緒に北朝鮮に帰還せず、ひとり残ることにした日本人妻役の“菅井きん”若いです。1926年の生まれですから、この時は36歳、いまでは84歳です。


この姿には驚きました。最後の映画「阿弥陀堂だより・・・2002年制作」のときと、ほとんど変わりません。1911年の生まれですから、この時は51歳です、阿弥陀堂の時は90歳。ホントにすごい老け役女優でした。今年の4月に亡くなってしまいました。


それで、北林谷栄さんですが、私は一度、彼女を目撃したことがあるのです。20代の前半の頃、地下鉄の車内でした。赤坂見附あたりだったと思います。

私の斜め向かいに座り、“バックからメガネを取り出す動作”を、今でも覚えています。当然ですが、服装も、動作も、とても若々しく、オシャレで素敵な女性でした。ピンク系のスーツだったような気がします。

小沢昭一、少年鑑別所の職員役です。いつも、何処かに、怪しさを漂わす、この色眼鏡が役作りなのでしょう。いつの頃だったか? 中年御三家、野坂昭如に永六輔。

それにしても、永六輔、ろれつが回らず、何を言っているのか聞き取れません。いつまでラジオ続けるのでしょうか? 

むかし、生意気だった頃の永六輔が聞いたら、“じいさん!早く引っ込め”何て、書いたり、云ったり、したと思います。魁皇と云い、六輔と云い、どうも、引き際を見失ったようです。そう云えば。もう一人“カン総理大臣”が居ました。

中学の時、担任の“渋谷先生”がこんな感じでした。社会人になった頃、突然、先生から電話があったのです。“都知事選には美濃部さんをよろしく”との投票依頼の電話でした。


社会科の先生で、いつか授業で「朝鮮戦争は汚い戦争でした」と云ったのです。「戦争には、汚い戦争とキレイな戦争があるのですか」と、質問してしまいました。先生が何と答えたかは覚えていません。

ラスト近くのシーンです。この跨線橋、ハッキリ覚えています。


映画“キューポラのある街”は懐かしい風景でした。

何か、とても、川口の街を歩きたくなりました。


それでは、また明日。


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“キューポラのある街” ⑥ アッチにコッチに逸れて!そして!日立武蔵工場は消えていました!

2010年10月11日 | 映画の話し

先週の続きです。

先週は「日立製作所武蔵工場(半導体工場)」関連の話しでした。それで、武蔵工場は何処なの?と思った方もいたのではと思います。

映画のなかでは、工場見学のシーンと、帰りにジュンが自転車に乗って、川口の街を走るシーンとがつながって描かれているので、川口市の近所のように思われた方も、もしかして?何人か?居られた?と思うのです。



実は、何を隠そう、この私も、武蔵工場は川口の近所だと思っていました。何たって川口周辺も「武蔵野の国」ですから、そう思っても仕方ありません。

それで、ネットで「日立製作所武蔵工場」を調べていたら場所以外に、いろいろな事が、いろいろと出てきたのでした。

先ずは武蔵工場の所在地ですが、何と、中央線の国分寺駅から徒歩10分ほどの所にあったのです。当時でしたら、川口からは乗り換え時間を入れ、駅まで歩く時間を入れ、2時間は掛かったかと思います。当然、ジュンは会社の寮に入る事になるのでした。


それと、今回は、あまり詳しくは触れませんが、日立武蔵工場の昭和30年代は、労働問題がいろいろあったようです。映画で描かれたほど、明るく楽しい職場ではなかったようです。

寮生活も“女工哀史”とまでは云いませんが、いろいろあったのでした。シスター制度はその役割を存分に果たしていたのでした。

それで、日立武蔵工場ですが、あの白井貴子とか、三屋裕子とか、中田久美とか、大林素子とか、日本を代表する選手を輩出した、バレーボールの名門チームがあった工場なのでした。

武蔵工場関連は、「でした、でした」の過去形なのでした。

実は、平成の世になると、国内の半導体メーカーは後発の韓国に世界市場を奪われ、かなり厳しい状況に追い込まれたようで、各メーカーは企業の垣根を越えて統合化に向かったようです。

そして、武蔵工場は分社化し三菱の半導体部門と統合し「ルネサス テクノロジ」となり、最近は、NECとも統合して「ルネサス エレクトロニクス」となっていたのです。

日立と三菱とNECが一つの会社をつくったのです。昔はそんなこと考えられませんでした。半導体分野は相当に追い詰めらようです。

武蔵工場の名前が消え、バレー部も廃部になりました。大会社の中の大会社、日立製作所の武蔵工場が消えてしまっていたのです。

分社化して他のメーカーと統合すると云うことは、不採算部門の切り捨てであり、従業員の削減であり、雇用条件の低下である訳です。

ジュンの頃は“これからの分野”だったものが、今では“もはやこれまでの分野”となってしまっていたのです。

中国や、韓国や、台湾や、インドや、ブラジル等の国でも生産できる分野では、労働条件も彼らと同等で働くことになってしまうのです。

“経済的”には、ですけれど、辛く厳しい時代になりました。これから先の長い方、多くの収入を望む方、これからは、ホントに大変な時代です。

ジュンの時代は、みんな貧乏から抜け出すことを目指して、いろいろ一生懸命頑張りました。これからは、もう、貧乏でも、楽しく、のんびり暮らす事を、一生懸命頑張って考える時代だと・・・・・・。

もう、品質の良いものを、安く、大量に生産し、大量に消費する、そんな時代はお終いにしましょう。ホントに失うものが大き過ぎます。

書いているうちに、最初の予定とは、かなり、かなり、逸れまくってしまい、コムズカシイしいことになってしまいました。

本日はここで、お終いにします。次回からもうすこし「キューポラ関連」に戻します。

まあ、アッチに行ったり、コッチに行ったりは、たぶんあると思いますけど・・・・・・・。


それでは、また明日。


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“キューポラのある街” ⑤ エルダー・シスター制度は・・・

2010年10月08日 | 映画の話し
昨日の続きです。

前回、最後に、かなり大胆で挑戦的な予告をして、しまいました。まあ、世間の作品評価が、北朝鮮への帰還事業を肯定的に描いたとして、北朝鮮賛美とか容共的とか左翼的とかの評価に対して、ひとこと、ふたこと反論したいと思ったのです。

ジュンは家庭の事情を考え、働きながら定時制高校へ通う道を選択し、職場を見学に行ったのですが、そこは“日立製作所武蔵工場”でした。


画面いっぱいに、工場の正門、工場建屋が映し出され、日立製作所武蔵工場とハッキリ判るのです。これは撮影協力への対価なのでしょう。まぁ、それは、それで問題はありません。

ここは最先端のトランジスター工場です。撮影の2年前にトランジスター研究所から、トランジスターの量産工場として稼働したばかりです。

最先端と云っても、当時は人間の手先に頼る労働集約型であり、たくさんの女性工員を必要としていました。

川口の鋳物工場とは比べものにならない、明るく清潔な近代的な工場です。


明るく広い社員食堂で、仲間と一緒に、楽しく、美味しく、栄養のある食事が安く食べられるのです。


昼食が終わると、屋上で、明るい陽ざしの下、みんな一緒に、明るく、楽しく、健康に、コーラスを楽しみます。


案内してくれた先輩(エルダー)の女子工員から、コーラスの指揮をしている女子工員も今年から定時制高校に通っていることを知らされます。

明るい職場で、楽しく仲間と働き、仕事の後は定時制高校で勉強、ジュンの眼は夢と希望に輝きます。


それで、工場内を案内したり、職場の仲間を紹介するのが、労務課のむさ苦しいオジサンではなく、年齢も近い先輩女子工員だと云うところが“味噌醤油味の素”なのです。


それにしても“吉行和子”若くてきれいです・・・・・・・。まぁ、それは、それとして、本題の先輩女子社員ですが、これが、いわゆる、OJT(On the Job Training)なのです。

「OJT」嫌いなんです。「オージェーティー」音としての響きが耳障りです。まぁ、それは別にして、新人の職場教育です。その方法に、エルダーとか、ブラザーとか、シスターとかの制度があるのです。

ブラザーにシスターです。名称からして“オン”ザジョブだけではなく、“オフ”ザジョブの役割も含みます。先輩が公私にわたって、指導したり、相談にのってくれたりするのです。

何か、とても良い制度に見えるのですが、まぁ、それだけであれば、何も問題は無いのですが、実は、この制度には、とても政治的、思想的、役割があるのでした。

学校を卒業して、何も知らない若い労働者が、社会の荒波に乗りだし、日頃の職場や、職場以外での悩みを、“反体制的”“反企業的”な組織に利用されないようにしていたのです。

そんな活動の積み重ねが、日本独自の企業内組合を支え、企業あっての労働組合との意識を育み、結果として、労働組合の力が低下し、サービス残業、長時間労働、そして、非正規雇用の拡大に繋がっていくのです。

政治の季節から経済の季節へ、日本の経済成長を、日本の資本主義を、末端で支えた制度だったのです・・・・・・。そのシスター制度を“肯定的”に描いた「キューポラのある街」は、それなりの責任があるのです。

何て云うと、そんなバカなァ! それは大げさだァ! との反論が聞こえてきます。そう、かなり大げさでした。

そうなんです、北朝鮮への帰還事業を肯定的に描いたとの批判と、シスター制度を肯定的に描いたとの批判も、どちらも大げさなのです。でも、どちらにも、一欠片の真実が・・・あったりするのです。

会社見学のあと、明るい未来を信じて、唄いながらペダルを漕ぐジュン。


今回は、かなり、小難しい、こじつけめいた話になってしまいました。次回は、「キューポラのある街」についての、雑談的、気楽なお話です。

それでは、また来週。

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“キューポラのある街” ④ アイドル映画でした

2010年10月07日 | 映画の話し
昨日の続きです。

前回、最後にちょっとだけ触れた“北朝鮮への帰還事業”ですが、“キューポラのある街”の作品評価で必ずこの事が問題にされます。

帰還事業は朝鮮戦争が1953年12月に“停戦的休戦状態”に入ってから、6年後の1959年12月より始まりました。終了したのが1984年、四半世紀も続いていたのです。帰還者は93,340人で、そのうち7千人弱が日本国籍を持つ子供や日本人妻だったそうです。

それで、映画のなかで帰還事業を、それなりに肯定的に取り上げ、北朝鮮を、社会主義を、賛美し、帰還事業を推進する一定の役割を果たしたと、一部では未だに批判や非難が囁かれています。

でも、しかし、帰還事業は、じつは右も左も仲良く推進していたのです。

右からは「人道的配慮を云いつつ厄介払い」として、左からは「社会主義体制の優位性」を宣伝するための手段として、お互いに同床異夢で推進していたのです。

“ジュン”の“子分”も、朝鮮人の父と、日本人の母の間に生まれました。


そして、北朝鮮へ帰還するのですが、


母は一人、日本に残ります。


子分の姉はジュンの友達、


悲しい別れなのです。


未来への明るい希望を抱いて祖国へ帰って行く、そんな雰囲気ではなく、かなり悲壮感漂う情景描写だと思います。

ジュンの子分は途中で汽車を降ります。北朝鮮よりも母親を選びました。でも、しかし、戻って来ると母は何処かに消えていました。何となく、新しい男との、新しい生活を選択したようでした。

それでも、強く明るくたくましく、一人でも生きていけそうな少年です。北朝鮮へ帰らなくて、ホントにヨカッタです。

作品では帰還事業がかなりのウェイトを占めますが、北朝鮮は「地上の楽園」だとか、「衣食住の心配がない」とか、左翼的宣伝は語られてはいません。

いまだから言えることで、あの頃、帰還事業を、それなりに“肯定的”に取り上げたとしても、あの頃、あの帰還事業は、普通の人には、単なる“風景”だったと思います。

映画公開から6年後経った頃、私は社会人になったのですが、会社は浜松町駅から徒歩10分ぐらいのところで、隣は「日本赤十字社」の本社で、交差点の斜め向かいが「愛宕警察署」でした。

会社の前を通って、毎日、毎日、十数人から、時にはその倍程度の在日の人達が、帰還事業に関しての、要求なのか、抗議なのか、幟を立てて日本赤十字の本社に向かうのを、日常的に眼にしていました。

兎に角、日赤の門前のチマチョゴリは普通の日常的な風景で、彼らが毎日、毎日、何のためにあの場に居たのか、まったく覚えていません。

あまり関心がなかったのです、世の中は、政治よりも、経済の時代でした。「キューポラのある街」を観て、北朝鮮は素晴らしい国だと思った人は、それほど居なかったと思います。

この映画は、街のかたすみで、貧しくともけなげに、いろいろな困難に立ち向かい、力強く生き、少女から女に成長していく過程を、アイドル女優の吉永小百合が初々しく演じた“アイドル映画”なのです。

キューポラのある街川口市も、貧乏も、北朝鮮帰還事業も、すべて吉永小百合がトップアイドルとして世にデビューさせるための、単なる背景でしかないのです。

背景は、暗ければ、暗いほど、“小百合ちゃん”は輝くのです。

こんなこと云ったら、監督の浦山桐郎さん、脚本の今村昌平さんに怒られる?

次回は、世評的には、まったくギャクの、この作品の、右翼的と云うか、反動的と云うか、資本主義的と云うか、反組合的と云うか、そんな側面を大胆に批判したいと思います。


それでは、また明日。



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“キューポラのある街” ③ あの頃みんな貧乏でした

2010年10月06日 | 映画の話し
昨日の続きです。

昨日は、“あの頃みんな老けていた”と書きましたが、老けていたのは成長期を過ぎだ大人達で、20頃までの成長期は、今よりも、“身体的”には“みんな若く”見えました。

これも栄養の問題、所得の問題だと思うのです。

高度経済成長後のいまでは、栄養が良いので身体的成長は早くなったのですが、精神的成長は栄養摂取とは無関係な為に、身体的成長に追いつかず、心と身体にズレが生じているようです。

それで、この時“小百合ちゃん”は17歳でした。貧乏でも前向きに、一生懸命に生きる中学生を初々しく演じています。あの頃、小百合ちゃんは“アイドル女優”だったのです。

小百合ちゃん演じる中3の“ジュン”は、今見ると、外見はとても幼く見えますが、とてもしっかりした中学三年生なのです。


作品の中で“ジュン”の作文シーンがあり、吉永小百合のナレーションで、
  
   『私には判らないことが多すぎる。
 
    第一に、貧乏な者が高校に行けないこと、いまの日本では、中学だけでは下積み
    
    で一生うだつがあがらないのが現実。

    下積みで、貧乏で、酒を飲んでケンカしたり、博打を打ったり、気短で、気が小
    
    さく、その日暮らしの考え方しかもっていない。
   
    みんな弱い人間だ。

    もともと弱い人間だから貧乏に落ち込んでしまうのか。
   
    それとも、貧乏だから弱い人間なってしまうのか、私にはわからない・・・・・・』



ジュンの家は“かなり貧乏”で、お父さんは飲んだくれで、その日暮らしの弱い人間なのです。毎日、毎日、貧乏を意識し、少しずつ社会の矛盾に気が付きはじめてきたのです。

この作品は1962年の制作ですから、60年の安保改定反対闘争が終息し、世の中は政治の季節から、経済の季節に変わりつつあった時代です。岸内閣から池田内閣に変わり、所得倍増、高度経済成長が始まりました。

作品のなかで“ビンボー”の言葉が頻繁に出てきますが、ビンボーの自覚は周囲にお金持ちと云うか、それほどビンボーでない人達がいて、はじめて自分のビンボーに気付くのです。

ジュンは同じクラスの町工場の経営者の娘に勉強を教えていました。彼女には自分の部屋があり、おやつはショーケーキと紅茶、お父さんは優しくて理解があり、その日暮らしではありません。

そんな立派なお父さんに、ラーメン屋で一皿50円のシューマイを弟とごちそうになり、ジュンはいろいろと励まされるのです。


ジュンが作文で『第一に、貧乏な者が高校に行けないこと、いまの日本では、中学だけでは下積みで一生うだつがあがらないのが現実』と書いていますが、何かちょっと違和感があります。

あの頃、わたしの暮らしも「ジュン」とあまり変わらなかったのですが、私は自分がビンボー人だと気が付きませんでした。都営住宅で周りがみんな同じようにビンボーだったのです。

それでも、クラスで高校に進学しなかったのはほんの数人だったと思います。世間は“いまどき高校くらいは出ていなければ”と云った“風潮”でした。

“ジュン”の時代に遅れること数年、それほど時代は急激に変化したのか、それとも、社会派映画として、貧乏の社会的矛盾をより強調したかったのか・・・・・・。

時代は貧乏から所得倍増で、世間では中流意識が芽ばえ始めた時代だったと思います。

まあ、兎に角、今回、時代背景も、単なる懐かしい風景のひとつでした。

まあ、それで、最近の(拉致問題発覚以降ですか?)巷での作品評価として、北朝鮮を、社会主義を、過大に賛美していたとか、云われたりしているようです。

私としては、まぁ、それほど、そんな風には感じませんでしたし、時代がそんな風潮だったので、そんなもんだと思って観ました。

まだ、もうすこし、「キューポラのある街」で思いを巡らします。


それでは、また明日。

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“キューポラのある街” ②あの頃みんな老けていた

2010年10月05日 | 映画の話し
昨日の続きです。

それで、映画“キューポラのある街”ですが、舞台が埼玉県の川口市で、制作が1962年(昭和37年)、鋳物工場の勤める労働者一家を取り巻く日常を、長女の中学3年生を中心に描いたお話しです。

それで、私の1962年頃は、埼玉県川口市と荒川を挟んだ隣町の、東京は赤羽の2DKの都営住宅に住んでいて、親父はタクシーの運転手をしていました。

赤羽は東京の外れと云うよりも、埼玉県の入り口と云った街でした。ですから、映画「キューポラのある街」で描かれた世界は、地理的にも、年頃的にも、家庭環境的にも、かなり重なり合っているのです。

でも、しかし、主役の中3の娘は、恵まれない環境の中にあっても、真面目で、家族思いで、明るくて、しっかりしていて、可愛い顔をして成績優秀で、未来に希望を抱き計画的生きる、とても、とても、立派な少女なのです。

その辺のところは、いい加減な私とは、かなり、かなり、重なり合わないのです。

この辺りの風景は、私のあの頃と、まったく重なり合うのです。これがカラー映像ですと、どんな小汚いものでも、映像化されると、それなりに小綺麗に映ってしまうのです。

小綺麗でない“キューポラのある街”は、カラー映像では表現できないのです。

このシーンは驚きでした。お母さんが病気で具合が悪くなったと思ったら、何と、何と、妊娠の“つわり”だったのです。オィ!オィ!お母さんは何歳だァ! この辺が、計画的でない、町の鋳物工場で働く職人の夫婦なのです。


それで、あの頃、中3の娘を持つ母親は、こんな年格好が普通だった? いま現在の眼で見ると、孫が居てもおかしくないような気がします。時代は若かったのですが、人間は老けていた? 老けて見えた?
 

これって、栄養とファッションの変化と云う事でしょうか、これは、つまりは所得の変化と云うことかも。

と、云う事は、低成長で所得が低下しつつある現在、男も女も、若者も年寄りも、すこしずつ、年齢よりも、老けて“見える”だけでなく、ホントに身体的に老ける時代に突入しつつある・・・・・・のかも? 

戦後経済も、人口増加も、ピークを過ぎたようですし、高齢化も今が頂点で、平均寿命の伸びもそろそろピークでは? 少子高齢化問題はそれほど深刻に考えなくても大丈夫かも?

映画で、このお母さんの年齢設定ですが、長女が中3ですから15・6歳、結婚は当時としては23・4歳の頃、とすれば、38歳から40歳でしょうか、まぁ、妊娠しても世間的に、笑われることはありません。

このお母さん役は“杉山徳子”で、1926年の生まれで、撮影当時は36歳と云うことです。設定と実年齢はほぼ一緒、でも、かなり老けて見えます。

それで、鋳物工場で働くお父さんの方ですが、そろそろ定年が見えてきた鋳物職人なのです。当時は55歳が定年でしたから、設定は40代後半と云ったところでしょうか。演じている“東野英治郎”は1907年の生まれですから、撮影当時は55歳です、設定よりもかなり老けています。


高校に進学を考えている娘と、悪ガキの小学生に、4・5歳の幼児の3人の子供を抱え、お父さんは町工場を解雇され、そんななか、赤ん坊まで生まれてしまうのです。

古い職人気質で、無学で、無計画で、酒飲みのお父さん、中3の娘にとっては、大変良くできた、反面教師なのです。

新しい時代を体現する中3の娘、それを、あの、“吉永小百合”が、とても、とても、初々しく演じているのです。ここで、やっと、吉永小百合の登場です。


この続きは次回。

それでは、また明日。

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吉永小百合“キューポラのある街”で想いを巡らす①大森実

2010年10月04日 | 映画の話し
“キューポラのある街”です、吉永小百合です。

昭和37年(1962年)の作品です。今から、なんと、なんと、もう、48年も前の作品です。当時、わたしは12歳でした。そうすると、小学校の6年生だったのか?中学1年生だったか? そこいらへんは、あまり定かではありません。 

それで、実は、わたくし5年生の時に板橋区から、北区の赤羽に引っ越したのです。赤羽の川向こうが埼玉県川口市になります。そうなのです、映画の舞台になったキューポラのある街は隣町だったのです。

でも、当時、リアルタイムで観た記憶はありません。そのことはハッキリしているのですが、いつの頃か映画館かテレビで一度観た記憶がうっすらと残っています。

今回、あらためて、じっくりビデオで鑑賞したのですが、先ず、何と云っても、風景が懐かしいのです。白黒の画面は遠い過去の想い出にぴったりと重なり合うのです、


この土手沿いの工場は、つい最近と云っても2年前だったか?通りすがりに、見かけたような気がします。


当時は、こんな風景の灰色の街でした。現在はカラフルな高層マンションが建ち並ぶ街になっています。


この建物も見かけた記憶があります。


これが“キューポラ”の煙突です。


煙突の先のへんてこな部分は、煙の中の煤や灰をそれなりに除去する装置なのです。以前、この煙突のへんてこりんな“先っぽ”のことを“キューポラ”と云うのだと思っていました。キューポラの本体はこの下にある、鉄を溶かす炉のことだったのです。


キューポラの話ではなく、“キューポラのある街”の話に戻します。映画の風景から、当時の川口の風景を懐かしく思い出すのは、12歳当時の記憶ではなく、高校を卒業して社会人となり、仕事で度々川口に行っていた頃のことです。

その当時の勤めていた会社は、クレーンとかエレベーター等の製造販売会社で、設計は自社でやるのですが、製造は外注化していたので、川口にあった協力工場に良く行っていたのです。家が隣町ですから、直帰とか、直行なんてことがよくありました。

その協力工場は経営者も、2~3人居た従業員も、みんな在日朝鮮人でした。社長の長男はわたしと同じ年で、その下に二人姉妹が居り、妹の方が可愛かった記憶があります。

あるとき、たまたま事務所で妹と二人だけになったとき、何故か、話の流れで“○○さんて、とっくに結婚して子供もいると思ってた”と云われたのです。

うら若き女性から、まだ二十歳前後の頃に既婚で子持ちだなんて思われていたこと、とても傷ついたのです。話し方とか物腰がとても落ち着いて大人に見えたそうなのです。40年後いまでも、その時の情景をハッキリ覚えているのです。

もしかして、あの妹に、わたくし、ほのかな想いを抱いていたような・・・そんな気が・・・何となく・・・してきました。あの妹は、いまどこで、どんな暮らしをしているのでしょうか。甘く、すっぱく、切ない、想い出です。

話が映画から逸れてしまいました。でも、この際、もう少し逸れます。

この川口の外注工場で思い出を手繰っていくと、あの元毎日新聞記者で、あの頃、外信部長だった“大森実”と“東京オブザーバー”の事です。

ベトナム戦争の報道で“ベトコン寄りの偏向記事を書いたとして、アメリカからの圧力で毎日新聞を退社させられた・・・その頃そんな噂があったような記憶が・・・”大森実が、週刊の“東京オブザーバー”と云う新聞を発行していたのです。

東京オブザーバーは新聞名のロゴが“鮮やかなブルー”で印刷されていたと思います。駅売りで、当時、その色は目立っていました。

わたしは、その“週刊新聞”を時々駅の売店で購入していました。ある日、ある用件で、川口の工場に行くときに、浜松町駅でオブザーバーを購入し、京浜東北線で川口に向かったのです。

その時の紙面に朝鮮半島情勢を特集した記事が掲載されていました。わたしが持ってきた新聞を社長が真剣な表情で見つめていた記憶がいまでも残っています。

こうやって、当時を思い出し、記憶を辿っていくと、社長も、姉も妹も、長男も、従業員で一番年配だった人も、みんな、その表情が、その情景とともに浮かんできます。不思議なものです。

“人間の脳は過去の出来事のすべてを記憶している”何てことを、いつか、どこかで、聞いた事があります、記憶の糸を手繰って行くと、少しずつ、ホントに記憶が蘇ってきます。

それで、大森実さんの方ですが、調べてみたら、今年の3月25日に88歳で肺炎の為に亡くなっていました。

そう云えば、もう一人、ベトナム報道のジャーナリスト田英夫さんも、去年、86歳で亡くなっています。

大森実、田英夫、懐かしい名前です。

映画キューポラのある街から、かなり、かなり、話が遠くに逸れてしまいました。次回は、たぶん、映画の話に戻ると思います。

それでは、また明日。


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