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近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

「珈琲屋の人々」④-2 スケート場って何処に?原作者 池永陽のノスタルジー?

2020年06月30日 | テレビの話し

前回の続きです。

最終回は、スケート場のシーンから始まります。

前回のラストで、花屋の愛人だった千果と行介の刑務所仲間だった茂、それなりの仲となった二人から「アイススケート場」のチケットをプレゼントされたのでした。。

何故にスケート場でのデートなの?ドラマの展開にそれなりに必要な訳があるの?と思いつつ画面を見つめていたのです。

でも、しかし、ドラマの展開よりも、アイススケート場の存在が、とても気になって、気になって、ドラマ鑑賞はいったん中止。スケート場探しを始めたのでした。

それで、前回のシーンでチケットのアップが映し出されていたのを思い出し、何か手掛かりが?と思い録画を見直すと、チケットには、

『千住スケートスタジアム ~恋人たちのスケート場・ペアチケット~』

とあります。

それで、三ノ輪橋付近に、千住付近に、アイススケート場はあったけ?と調べて見たら、現在も、放送当時(2014年)も存在しませんでした。

たぶんこれは、東京スタジアムに併設されていたアイススケート場からの発想だと思います。でも、なんで、存在しないスケート場で、行介と冬子をデートさせようとしたのか?

東京スタジアムは1962年(昭和37年)に開場し、1972年(昭和47年)に閉鎖。大映オリオンズの本拠地でした。1977年に解体。

原作の池永 陽氏は1950年生まれで私と同い年。愛知県生まれで、現在は岐阜に在住。推測として、高校卒業後上京し、1972年以前、三ノ輪橋付近で暮らした経験があったのかも?知れません。

と、云う事で、スケート場を登場させたのは池永氏のノスタルジー?で、スケート場での、「甘くほろ苦いデート」の想い出があるのかも?

それで、私にも東京スタジアムの記憶があり、十数年前に東京スタジアムの痕跡が残る風景を探して、近所を歩いた記憶があります。

写真に撮った記憶があるのですが、記録はありませんでした。残念!古い写真を探したのですが、近所のコロッケパンの「青木屋」の写真しかありませんでした。

三ノ輪橋商店街から、北に直線で4~5百㍍の距離に東京スタジアムはありました。南千住野球場のあたりです。

南千住野球場の直ぐ上に、荒川工高の文字が見えます、都立荒川工業高校です。この文字を見て思い出すのです。

友達三人と合格発表を見に行った記憶があるのです。私が練馬工高で、もう1人が王子工高で、もう1人が荒川工高でした。王子工高を受験した1人だけが不合格でした。

それと、荒川工高へは常磐線の南千住駅で降りました。帰りに駅で食べた、生まれて初めての「駅の立ち食いソバ」が、美味しかった記憶があります。私の記憶は食べ物と繋がっているのです。

それと、アイススケートですが、私の初めてアイススケート経験は、池袋の「マンモススケートリンク」です。池袋の駅から、かなり離れた山手線沿いにありました。

夏は「マンモスプール」になります。プールの時も、スケートの時も、両方行った経験があります。たぶん、小学生で板橋区に住んでいた頃です。

中学生の頃には、何故か授業で十条のアイススケート場に行った記憶があります。スケート場は昔の方が多かったと思います。50有余年前はアイススケートが流行っていた?

本日は、ドラマと関係なく、私の思い出話に終始しました。歳をとると、これからよりも、これまでが長いので、昔の想い出を語りたくなるのです。

ドラマの話は次回とします。

 

それでは、また。

 


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1 コメント

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Unknown (さかいのぶよし)
2020-07-01 05:39:12
小生は1970年、新津工業高校卒業で上京。「受験生ブルース」の歌詞に東大、京大、一橋、早稲田、慶応が出てくる。エリートのコース。小生は田舎の工業高校出で、どこでもいいように使われていた。東京スタジアム跡地と池袋のスケート場は記憶があります。歩道の敷石は剥げないように見える。1970前後は、線路の石と敷石は機動隊に向かって投げつけたいた。
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