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近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

母の葬儀が終わりました!安倍晋三に地検特捜より事情聴取の要請!すこし気分晴れてきた!

2020年12月03日 | その他

前回の続きです。

13日に入院し、それ以降の出来事の日付感覚が、かなり、かなり曖昧になっています。

13日の入院は、はっきりと記憶しているのですが、亡くなった17日の日付が曖昧なのです。

何故か入院は5日間だった事は覚えていて、時々思い返して、亡くなったのは、5日後で、13、14、15、16、17日と数えてしまうのです。

18日、葬儀の日程を打ち合わせている際にも、「20日(金)通夜、21日(土)告別式で如何ですか?」と聞かれて、「えッ!そんなに先なの?」と云ってしまったり。頭の中が13日で留まっているのでした。

こんな状態ですので、記憶を辿り、記録として綴りつつ、気持ちの整理をしていきたいと思います。

それで、13日は暗くなってから病院から帰宅。ヘッドライトを点灯しての運転は、かなり、かなり、暫くぶりで、それとなく、ちょっぴり不安でした。所要時間は20分程度。

姉に入院したことを知らせたのは、入院した当日、医師の説明を受けた後です。

その後、直ぐに姉の長女にも連絡。長女は看護師で、旦那は循環器が専門の開業医。病状を告げそれなりのやり取りが、二人とあったのですが、ほとんど記憶無し。

14日は、歯ブラシ、カップ、服用しているクスリ、ティッシュペーパーを持って病院へ。現在、コロナで面会は禁止なのですが、ナースステーションと繋がった観察室に案内されました。

ベットに横たわり、酸素吸入のマスクを付けた母の姿。辛そうで、苦しそうで、看護師さんが、「息子さんが見えましたよ!」と母に声を掛けても、あまり反応はなく、私としても、何も言えず、顔を見つめるだけで、直ぐに退室しました。

病状としては、そこそこ安定しており、直ちに命に別状無いと聞き、それなりに安心して帰宅。

15日?の午前?だったか、午後?だったか、病院から連絡が入り、きょう、医師からの説明がありますから、と、来院要請。

病院への道すがら、どうなんだろう?どうなんだろう?もう危ないの?と、思いつつ到着。入り口で検温、手の消毒を済ませ、エレベーター前で係の人に、来院理由を説明、来院者氏名、入院者氏名を記入し、名札を貰い、エレベーターで3Fへ。

ナースステーション前の小部屋で待つこと10数分?医師が現れ、

「病状が急速に悪化している。治療をしても回復の見込みは無い、治療は患者にも負担がかかる、治療を中止して、家族の了解のうえ、緩和ケアに切り替えたい」

と告げられました。

私は、母の辛く、苦しい状態から早く解放してあげたいと思い、

「はい、わかりました、よろしくお願いします」と迷うこと無く、即座に返答しました。

「それでは、麻酔薬の投与を行い・・・」これから先の医師の説明はよく覚えていません。

一言だけ、「どのくらいもつのですか?」「患者さんそれぞれで、今日中かも知れませんし、数日かも知れません」、はい「わかりました」

これで医師から説明は終わり、看護師に案内され、観察室の母の姿を暫く眺め、退室。病院から姉に連絡し、明日、こちらに来るとの返答。

16日、時間はまったく記憶無し、姉と旦那が、姉の息子の車で我が家に到着。病院に連絡し、2名だけに限って面会を許可される。

17日、午前中に姉と二人で面会。帰宅後の午後2時頃に病院より危篤の連絡が入る。2時半過ぎに病院に到着し病室に案内され、母は2時19分に亡くなったことを告げられる。

酸素吸入は続けられていて、強制的に酸素が送られ、一見、呼吸をしている様に見えました。医師の説明では、酸素吸入は家族が見えるまで続けるそうです。

2時半過ぎに葬儀社に連絡し、1時間から1時間半後に、そちらに到着すると告げられました。

私の家はつくば市で、病院は取手市、葬儀社も取手市ですが、霊柩車は土浦市から来ると告げられました。

この間、待っている時間は実際に長かったのですが、それ以上に、とても、とても、長く感じました。

葬儀の細々とした事とか、母をもっと早く病院に連れて行けばよかったとか、親戚への連絡とか、いろいろと考えても、なかなかまとまらず、兎に角、霊柩車はいつ来るのか?とか。

もしかして?間違えて他の病院に?と思い、葬儀社に電話を入れると、退社ラッシュに巻き込まれ遅れているとの連絡が入ったそうで、もう少しお待ちくださいとのことでした。

暫くして、葬儀社の方が現れ、遺体は病院の裏口より霊柩車に乗りました。姉と私は自分の車で後に続き、10分ほどで葬儀社に到着。簡単な打ち合わせをして、詳しくは明日との事で帰宅。

18日の午前中に葬儀の打ち合わせ、金額がはるのが祭壇と、納棺式でした。兎に角、葬儀社ペースで、あれやこれや、そのほか、数十項目を決めていくのです。何が何だか分からないまま、進められます。

私としては、兎に角、総額で、予想の、予算の、範囲を超えたなら、細かい項目を詰めようと、細かい項目には葬儀社ペースに任せました。

結果としては、ほぼ予想の、予算の範囲内でしたので契約成立。

通夜と告別式で、前日に打ち合わせした「川の流れに」と「愛燦々」がシンセサイザーの生演奏で流れたのには驚きました。

シンセサイザーの生演奏は、これまでの葬儀で、見たことも聞いたこともありませんでした。今、初めて、見積書を見たら、二日間の演奏代が13万円とありました。

まあ、もったいない気もしたのですが、当日演奏された女性の生活とか、葬儀社の売り上げとか、社員の生活とか、まあ、世の中は、こんな事で、成り立っているわけですから、それなりに納得。

それに、生演奏の際、式場内の照明が落とされ、祭壇に照明が当たり、司会者より「故人を振り返り、あり日の想い出に浸り・・・」のコメントともに、シンセサイザーから曲が流れると、それなりに心に染みるものがありました。

20日の通夜、21日の告別式、火葬、すべて滞りなく行われました。

母が亡くなってから、十数日が経過しました。

朝起きて、顔を洗って、食事の支度をして、洗濯機を回し、食事をして、朝のウォーキングをして、洗濯物を干して、歯を磨いて、食器を洗って、コーヒーを飲んで、ネットを覗いて、テレビを見て、昼食、夕食、就寝。

あれから、毎日、毎日、同じ事を繰り返しているのですが、やっぱり、母の居ない日常は、とても、とても、変です。

あれで良かったのか? もっとできることがあったのでは? あの時、何で、あんな言い方をしてしまったのかとか、いろいろ、悔やんだり、悩んだり、反省したり、いろいろと思いを馳せる日々。

兎に角、70年間も一緒に同じ屋根の下、暮らしてきた重さは、それなりなのです。

兎に角、「人間は事故や病気では死な無い!死ぬときは寿命!」と、わたくし、常々考えています。

兎に角、わたくし、独居老人の仲間入りをしました。

それでも、楽しく、元気に、過去は振り返らず、前を見て、生きていきたいと思う、今日この頃。

これからも、惚け防止の為に、ブログを更新したいと思う所存。

それと、きょう、安倍晋三前総理が、東京地検特捜部より、任意の事情中聴取の要請を受けているとのニュースがNHKから流れました。

これは朗報です。任意から、逮捕、起訴、有罪、実刑収監を期待します。単なるガス抜きに終わらせない為には、世論の力が重要です。

それでも、安倍が実刑くらって、塀の中に入っても、世の中は良くなりません。多少は空気が綺麗に? 

 

まあ、兎に角、それでは、また。

 

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1 コメント

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Unknown (さかいのぶよし)
2020-12-08 16:14:33
「。。。 死ぬときは寿命!」将棋の内藤國雄さんが歌った「おゆき」に持って生まれた定めまで変えることなどできない~のフレーズに、そうかもしれなと実感する。同じ時代に同じ義務教育を受けても三島由紀夫さんやロッド空港の世界赤軍もいる。一人でない。過去と他人を変えられない。しかし、事実と経験は消えない。
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