歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

念願の宝珠院“光堂”です

2011年03月10日 | お寺・神社
3月9日、一昨日です。小貝川を下り、利根川を下り、念願の“光堂”に行って来ました。

とうとう、遂に、利根川を渡って、


ここから、千葉県は布佐の町に足を踏み入れます。


1月24日から2月9日の5回シリーズ“千葉ニュータウンを目指して”を“書いた時”に発見した“光堂”です。“行った時”には見逃していたのです。

この石柱は、前回も発見したのですが、


500㍍先で眼に入ったのは、


天龍山泉倉寺で、


この本堂が、なかなか良かったので、光堂のことは頭から消え去ってしまったのでした。


帰宅後に“光堂”を調べてみたら、何と、なんと!国の重要文化財に指定されているほどの貴重なお堂だと知り、残念至極だったのです。

脇をかすめた1月23日、あれから45日?の歳月を過ぎた、この日、しっかりと、約500㍍先、泉倉寺の脇で、これを発見したのです。

“光堂”とは書かれていませんが、間違いない筈です。

他人の庭先に入って行くような道なのです。


あそこにも、何か立っています。


鉄柱の方はほとんど何が書いてあるのか判読できません。石柱の方は“光堂道”の文字がうっすら見えます。


右に曲がって、


左に曲がって、


狭くて暗い道を進みます。


民家の脇を右に折れると、


何か、お寺や神社の裏手で良く見かける、


行事用の資材置き場風のものが現れました。


見えてきました。


さあ、宝珠院観音堂、別名“光堂”に到着したようです。


本日はこれまで、この先は、次回と致します。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水天宮に参拝してクシャミ鼻水

2011年03月02日 | お寺・神社
前回の続きです。

“東京メトロ”の“人形町駅”で降りて、水天宮に向かっています。

“東京メトロ”の“水天宮前駅”が見えて来ました。この駅は”半蔵門線”なのです。水天宮に一番近い駅です。地下鉄はホントに何だか良く判りません。このあたりには都営浅草線も走っているのです。地下はかなり入り組んでいるのです。


4~5分で水天宮前の交差点に到着。見えて来ました久しぶりです。孫は今年の5月で8歳になりますから、ほぼ8年ぶりの水天宮です。


天気は良いし、久しぶりの東京だし、安産祈願だし、気分はとてもウキウキだし、景色が輝いて見えます。


こういう物も売ってました。露天販売は、それなりに、なかなかの情緒を感じます。お祭り気分になります。田舎で暮らして偶に東京に出て来ると、ホントに東京は毎日がお祭りのようです。


駄菓子屋さんです。以前来たときよりも、何か、こざっぱりとして、明るくなったようです。


いよいよ、水天宮にお詣りします。水天宮は人工地盤の上に建っているのです。一階は駐車場になっています。


平日(2月25日)ですが大安なのでそれなりの賑わい。


狛犬もなかなか立派。


この正面の大鳥居ですが、全体のバランスを考えると、ここは、明るく鮮やかに“朱色”に塗った方が、ずっと、ずっと、イイと思うのですが・・・・・・。


それにしても、大都会の高層ビルに囲まれて建つ神社もなかなかの風情です。


本殿からご祈祷を終わって、


生まれたばかりの可愛い赤ちゃん達が、ママや、お祖父ちゃんや、お祖母ちゃんに抱かれて、いっぱい、いっばいです。初参りです。


わたしも、本殿に安産を祈願して、お札とお守りを受けます。可愛い巫女さんから“こちらに妊婦さまのお名前をお書き下さい。ご祈祷します”と云われ、ママの名前を書きました。これで安産間違いなし、無事に元気で可愛い赤ちゃんが8月には生まれます。


ベンチに腰掛け、自販機で買ったオロナミンCを飲みつつ、境内の様子を眺めつつ、しばしの休憩。

しばしの休憩後は階段を降りて、裏手のご不浄へ。前回もココで用を足したのです。


裏手は、こんな感じで、駐車場の入り口があります。


この日は大安でしたが、駐車場には空きが有りました。平日は大丈夫のようです。この日は、車で行くか、電車で行くか、迷ったのですが、久しぶりの東京ですから、歩こうと思ったのですが・・・・・・。


兎に角、お参りも無事に済み、“お札とお守り”を懐に入れて、水天宮を後に階段を下ります。


駄菓子屋の前を通りつつ、さて、これからどうするか?と、考えつつ人形町駅に向かう道を逸れ、暫く甘酒横町などぶらついたのですが、来るときに北千住駅あたりから、鼻の具合が良くないのです。


この日は、晴天で気温も上がり、花粉の飛散が、とても、とても、大変だったのです。甘酒横町を歩きつつ、やっぱり、真っ直ぐ返ることに決定。

帰宅後、くしゃみ、鼻水、涙目で、とても忙しい事になり、薬局に駆け込み、鼻炎カプセルを購入しました。

まあ、そんな、こんなの一日でしたが、兎に角、これで、8月には元気な赤ちゃんとご対面なのです。


それでは、また次回。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京メトロで水天宮

2011年02月28日 | お寺・神社
先週、25日の“大安”の金曜日に、東京は中央区日本橋蛎殻町にある“水天宮”に行って来ました。

東京の都心を歩くのは数年ぶりです。お上りさん気分で少々興奮気味でした。

目的は、もちろん、安産祈願です。

この日は、常磐線の北千住駅で降り“日比谷線”に乗り換えるのです。改札を出て、日比谷線に乗るために切符を買おうと思って売り場を探したのです。

ですが、日比谷線の切符売り場が見つからないのです。“東京メトロ”や、“つくばTX”や、東武線等の切符売り場はあるのですが、日比谷線の切符売り場が無いのです。

連絡通路を一旦Uターンして、再度、通路の両側を隈無く眼を凝らして探したのですが、日比谷線切符売り場の文字は発見できないのです。

えッ!どうなってるの?何処で買うの? 行き交う人混み中、不安と動揺で視点の定まらない眼の中に入った“東京メトロ”の文字。もしかして?日比谷線は東京メトロでは? そうだったのです!

券売機の前に立ち、路線図を見上げ、赤い文字の“当駅”を探し、人形町の文字を探すと、やはり日比谷線を発見。それにしても、複雑怪奇な路線図に、それに輪を掛けて複雑怪奇な券売機。

何だか判らないのですが、兎に角、路線図に有った“人形町”と“190円”の文字を頼りに、券売機に百円硬貨を2枚投入して、190円ボタンを押し、切符と10円を受け取り改札に向かったのです。

それにしても、日比谷線はいつの頃から?東京メトロに変わったのでしょうか?そう言えば、最近、時々、テレビで“東京ハート、東京メトロ”なんて、CMが流れていたような?

以前は北千住駅で東武線にも日比谷線にも、ちょくちょく乗り換えていたのです。今回は、完全に、お上りさん状態になってしまいました。

しかし、それでも、券売機を探してウロキョロ状態の時、“そんな状況”を“都会人”に悟られまいと、それなりに、さり気なく、何と無く、待ち人を捜すような雰囲気を漂わせつつ、連絡通路を行ったり来たりしていたのです。

それで、人形町で降りました。


階段を上がった先は、久しぶりの大都会。


何と無く興奮して、左を見たり、


右を見たり、東京マラソンの垂れ幕?がいっぱいです。この道もコースになっているようです。


彼方に、水天宮の屋根を確認し、横断歩道を渡り水天宮を目指しました。



それにしても、今日は寒い! 雨がいつの間にか雪に変わっています。


それでは、続きは、次回。


コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蘇羽鷹神社の庚申堂で徹夜の宴会

2011年02月22日 | お寺・神社
前回の続きです。

いよいよ、蘇羽鷹神社にお詣りします。と、思っていたのですが、鳥居の前に、こんな祠がありました。鳥居の前ですから、神社の境内の外になります。


庚申塚ではなくて“庚申堂”です。“見ザル、云わザル、聞かザル、は、庚申信仰から来ているようです。


庚申塚は都電の駅で有名?ですが、いったい何のこっちゃ?と思っていたのですが、“道教”関連で、そこに土着信仰や、神道の猿田彦神、仏教なども、ごちゃ混ぜになった“庚申講”何て寄り合いがあったようです。

平安時代は貴族が信仰していたようですが、江戸時代の頃より庶民の間にも広がったようで、夜を徹して、飲んだり、喰ったり、していたようです。

本来は、人間の体内には三尸という3種類の悪い虫が棲み、人の睡眠中にその人の悪事をすべて天帝に報告に行くというので、それを防ぐ為、庚申の日(60日に一度)の夜は、眠ってはならないとされたそうです。

徹夜で、何もしないで、黙って過ごす、これはとても退屈ですから、人が寄り合えば、これは、もう、飲めや唄への宴会になります。夜明かしの宴会はても魅力的ですから、これはもう、一般庶民に広がるのです。

裏手には、何やら仏像が並んでいます。


右側は庚申講の本尊で三尸を押さえる神様“青面金剛”のようです。左側は仏様のようです。兎に角、庚申信仰はいろいろ混じっているのです。神様も仏様も人間の都合で考え出されたものですから・・・・・・。


庚申塚、庚申塔、庚申堂は街道沿いに置かれるものですから、昔は、この下の水戸街道に脇にあったのか、それとも、水戸街道が掘り下げられ、街道の起伏を平坦にした際、庚申堂だけが、この地に取り残されたのか? 


それにしても、です。睡眠中にその人が犯した悪事を、体内に棲む虫が天帝に報告するのを、夜通し眠らず阻止する行為が、どうして信仰と呼ばれるのでしょうか、とても疑問です。かなり都合のイイ話しです。

まあ、兎に角、昔は娯楽があまり無かったので、みんなが集まり、夜通しの宴会は、それは、それで、とても楽しい事で、そんなに難しく考えないで“まァ、まァ、権兵も与作も、まぁ一杯”だったのでしょう。


そうでした蘇羽鷹神社です。それでは鳥居をくぐります。


「曽場鷹」が転じて「蘇羽鷹」と呼ばれるようになったと、何処かに書かれていましたが、漢字表記よりも「そばたか」の言葉が先にあった筈ですから、転じたのではなく、表記が変化したのでしょう。創建は天正4年(1576年)


本殿は、鉄の扉を堅く閉ざし、内部の様子を窺うことはできませんでした。


見上げる“しめ縄”は、この頃よく見かける“ポリ塩化ビニール製”か“ポリエチレン製”


本殿が鉄筋コンクリート製ですから、しめ縄も合成樹脂で整合性があるのです。趣には欠けますが・・・・・・。

何度も、火災にあっているようで、現在の耐火建築の本殿は、昭和55年の創建だそうです。


裏には、広場があり、なかなか良い遊び場になっています。この場所で縄文時代の遺跡が発掘されたそうです。


子供とキャッチボールのお父さん、相当に疲れているようで、ベンチに腰を落とし、肩を落とし、しばしの休憩。ご苦労さまです。


以前より、通りすがりに看板の文字を見つめるだけだった“蘇羽鷹神社”


こんな感じの、こんな神社でした。


それでは、また次回。




コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西新井大師あたり

2011年01月13日 | お寺・神社
東京は、























西新井大師でした。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

取手市 長禅寺さざえ堂 ⑥ 境内を散策します

2010年11月17日 | お寺・神社

12日から途絶えていました「長禅寺さざえ堂シリーズ」を再開します。再開した途端に、今日が最終回となります。

それにしても“稀勢の里”ですが、昨日は日馬富士に負けるのでは?と、心配していたのですが勝って安心しました。日馬富士には10連敗中でしたので、そろそろとは思っていましたが、昨日の白鵬戦の後ですから、気力の緩みが心配だったのです。

今日の魁皇戦に勝って、中日まで一敗で行けば、これはもしかして初優勝も何て、考えたりしてしまうのです。でも、ホントに、優勝を狙って一番一番取ってほしいと思います。

さて、それで、長禅寺ですが、さざえ堂を出て、周りを眺めていたら、脇にこんな方の胸像がありました。


“宇田川源次郎像”と刻んであります。住職でもない方が寺の境内に胸像ですから、これは、たぶん、もしかして、寺の発展に貢献した“檀家総代”の方かも知れません。

この方調べて見たら、むかしの県会議員の方でした。この地に胸像が建つのですから、取手選出なのでしょう。茨城で“宇田川”と云えば、石油販売関連の“宇田川グループ”がありますが、何か、関係があるのかも知れません。

まあ、それは、それとして、本堂の方に向かいます。

神社仏閣に来ると、どうしても、この石畳が気になるのです。


やっぱり、直線ではなく、曲げてあるのです。意味ありげに、意識的に、直線を避けているのです。やはり、これは神社と同じく“正中線問題”なのか?この問題、時間がかかりそうなので、別の機会に譲るとします。

石畳の右手は池が、そして、その先に大師堂です。境内の中心に池がありその周りに建物が配置されているのです。


池の畔に腰を下ろす“旅装束の僧”


何を想っているのか、何を見つめているのか、水面に視線を落としているような、遙か彼方を見つめているような・・・・・・。煩悩から解き放たれているような、いまだ迷いを残しているような・・・・・・、そんな後ろ姿が、とてもイイです。


ここ長禅寺は“新四国相馬霊場”の最終地八十八番札所と思っていたら、一番と五番と八十八番の三箇所もやっていたのでした。


一回で三回分です。それに、“利根川七福神めぐり”の大黒天でもあるのです。う~ん、かなり有り難いお寺です。神様も仏様も、ヒンズー教も仏教も道教も、日本古来の信仰も、みんな、みんな、入り交じって神仏習合です。


この辺の、曖昧なと云うか、些細なことに拘らないと云うか、懐が深いと云うか、世界の未来を象徴していると云うか、暗示していると云うか、もう、何と云ったらいいのか・・・・・・です。

ありました。新四国一番。


取手本陣もこの期間公開中ですか? あちらは、いつでも、週末の金土日は公開していなかった?


いろいろと考えさせてくれたところで、長禅寺を、さざえ堂を、後にします。


私と同年配のこのオジサン、65段の石段を登ったり下りたり汗を流しておりました、体力増強です、ご苦労様です。


昼は、取手駅前の松家で“豚丼の豚汁セット510円”を頂きました。豚のダブルです。

けんちん汁を啜りながら、アレっ、この味、何か? そういえば、昨日の夕食も、今朝も“けんちん汁”だったと・・・・・・。


同じような具材の汁物を、3回も連続で食べていたのです。う~ん、何か、かなり危なくなったのかも?

兎に角、これで、茨城県は取手市の、長禅寺さざえ堂シリーズを終わります。


されでは、また明日。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

取手市 長禅寺さざえ堂 ⑤ 履き物は出口に御移動ください

2010年11月12日 | お寺・神社

昨日の続きです。

一層の板東三十三霊場、二層の秩父三十四霊場、三層の西国三十三霊場のご本尊を百体拝み、これで“日本百観音”を踏破したことに・・・なったりは・・・しないか。

まあ、本物の百観音を参拝することは、むかしの人も、今の人でも、かなりムズカシイ一大事業ですから、お寺一箇所で、お堂を一層から三層まで上り下りして済ます、こう云う、手っ取り早い方法は、とても便利で有り難いことなのです。

まあ、それでも、年中、休み無く、毎日、参拝できる訳ではなく、年一回の観音開帳の日に限定しているところが“味噌・醤油・味の素”なのでしょう。

百観音のお詣りを済ませ、清々しい気持ちで、“正面テラス?”より下界の景色を眺めます。鐘楼越しの木立の隙間から、利根川の流れがほんの少しだけ望めます。


方角的には富士山も見える筈ですが、ビルに阻まれているようです。もしかして、いつか、そのうち“東京スカイツリー”が見えるかも知れません。

長禅寺三世堂のテラスから眺める“東京スカイツリー”は、かなり絵になると思います。

こちら境内の眺めもなかなかです。


正面テラス以外の三方は雨戸が閉まり、外を眺めることはできません。でも、しかし、雨戸をそっと、そっと、開けて、見たのです。

まあ、こんな感じと、



こんな感じと、


こんな感じでした。


遠くは見えないので、近くの手摺りに眼を落とすと、手摺りの“繋ぎ隠し兼飾り金具”を見ると、こんな物にも寄進者の名前が刻まれているのを発見。

“取手宿”は判読できたのですが、名前までは判りませんでした。


宝暦13年(1763年)の昔から、ここにずっとこうして二百四十有余年、人の眼に触れることも無く、風雨に打たれ輝きを失い、忘れ去られた金具さんです。

今でもそれなりに役割を果たしているのです。昔は、ピッカ、ピッカに輝く銅板の飾り金具だったのでしょう。まあ、これからも、ここでしっかり頑張って下さい。あなたのことは忘れませんから。

日陰で湿った処で外を鑑賞していたら、とても感傷的になってしまいました。そろそろ下に降りることにします。

傾斜きついハシゴ段は、上りよりも下りがたいへんなのです。小太りのおばさんが“コリャ大変だわァ、私は後ろ向き降りるわァ”と、元気な声でしゃべりつつ降りて行きました。

こちらのオジサンは未だ前向きです。私も当然前向き降りです。


一層に降り出口に来ると、靴は入り口にあり、出口から入り口に靴を取りに行くには、柵を乗り越えるか、入り口まで土間を裸足で歩くか二つに一つです。このオジサンは奥さんが土間を歩いて靴を持って来てくれたのです。


私は当然、柵を跨いで一方通行を入り口方向に逆走し靴を履きました。入り口付近をよく見ると、こんな注意書きの“貼り紙”があったのです。

先客の靴が入り口に並んでいたので、貼り紙に目もくれず靴を脱ぎ、ここに置いていったのです。一人がすると、その後の人も、またその後から来た人も、何も見ず、何も考えず、前例に従ってしまうのでした。


なかには、しっかり貼り紙を読んで出口にちゃんと移動させている方も居られました。あんた達はエライ!


自分のミスを棚に上げ、う~ん。もう少し簡単明瞭に“靴はアッチの出口→”と書いてあった方が・・・・・・、何てことを考えつつ外に出たのです。


飾り金具と云い、靴と云い、観音様のお陰で、最後に、いろいろと考えさせられる、さざえ堂参拝でした。


もう少し、境内をぶらつきます。


それでは、また来週。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

取手市 長禅寺さざえ堂 ④ 西国三十三の中心に四国八十八

2010年11月11日 | お寺・神社

昨日の続きです。

最上階の三層に向かいます。

左脇を通って、


右に曲がります。


仏様の前には、仏様別に“お賽銭箱”が設置されています。投入口は別々にあるのですが、中は繋がっているか?繋がっていないのか? 仏様別にお賽銭の額を集計したりして? そんなこと意味ないか?


右に曲がって、上りのはしご段です。


こちら三層目は“西国三十三ヶ寺”となっています・・・、と思っていたら、正面の厨子の右脇には“四国八十八番”とあり、 


左脇には“播州大窪寺”とあります。


入り口の説明板には、一層が“板東三十三”で、二層が“秩父三十四”で、三層は“西国三十三”となっていました。確かに、周囲に並ぶ観音様は西国のご本尊です。


正面、厨子の中の仏様は、一層が十一面観音で、二層がお釈迦様でした。三層は四国八十八霊場の最後の寺、香川県は“大窪寺移”とあり、そうすると、厨子の仏様は大窪寺のご本尊“薬師如来”かと思いきや、どうも、そのお姿から、そうでは無さそうです。


何故? 三層の西国三十三に、四国八十八番の大窪寺があるの? 厨子の中の仏様は誰?と思ったのです。

調べてみたら、“新四国相馬八十八霊場”と云うのがあり、宝暦の頃より始まったようで、千葉県柏市に4ヶ所、我孫子市に26ヶ所、そして取手市に58ヶ所あり、その88番札所が長禅寺になっていたのです。

本場四国の八十八番が“真言宗大窪寺”で、新四国の八十八番が“真言宗長禅寺”で、真言宗と八十八の繋がりでした。

と、云うことは、厨子の中の仏様は、その衣装、その頭髪、手に数珠から、これは、もう、真言宗の開祖である弘法大師、空海上人に間違いありません。

それにしても、いろいろな霊場巡りがあるもので、庶民のすごいエネルギーを感じます。

そも、そも、巡礼は、現世で意識的にも無意識にでも、いろいろと犯した罪を明らかにし、仏様に赦しを希い、来世は必ず極楽浄土へ・・・、何て、まあ、とても、都合のよい話しのような気もします。

まあ、実際には、物見遊山の要素が多分にあったと云うか、宗教行為を装いつつ、実は物見遊山が主であったりして、と、思うのです。昔は物見遊山を目的として諸国をブラブラする何て事は不可能でしたからね。

諸国を見て歩きたい、極楽浄土へも行きたい、そんな庶民の需要に、供給側のお寺さんが応えて、いろいろな巡礼が盛んに行われたのでしょう。

諸国のいろいろな寺を巡り、いろいろな仏様に手を合わせ拝むことは、それなりに心が洗われ、それなりに極楽浄土に行けるような、そんな気がしてくるものです。

わたしも、いつの日にか、四国巡礼の旅などに行って見たいと思う今日この頃です。


もう少し、さざえ堂の話しは続きます。


それでは、また明日。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

取手市 長禅寺さざえ堂 ③ 一人でも文殊の知恵で答えが

2010年11月10日 | お寺・神社

昨日の続きです。

二層に上がります。正面左手側より靴を脱いで板の間に上がります。正面に見える階段は下り専用で手摺りにより遮られています。


右に曲がります。


壁側三面にはずらりと観音様が並んでいます。


右に曲がります。


階段と云うか、急勾配なので、どちらかと云えば“ハシゴ段”です。


こちらが二層です。


修繕の手が入っています。かなり最近ようです。


いま上って来た梯子段です。


全面板張り、一層目と異なり周囲の土間が無い分、広々感があります。


二層目は“秩父三十四ヶ寺”となります。関東一円に広がる板東三十三ヶ寺と異なり、秩父三十四ヶ寺は、こぢんまりと埼玉県秩父地方にある34か所の観音霊場巡りで、行程は約100kmです。


右に、ずらり、


左に、ずらり、観音様が並んでいます。


正面中心の厨子の中に居られ仏様は、


お釈迦様のようです。中心に釈迦如来、脇には普賢菩薩と文殊菩薩と思しき仏様が並んでいます。釈迦三尊のようです。


昨日の百体か百一体かの答えが見えて来ました。これは、どうも、正面中心の厨子に祀られている仏様は、百体の観音像とは別格だったようです。

来年の4月18日の御開帳を前に答えがあっさり出たようです。これも“文殊様”の御利益でしょうか。三人も寄らなくても、一人で答えが出せたのは文殊様だけではなく“釈迦三尊”の御利益なのです。

釈迦如来のお顔は、優しい表情で、とても魅力的な仏像です。

お釈迦様に向かい、頭を下げ、手を合わせ、その後にシャッターを切りました。

次は三層になります。

それでは、また明日。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

取手市 長禅寺“さざえ堂” ② 観音様は百一体か百体か?

2010年11月09日 | お寺・神社

昨日の続きです。

いよいよ、“特別公開”の三世堂の内部に入ります。

それで、一応、三層構造ですが、一応このようになっています。この図で解ると思いますが、“さざえ堂形式”とは、単に、登り用の階段と、下り用の階段が別々に有る、と云う、とても簡単な建築形式なのでした。

【一層】


【二層】


【三層】


はじめ“さざえ堂”と聞いた時は、建物内部の外壁に沿って螺旋状に階段が巡らしてあるのか?と、思いを巡らしたのですが、そうでは有りませんでした。これで行くと世の中には沢山の“さざえ堂形式”の建物が存在するのことになります。

三世堂が三層で有ることはには、特に意味は無いようです。入り口の説明板には、一層には長禅寺のご本尊と、“板東三十三ヶ寺”の本尊三十三体、二層には“秩父三十四ヶ寺”の本尊三十四体、三層には“西国三十三ヶ寺”の本尊三十三体、計百体が祀られているそうです。

先ずは、一層の板東三十三ヶ寺ですが、東京一箇所、神奈川9箇所、埼玉4箇所、千葉7箇所、栃木4箇所、群馬2箇所、で茨城が6箇所の計33箇所になっています。

東京の一箇所は、あの超有名な“金龍山浅草寺”になります。一番札所と思ったら“第13番札所”でした。因みに一番は神奈川県は鎌倉の“大蔵山 杉本寺”でした。

それで、茨城の6ヶ寺にこの長禅寺は、残念ながら入っておりません。


板東は三十三体の観音様が並んでおります。


こちらが、ご本尊です。ご本尊の千手観音様は“御開帳”の時にしか拝めないのでした。今日は、あくまでも教育委員会による“三世堂の特別公開”なのです。御開帳は毎年4月の18日だそうです。

創建が文暦元年(1234年)再建が宝暦13年(1763年)だそうです。その間五百有余年、チョット調べたところ創建された当時は競輪場の近くで現在の場所とは異なるようです。

居並ぶ観音様のお姿を眺めていたら、説明板にあった、板東33体、秩父34体、西国33体、計100体の観音様とあったのですが、長禅寺の千手観音様が加わると101体の観音様が安置されているのでは?と、書きながら疑問がわいてきました。来年の4月18日には、一層から三層までの観音様の数えてみたいと思います。


こうして、いろいろお寺を巡った方々が記念にこういう額を奉納するようです。大正9年1月、東京は神田鍋町の講元の中久さんです。


こちらは、明治20年3月、下総の国の方々です。


明治の時代に、西国、板東、秩父の百ヶ寺を巡るのですから、どういう方々なのでしょうか、板東だけで1200㎞もあるのです。財力と時間に相当なゆとりのある方々のようです。

こちらの額は“文化財指定書”なんとも、まあ、簡素なものです。茨城県教育委員会も、もう少し何とか、それなりに重みのある様式にしたらと、思ったりして眺めてしまいました。


この辺で一層の見学と参拝を済ませ、二層に上がることにします。


それでは、また明日。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする