世界をスケッチ旅行してまわりたい絵描きの卵の備忘録と雑記
魔法の絨毯 -美術館めぐりとスケッチ旅行-
もしも女性に胸と腰とがなかったら






ここ数ヶ月、映画にはまっている相棒。私を巻き込んで、2、3日に一本のペースで映画を観る。
相棒には、この監督の撮った作品は全部観る! という厄介な目標があって、ジャン・ルノワールもその一人。彼は印象派の画家ルノワールの息子。
ピエール=オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir)は、印象派の巨匠としてモネと並んで必ず名前が上がる。人気も高い。
ルノワールの絵は親しみやすい。羽のような軽やかな筆致で描かれた、日常のワン・シーン。揺らめく木洩れ陽の表現はそのまま光への讃歌、生への讃歌、明、陽、朗、愉、健、喜、等々への讃歌となっている。
「絵は楽しく美しいものでなくちゃならない。これ以上我々が生み出さなくても、人生には不愉快なことがいくらでもあるじゃないか」
……これが彼の持論の根本だった。
父は仕立屋、母は針子という労働者階級の出身。幼い頃から絵が得意で、あのグノーが音楽の道を勧めたのを断って、陶磁器の絵付職人の徒弟として絵の経験を積んだ。
筆の速い彼は他の徒弟の倍も仕事をこなし、機械化の波が絵付の世界にも及んだときには、美術学校で学ぶだけの金を貯めていた。シャルル・グレールの画塾でモネやシスレー、バジールらと出会い、やがて印象派という新しい絵画の流れへ……
とまあ、誰でも知ってる画家ルノワールの有名な生い立ち。
けれども、彼本人が印象派としての意識を持って描いたのは、その画家人生の初めの1/3期で、次の1/3期は、混迷のスランプが長らく続く。
多作な彼のことだから、この時期のスランプ作品は山とあり、美術館でも結構出会う。著名なルノワールのものだからと美術館が買い込んだに違いない、ぐちゃごちゃに締りのない絵の数々。
器用なルノワールは、印象派様式の形成期、モネと共に光の表現を追求すると同時に、生活のために、柔らかなタッチのブルジョアジー肖像画をせっせと描いていた。ので、彼の印象派技法の時代にも様々な画風が混在している。
そこに突如、印象派技法からの脱却を図ったわけだから、その画風はもう混沌状態。
移ろう光を捉えようとするあまり、対象の形が不鮮明となる印象派の技法。これに不満なルノワールは、古典主義に立ち返り、堅牢な画風を構築しようとする。
が、もともと職人的な彼のこと、手が勝手に動いてしまう。印象派の技法から抜け出せず、駄作、凡作、失敗作が量産される。う~う、描けん、描けん! と唸る日々が続くこと数年。
手堅いフォルムを追求するあまり、柔らかだった色彩までもが硬く渋く酸っぱく凝り固まる。なんでそんなに暗い色で描いてんの? と訊かれてハッとなった彼は、ようやく従来の暖かな色彩を取り戻した。
その頃にはもう、持病の関節リュウマチが悪化している。残りの1/3期、彼がようやく到達したのは、金色とバラ色と真珠色の豊満な色彩と流麗な筆触で描かれた女性像だった。
悩める画家の迷える変遷のなか、一貫して変わらなかったのは、女性、その肉体、その肌への愛着だった。この愛着が、澱みのない、溶け合うような画面へとたどり着かせた。彼の画面の輝きは、女性の肌の輝きだ。
それらは次第にエスカレートして、最後には赤と緑のぶよぶよに膨らんだ裸婦像に行き着いたのだけれど、ま、いいでしょう。
「もし女に乳房と尻がなかったら、私は絵描きにならなかっただろう」というのは、ルノワールの有名な言葉。
いささか顰蹙ものだし、実際、彼の肉体表現はフェチ的なところがあるのだが、このストレートな女性礼讃がなければ、ルノワールは凡庸な画家で終わっていた、と思う。
画像は、ルノワール「テラスにて」。
ピエール=オーギュスト・ルノワール
(Pierre-Auguste Renoir, 1841-1919, French)
他、左から、
「桟敷席」
「女のトルソ」
「ルグラン嬢の肖像」
「ピアノに向かう少女たち」
「足を組む裸婦」
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