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魔法の絨毯 -美術館めぐりとスケッチ旅行-

 世界をスケッチ旅行してまわりたい絵描きの卵の備忘録と雑記

銀光の叙情

2008-08-25 | 月影と星屑
 

 この夏は美術館三昧。東京まで「コロー展」に行ってきた。学生の頃、コローはモローと並んで、トップクラスで好きだった画家。

 銀灰色を帯びた鈍色に輝く森の風景。緑と褐色の微妙な諧調に薄靄のような銀のヴェールがわたる。煙るような柔和な光に揺れる樹葉や湖水。優美なフォルムと即興的なタッチ。リリカルでノスタルジックな、独特の詩情。
 が、私のなかで、モローが常にトップクラスだったのに対して、コローの相対評価は下がっていった。マンネリで類型的で、同じような絵しか描かなくなってしまった。人気を得て、その人気に沿った絵しか描けなくなってしまった。……そんなふうに、斜に構えたうがった見方になった。私も青かったのかな。

 ジャン=バティスト・カミーユ・コロー(Jean-Baptiste Camille Corot)は、フランス風景画の大家。その、自然を深く見つめた風景は、シスレーやピサロら若い画家たちにも影響を与えた。

 父は裕福なラシャ商で、ようやく父から絵の道を許されたとき、コローは生活の心配なく画業に専念することができたという。そして、父の援助のもと、北フランスを旅行、そしてイタリアへ。
 コローを支えた彼の両親は、しかし、彼の画家としての才能には期待していなかったらしい。コローは自分の絵が世に評価されるのを、愛すべき両親に見て欲しかったに違いないが、それを待たずに両親は相次いで死去する。

 母を亡くした頃から、コローはあの独特の、ニンフのような人影の佇む、銀色に輝く小暗い森景を描くようになる。この夢幻的な風景は爆発的な人気を博し、注文が殺到、コローは一躍、富と名声を得て、時の画家となった。
 が、相変わらずつましい生活を送り、ドーミエを初め貧しい画家たちを助けたというから、人間ができていたんだと思う。

 コローは田舎を愛し、森を逍遥して写生し、ロマン派の詩を好み、大のオペラ好きでもあったという。そんなコローが、ロマンティックな森のなかにオペラ座の踊り子よろしくニンフを輪舞させた絵を、自身大いに気に入って、何度も描いたというのは、うなずける。
 そうした趣向の絵が世に認められ、皆に求められれば、素直に喜んだろうし、もともと、頼まれれば断りきれない、人情の厚い人柄でもあった。
 ならば後年、三十年近くも、コローがああした風景を繰り返し描いたのは、やはり、世評のしがらみからではなく、心から好んでのことだったのだろう。……今では単純に、そう思える。

「自然こそすべての始まりである」というのは、コローの名言。
 風景画家なら、やっぱ、こうありたいもんだ。

 画像は、コロー「四角い塔へと通ずる水流」。
  ジャン=バティスト・カミーユ・コロー
   (Jean-Baptiste Camille Corot, 1796―1875, French)

 他、左から、
  「湖畔、イタリアの思い出」
  「白樺の下で草を食む牛」
  「モルトフォンテーヌの思い出」
  「真珠の女」
  「青衣の婦人」

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幻想と現実

2008-07-15 | 月影と星屑
 

 随分前になるけれど、「色彩の詩人 シャガール展」に行ってきた。
 入場無料の記念日を選んで、これまた駅前の無料レンタサイクルで、暑いなか、上り坂をえっちらおっちら。車道の自動車が排気ガス出してぶんぶん追い抜いていくのを見ると、なんだか自分が馬鹿みたい。あー、個人間でCO2排出権取引ができれば、こんなに不満じゃないのになー。

 シャガールは日本じゃ人気があるらしい。幻想的だとか夢幻的だとか、ユダヤ的だとか宗教的だとか、スピリチュアルだとかプリミティブだとか、シュールだとかファンタジックだとか、いろいろと形容される。
 私はシャガールが特に好きというわけではなく、印象も薄いのだが、20世紀のロクでもない現代絵画のなかにあって、彼の絵は浮いている分、好もしく感じる。

 奇妙な牛や馬や鶏、曲芸師や道化師、バイオリンを弾く楽士、袋を背負ったユダヤ人、といった独特のモティーフ。冬空に似た、靄のようなミルク色。人々は逆立ちしたり、空に浮かんだり、頭が裏表あったり上下逆になっていたり。
 心象風景のように懐かしく、どこか淋しげで、諦観した静けさが漂う。あ、これいい。なんかいい。なんとなくいい。……それで済んでしまう、言葉の要らない素直な世界が、シャガールの良さだと思う。

 若い頃の自画像を見ると、ダルビッシュのような吊り眼の、ツンとした雰囲気の顔なのだが、写真を見ると、笑っている上に眉毛が下がっていて、とても愛嬌がある。きっと根の明るい、素直な人柄だったのだろう。壁画「ユダヤ劇場」(左端に、キツネの尻尾発見!)なんかを観ていると、描きたいものをつい描いてしまう、といった素直さ、奔放さを感じた。

 マルク・シャガール(Marc Chagall)は白ロシア(現ベラルーシ)の古都ヴィテブスクの、貧しいが敬虔なユダヤ人家庭の生まれ。彼の絵には頻繁に、この故郷の情景が登場する。やがて画家を志し、サンクト・ペテルブルク、そしてパリへ。
 パリでは若い芸術家たちのコミューン、モンパルナスの“ラ・リュッシュ(蜂の巣)”で切磋琢磨。ここには隣人モディリアーニを初め、スーティン、ドローネー、レジェなどが暮らしていた。
 帰郷の際、第一次大戦が勃発。故郷での滞在が長引くなか、初恋の女性ベラと結婚。この頃の彼の絵は、最愛の妻をミューズに得、薔薇色の幸福感で膨れ上がっている。

 ロシア革命が起こると、シャガールも芸術人民委員なんてものに任命される。このとき、抽象絵画で有名なマレーヴィチとの確執から故郷を去り、やがて、芸術が革命の従属物として扱われるようになった故国をも去ってゆく。シャガールも、また彼の絵も、あまりに人間臭かったのだろう。
 第二次大戦が勃発すると、ナチス・ドイツの迫害を逃れてアメリカへ亡命。すでに名声を得ていた彼は、アメリカで大歓迎される。が、妻ベラが病死。悲嘆に明け暮れた彼は、絵筆を持つこともできなかったという。

 戦後はフランスに戻り、南仏に移り住む。ベラの死を癒してくれた恋人ヴァージニアが、フランス男のもとへとトンズラし、再び一人残されたシャガールだったが、ユダヤ人である新しい伴侶、ヴァランティーナ(ヴァヴァ)と再婚。ようやくの平穏を得て、実りある晩年を送り、長寿をまっとうした。

 画像は、シャガール「誕生日」。
  マルク・シャガール(Marc Chagall, 1887-1985, Russian)
 他、左から、
  「村のサーカス」
  「エッフェル塔の新郎新婦」
  「花束と空飛ぶ恋人たち」
  「戦争」
  「バイオリン弾き」

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もう一人の印象派女流画家

2008-06-21 | 月影と星屑
 

 印象派に括られる女流画家の有名どころは、ベルト・モリゾとメアリー・カサット、そしてエヴァ・ゴンザレスだろうか。家庭の日常のワン・シーンを、女性らしい感性で描いた画家たち。
 悪く言えば、女性の、しかも社会的に恵まれた女性の、制約された狭い視野で描いた風俗画なのだろうが、それでも新鮮だし、柔らかでこやまかだし、愛情にも満ちているしで、つまらない絵ではない。ので、私は悪くは言わない。
 このうちゴンザレスは、早世したため、彼女の絵に出会う機会はあまりない。
 
 エヴァ・ゴンザレス(Eva Gonzales)はモリゾやカサットと同じく、良家の出で、当時、上流階級に人気のあったお教室、シャルル・シャプランのアトリエで、絵を学んだ。
 女性にはまだまだ制約の多かった時代。絵を描くことも、趣味のよい嗜みとして奨励されていたにすぎなかったのだが、ハタチのときに、父親の紹介でマネに出会い、一気に人生が画業へと傾く。このときマネは、美貌のゴンザレスにすっかりまいってしまって、すぐさま、モデルになってくれと申し込む。
 こうしてゴンザレスはシャプランのアトリエを飛び出し、マネの弟子兼モデルとなる。彼女は、マネが唯一認めた、正式な弟子だという。

 ところで、マネのモデルを務め、マネから強い影響を受けつつ絵を描いた、美しい女絵描きと言うと、やっぱりモリゾを思い出す。

 マネとモリゾの関係には、当時からいろいろ噂のあったところだが、モリゾがマネを恋い慕っていたのは、どうやら本当らしい。モリゾがマネに出会って、モデルとなるようになったのは、彼女が27歳のとき。それまでも本格的に絵を描いていたモリゾは、マネの斬新なスタイルを熱心に学ぶ。
 翌年、自分より8歳も年若いゴンザレスが、マネのお気に入りの弟子として登場する。ゴンザレスの絵は、彼女が早くに死んでしまったせいもあるだろうが、主題も色使いも、マネのスタイルに似通っている。ゴンザレスは印象派に括られることが多いが、モリゾとは異なり、師マネに倣って、印象派展に出品しようとはしなかった。

 マネが容赦なく手を加えて描き変えてしまった絵が、サロンに入選し、モリゾは大いに嘆いた、というのは、有名なエピソード。そんな彼女だから、マネへの尊敬と愛情、自身の画家としての自立心のあいだで揺れ動くなか、ゴンザレスの存在はとても気になるところだっただろう。
 「マネはゴンザレスのことしか褒めやしない」、「でも、思いがけず私の絵を褒めてくれた。ゴンザレスのより私の絵のほうが、よかったのね」……とかなんとか、モリゾが言っていたと、どこかで聞いたことがある。

 で、そんななか、マネとは似ていない、マネの弟ウジェーヌからのプロポーズに、モリゾがOKしたのには、彼女の強い理性を感じてしまう。女性は、自分が愛する男性とよりも、自分を愛してくれる男性と一緒になったほうが、幸福になれると言うもんね……

 一方、ゴンザレスは、マネの友人と結婚するが、産褥後、塞栓症の発作で死んでしまった。わずか34歳。このとき、マネの死後、一週間と経ってはいなかった。

 画像は、ゴンザレス「コップの薔薇」。
  エヴァ・ゴンザレス(Eva Gonzales, 1849-1883, French)
 他、左から、
  「朝の目覚め」
  「こっそりと」
  「白いドレスの女」
  「扇を持つ婦人」
  「繻子の靴」

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地上の楽園を求めた画家

2008-06-18 | 月影と星屑
 

 人間にはセンスというものがある。その画家の人間性はさておき、その絵の社会的価値を認め、その画業の歴史的意義を認めた上で、やっぱりその画家の絵を個人的に好きになれない。そういう画家もいる。
 で、私の場合、ゴーギャンの絵をよいと感じたことがない。今までゴーギャンの絵は何枚も観てきたし、これからもゴーギャン展には足を運ぶだろうに、あのプリミティブな神秘性を実感できない。……つまり、私はゴーギャンとはセンスが異なるわけだ。

 ポール・ゴーギャン(Paul Gauguin)は、ご存知、後期印象派の最重要な画家の一人。後期印象派というのは、どちらかと言うと誤訳で、実際にはポスト印象派(Post-Impressionism)、つまり印象派を超えた画派、という意味。

 ゴーギャンはもともと株式仲買人で、ただの日曜画家だったところが、趣味が高じて、当時前衛だった印象派のピサロから教えを受け、印象派展にも出品。この頃は仲間内から、「ピサロの下手糞な模倣」なんて評されている。
 株価の暴落をきっかけに、画業への専念を決意。生来、ゴーガン不遜な、尊大な、自信過剰な、楽天的なゴーギャン。金に詰まり、妻子と別居しても、
「最後には僕は第一級の仕事を成し遂げるよ。芸術において僕は結局、常に正しいのさ」

 ちょうど、自然を追求する印象派への反動から、画家自身の内面を暗示する象徴主義がブームとなりつつある頃。土俗の伝統を持つブルターニュの小村、ポン=タヴェンに移ったゴーギャンは、そこで自分の半分くらいの歳のエミール・ベルナールの、七宝細工(cloisonne)から霊感を得たという、単純な太い線で区切ったなかを純色で塗り潰して色面を作るスタイルに、感銘を受ける。
 これが、ポン=タヴェン派が用いたクロワソニスム(Cloisonnism)で、彼らの総合主義の理念を表現する手法となった。これによってゴーギャンもまた、対象の絵画的、装飾的な要素を様式化・図案化して表現する画風を確立する。
「自然をあまり模写しすぎちゃいかん。神に到る唯一の方法は、神のなすこと、つまり創造をすることだ」

 が、後にゴーギャンは、このスタイルを生み出したのは自分だ、と豪語。これにはベルナール、大憤慨。

 こんなゴーギャンだから、ゴッホと一緒にやっていけるはずもない。ゴーギャンを迎えるべく、心を配って丁寧に部屋を準備したゴッホ。だがゴーギャンは、寝室の壁をポルノグラフィで埋め尽くすような男なのだ。
 費用はゴッホ(実際は弟テオ)持ち、というウマい話に飛びついただけの彼は、ブルターニュでと同様、指導者を気取り、ゴッホを弟子扱いして、描き方まで横柄に指図したからたまらない。二人の生活は、あっという間に破綻。ゴーギャンは耳を切り落としたゴッホを捨てて、さっさとパリに逃げ帰った。

 そして数年後、突然、タヒチへと旅立つ。

 ペルーで育ち、若き日には船乗りとして中南米や南洋を渡航したゴーギャンが、西洋文明に失望し、色鮮やかでエキゾチックな未開地を希求してやって来た、南海の孤島。だが、すでにそこも西洋文明に蝕まれていた。
 それでもパリよりマシだろう、と、13歳のヴァヒネ(愛人)と暮らしつつ、絵を描く。が、相変わらずの貧困に加えて、やがて自業自得の梅毒にも冒され、やむなく帰国。

 だが、一度捨てた祖国では居場所がない上に、絵も売れない。再びタヒチへと渡り、14歳の新しいヴァヒネと暮らして絵を描く。
 そしてそのまま、辺鄙なマルキーズ諸島で客死した。

 ゴーギャンは確かに、芸術家ではあったと思う。野垂れ死に、万歳!

 画像は、ゴーギャン「アハ・オエ・フェイイ(おや、妬いているの)」。
  ポール・ゴーギャン(Paul Gauguin, 1848-1903, French)
 他、左から、
  「少女」
  「“黄色いキリスト”のある自画像」
  「イア・オラナ・マリア(マリア礼讃)」
  「アレアレア(楽しいとき)」
  「マナオ・トゥパパウ(死霊が見ている)」

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印象派の巨匠

2008-06-13 | 月影と星屑
 

 ちょっと前になるが、「クロード・モネの世界展」に行った。日本では印象派が一番人気だし、クロード・モネ(Claude Monet)はその印象派の巨匠だからして、モネの絵を観る機会はダントツに多い。

「鳥が歌うように、絵を描きたい」
 こう言ったのは、確かモネだったと思う。

 絵画とは多分に右脳的、と言うか視覚的なものだが、印象派の絵は特にそう。今この瞬間に眼前にあるものを描く、というコンセプトにも関わらず、描かれた絵は、いわゆるリアリズムとは随分、趣が異なる。
 何が描かれているのか、と思ってよく観ると、何が描かれているか分からないこともある。が、そんなことを思わないで観ると、すっと分かる。
 モネは眼の前に見える木を、水を、家を、人を、どんな色でどんな形のもの、という自分だけの印象として捉えるよう、教えたという。……これは実に絵画的で、絵を絵のように描けるやり方らしい。

 そして長寿の生涯を描き続けたモネだから、いつからか、きっと、鳥が歌うように絵を描けるようになった、と思う。

 有名な話だが、絵が得意だった少年モネは、地元ル・アーヴルで風刺画を描いて小遣いを稼いでいた。これがル・アーヴルの海景画家、ウジェーヌ・ブーダンの眼にとまる。
 ブーダン先生、戯画で才能を終わらせるのを惜しんだか、あるときモネ少年を連れて、いつものとおり戸外で風景画を描いてみせた。
 突然、眼から鱗の落ちたモネ少年。以来、風景画にハマり、やがて絵の勉強のためパリへと旅立つ。

 一時ル・アーヴルへと戻ったモネは、今度はそこで、オランダ出身の夜の風景画家、ヨハン・バルトルト・ヨンキント先生に出会う。
 く~、モネってば運好すぎ。さすが、優美なる港町、ル・アーヴル!

 再びパリに出た彼は、同じ画塾のルノワールやシスレー、バジールらと親交を結び、後にグループ展を開催。このときモネが出品した「印象、日の出」から、「印象派」という名称が生まれた。
 愛妻カミーユと幼子ジャンとともに、セーヌ河畔のアルジャントゥイユで暮らした頃のモネの絵の、印象派に特有の明るい陽光は、現在の幸福と未来への希望とを照らすかのように輝いている。

 が、依然、絵はブレイクせず、極貧を甘んじる印象派の面々。モネも例外ではなく、しかも彼のどん底生活を支えてきた実業家オシュデが、いきなり破産。自殺し損なったあげくに、妻子を残してトンズラする。
 パトロンを失ったモネ一家と、破産したオシュデ一家は、やがて一緒にヴェトュイユへと移り住む。モネ一家4人、オシュデ一家8人の大家族。で、モネとオシュデ夫人アリスとは、この頃から恋愛関係にあったらしい。
 カミーユの夭死後、この大家族は転々とした後、終生の地ジヴェルニーに落ち着く。が、晩年、白内障に眼を冒され、アリスにも先立たれると、モネはジヴェルニーに籠もり、庭園の睡蓮の池を描くのに没頭するようになった。

 奇妙に感覚的な睡蓮の絵を観ると、光とは必ずしも明るいものではないと感じる。

 画像は、モネ「アルジャントゥイユのひなげし」。
  クロード・モネ(Claude Monet, 1840-1926, French)
 他、左から、
  「アルジャントゥイユの線路橋」
  「散歩、日傘を持った女」
  「サン=ラザール終着駅」
  「川岸のほとりの花」
  「ジヴェルニー近郊、霧のセーヌ川入り江」

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