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魔法の絨毯 -美術館めぐりとスケッチ旅行-

 世界をスケッチ旅行してまわりたい絵描きの卵の備忘録と雑記

赤の輪舞

2011-12-20 | 月影と星屑
 

 フィリップ・マリャーヴィン(Philip Maliavin)は、それまでの地味なロシア農民画の歴史のなかで、その眼の醒めるような華麗な色使いによって異彩を放つ画家、と解説にはある。

 確かに異彩を放ってるな、この画家。彼の描く農婦たちの衣装は、何でこんなに赤いんだろう。生き生きというよりは生々しい赤。
 アルヒーポフという画家も、赤い伝統衣装を着た農婦たちを描いたけれど、同じ主題でも随分と趣が異なる。

 農婦たちが身に纏う赤いショールやスカートには、光を受けたモザイクが明滅するように、青や黄や緑や白が散りばめられている。衣装の派手さに比べると、農婦たちの顔は浅黒く、死人と言ってもよいほどで、カメラの前で被写体が極力意識する無表情のような、意味を掴みかねる表情を浮かべている。生命感と霊的な陰気さを併せ持った、強烈な印象!
 このモザイクのような色彩のきらめきは、イコン画を研究してきらびやかな色彩を得たヴルーベリを連想させる。イコンから学ぶと、こういう色彩になるもんなんだろうか。

 マリャーヴィンはオレンブルク地方の、貧しく子沢山な農家の生まれ。多くは読み書きのできない農村のなかで、幼い彼はせっせと素描を描いたり粘土像を作ったりしていたという。
 そんな彼が心惹かれたのが、村を訪れた旅の修道僧たちが遠くギリシャから持ち込んだイコン画。勉強なんて農民のすることじゃない、と頑強に反対する両親に、説得に説得を重ね、村人たちから金を集めて、とうとう彼は、イコン制作を学ぶために修道僧とともにギリシャのアトス山へと旅立つ。

 が、アトス山の修道院ではイコンなんて制作されていなかった。村に帰ろうにも、使い果たしてしまって金がない。で、マリャーヴィンは見習い僧となって、修道院にあるイコン画やら壁画やらを独学で勉強しながら、そこで暮らしていた。
 でもまあ、転機というのはやって来るもので、あるとき、アカデミー教授もしていた彫刻家が修道院を訪れ、マリャーヴィンの作品を眼にして、助けてあげるからサンクトペテルブルクへおいでなさい、と声をかける。

 こんなわけでマリャーヴィンは画家の道へと進む。レーピンの教室で、色鮮やかな赤を使って農婦の肖像を描き上げてからはもう、半狂乱のように次々と赤い農婦の絵を描く。
 けれども彼の絵は、当時のロシア画壇にはあまりに鮮烈で奇矯すぎて、異常扱いされるばかり。すると彼は、作品を引っ下げてパリへと赴く。パリは彼の絵を熱烈な喝采で歓迎し、彼は一転、引っ張りだこの人気画家となった。

 マリャーヴィンの人生が画家らしいのはその後しばらく、血の日曜日事件の少し後くらいまでで、アカデミー時代を含めて十数年が過ぎるともう、それまでのようなエキセントリックな絵は描けなくなってしまった。
 以前の作品ばかりで個展を開き、革命後にはクレムリンに招かれてレーニンの肖像を描いたり、プロパガンダ美術教育の人民委員を務めたりしながら、肖像画家としてやっていった。

 赤い農婦はもう戻ってこなかった。霊感の枯れたのが革命以前なのが、画家にとってはフェアだった。

 画像は、マリャーヴィン「農婦たち」。
  フィリップ・マリャーヴィン(Philip Maliavin, 1869-1940, Russian)
 他、左から、
  「二人の少女」
  「ヴェールカの肖像」
  「旋風」
  「村のダンス」
  「ブランコ」  
       
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古き良きロシア

2011-12-19 | 月影と星屑
 
 
 アンドレイ・リャブシキン(Andrei Ryabushkin)という画家がいる。43歳で死んでいる。
 申し分のない画力、独創的な美意識、それを十分に表現するためのたゆまぬ修練とセンスの研磨、そこに喜びを感じる資質……それらすべてを備えていても、認めてもらえなかった画家もいる。リャブシキンはそういう画家。

 彼の絵の主題は17世紀ロシアの日常。相応の服装で着飾った大貴族、官吏、聖職者、商人、農民たちが、葱坊主の屋根をした白いロシア教会を望む、木造の建築群が並ぶ街路を行き来する、あるいは華麗な内装の宮廷や教会の広間、木の小屋の居間にたむろする。
 絵がカラフルなのは、情景そのものがカラフルだから。絵がメルヘンチックなのは、情景そのものがメルヘンチックだから。……そんな、ロシアン・レトロな日常の情景を描いた。

 古き良きロシアという、周囲には理解されない孤立無援の嗜好。だから作品も、ほとんど趣味のように見なされる。でも、好きなんだからしょーがない。
 内気で謙虚で柔和だけれども、頑固なくらいに一途に、一徹に、彼はその嗜好を育み、護った。生き生きとした魂と肉体を付与するために、時代考証的な文献を研究し、古い街々の建築風景や生活風俗を見聞し、民間伝承を収集した。その信憑性はアカデミー時代の歴史画に現われ、教授連に舌を巻かせた。けれども、それだけだった。

 同じテイストでも、スリコフのようなドラマチックな歴史画や、ヴァスネツォフのようなファンタジックな民話画だったなら、もっと人気が取れたかも知れない。が、彼は事件を描かなかった。画面のなかで人々は、ただ普通に生活しているだけ。歩いたり、祈ったり、集まったり。
 民主主義者が好む社会矛盾も、保守主義者が好む懐古美もない。だから共感されない。

 それでも彼は譲らなかった。気にもしなかったかも知れない。名声には縁遠かったにしても、短い生涯、彼は画家としてやっていた。依頼者も庇護者もいた、多分。
 そう言えば彼の人生には度々、お助けマンが登場する。

 村のイコン画家だった父と兄を助けて、早くから絵を描くが、14歳で孤児となった。が、その夏、村に滞在中のモスクワ画学生に素描を見止められて、稽古の後、美術学校に入れてもらえた。お助けマン第1号。
 さらなる修業のためサンクトペテルブルクに赴くが、当局方針に追従しなかったせいで、貰えるはずの奨学金を貰い損なった。が、彼の作品を称賛したアカデミー校長に金を出してもらえた。お助けマン第2号。
 普通ならパリやローマあたりに行くのだが、代わりに彼はロシアの古都を渡り歩いて、自身の芸術の血肉とした。

 結核療養のためスイスに赴くも、助からないと知って帰国する。祖国で死にたかったのだろう。

 画像は、リャブシキン「貴族のお嬢さんの散歩」。
  アンドレイ・リャブシキン(Andrei Ryabushkin, 1861-1904, Russian)
 他、左から、
  「モスクワの娘」
  「訪問」
  「日曜日」
  「ダンスの輪に入る若者」
  「冬の朝」
       
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帝政から社会主義へのモスクワ情景の発展

2011-12-18 | 月影と星屑
 

 帝政ロシアから社会主義ソビエトを跨いで活動した画家たちは大勢いる。19世紀末、革命前後、1920年代半ばのスターリン台頭あたりまでは、なんだかんだと多様な絵を眼にすることができる。
 が、やがてそれらはうやむやに行方をくらましてしまう。画家たちのバイオグラフィには、どこの学校で教鞭を取ったとか、どこの研究所や協会で役員を務めたとか、そういう類だけがやけに眼につくようになる。 

 どんなに不遇な時代だったにしても、人類史において芸術活動が一切なくなってしまうなんてことはあり得ないはずなので、旧ソ連絵画ももう少しいろいろあってもいいと思うんだけれど……
 やっぱり、現地まで足を運んで、地元の美術館で観るほうが早いのかも知れない。でも、そうなるとビザの問題が厄介で……

 さて、コンスタンティン・ユオン(Konstantin Yuon)は、彼が後年描いた社会主義リアリズム絵画で、何かとその名前を眼にする画家。
 この社会主義リアリズム、レーニンの演説や赤軍の行進など、お決まりの主題を叙事詩的に壮大に描いたもの。なのだが、私には少々漫画チックに見える。

 そう見えるのは何も、革命事業を描こうとして却って陳腐な結果に終わってしまったからというわけではない。ユオンの画風は以前からこうだった。

 彼はロシア印象派の始祖、セロフやコロヴィンに師事し、自身もパリでフランス印象派に接して、その光と色の表現を大いに吸収している。
 なので彼の色彩は文句なく、豊かで明るい。彼の絵はロシアの古都の、いかにもロシアらしいシーンを描いたものが多いのだが、そのカラフルな情景は、絵画が印象派を知って以降の時代の、画面の輝きと瑞々しさという恩恵を、大いに享受している。

 その風景のなかで、おそらくユオンはそうした雰囲気が好きだったのだろう、とにかくたくさんの民衆や馬車や馬橇が、まるで祝祭日のように、忙しなく行き交っている。空の広がりいっぱいには、鳥の群れが飛び交っている。
 音楽的な足取りの軽さと朗らかさ、賑やかさ。そう言えば、彼の兄パウルは著名な作曲家だった。
 
 だから彼の絵はロシアっぽくて、カラフルで、リリカルで、それにちょっぴり漫画チックなのだ。

 こういう絵としては私は、ボリス・クストーディエフを思い出す。クストーディエフはユオンとはまったく同世代の画家。ともに「芸術世界」に、のちには「革命ロシア芸術家連盟」に加わっている。
 だから、クストーディエフが帝政ロシア最後の画家と言うなら、ユオンだってそうなのだ。ただ、ユオンはクストーディエフよりも長く生きすぎた。

 革命後のロシアを長く生きて、美術制度機関で役職を歴任し、革命画を描いて、社会主義ソ連の画家となった。

 画像は、ユオン「受胎告知の祝祭日」。
  コンスタンティン・ユオン(Konstantin Yuon, 1875-1958, Russian)
 他、左から、
  「古きモスクワ」
  「春の晴れた日」
  「三月の太陽」
  「ボルガの埠頭」
  「赤軍パレード」

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モスクワ情趣

2011-12-17 | 月影と星屑
 

 移動派の画家で、ロシアのブィリーナ(お伽話)を主題に描いた有名な画家に、ヴィクトル・ヴァスネツォフがいるが、彼の弟アポリナリイも画家だった。

 アポリナリイ・ヴァスネツォフ(Apollinary Vasnetsov)。兄貴の影に隠れて、画像や解説があまりヒットしてくれない。

 ヴァスネツォフの家は祖父・父とも絵の素養があり、兄ヴィクトルは苦学して美術アカデミーにまで進んだ。
 当人にとって幸となるか不幸となるかは一概には分からないが、家族に画家なんぞがいると、そうでない場合よりも絵に関心(プラスの関心にせよマイナスの関心にせよ)を持つようになる。それほど素質があるわけじゃなくても、絵を描く機会が増える。……かも知れない。
 で、アポリナリイの場合もそうなった、多分。

 兄よりも8歳下。正規の美術教育は受けず、兄から絵を習ったという。確かに技量や造詣という点で、素人臭いところがある。画材のせいもあってイラスト的だし、見る人が見ればパースに難癖をつけることもできるんじゃないか。
 でもまあ、知的活動というものは、きちんとした手順を踏んで一歩一歩を地道に重ねていけば、着実な進歩を得ることができる。それが創造的な活動である場合には、何の主題を選ぶか、どう表現するか、等々のその人ならではセンスと相俟って、その人ならではのスタイルが自然と生まれてくる。
 で、アポリナリイの場合もそうなった、多分。

 彼が描いたのは、古いモスクワの街の情景。

 玉葱頭の宮殿やら大聖堂やらがカラフルに林立する城塞の古都。時代考証的な研究も踏まえて描かれたというその市景には、カフタンやらルバシカやらを着た安野光雅チックな小さな人物たちが右往左往していて、往時のモスクワを叙事的に、生き生きと再現している。
 彼の関心は主にクレムリンにあり、他の建築群は実際とは違ったふうに描かれていることも多いらしいのだが、モデル(=モスクワ)に愛着を持つ者の観察と感覚が、それを不自然に感じさせない。

 こんなふうに古い時代の風景を再現させるのって、ありなんだな。

 画像は、アポリナリイ・ヴァスネツォフ「モスクワ」。
  アポリナリイ・ヴァスネツォフ(Apollinary Vasnetsov, 1856-1933, Russia)
 他、左から、
  「17世紀末モスクワの石橋」
  「キタイ・ゴロドの街路」
  「クレムリン」
  「ロシアの古塔」
  「湖畔」
     
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風と森と湖と動物と

2011-12-16 | 月影と星屑
 

 クインジの生徒にはユニークな絵を描くモダニズムの画家が目立つ。アルカージイ・ルィロフ(Arkady Rylov)もその一人。
 私が彼を、いいな~! って思うのは、何と言っても、彼の自画像が、腕にリスを乗せてお喋り(?)しているからなんだ。

 動物園に行くと必ずリス園にも入り浸るんだけれど、リスって、臆病ですばしっこくて、あっという間に逃げていく。頭が悪くて木の実のことしか眼中にないので、本当は駄目なのに禁を破って子供たちが持ち込んだドングリが転がっているそばで待つのだが、不毛に終わることが多い。なので、考えて、ヒマワリ油で揚げた天ぷらなんぞをお弁当用に鞄のなかに忍ばせておくと、その匂いに誘われて、鞄のそばをうろちょろしてくれる。そこを狙って、チョン! と触る。
 それで分かったことは、あの大きなリスの尻尾は見かけ倒しのインチキで、実はコップ洗い用のタワシだってこと!
 
 さて、絵の話。

 解説には、ルィロフの父親は精神病で、そのため彼は継父の家庭で育てられた、とある。そのせいかどうかは知らないが、彼は動物好きだった。
 アカデミーでクインジに学んだルィロフは、クインジから大いに影響を受けたに違いない。だって彼は風景画以外は滅多に描こうとしなかったし、その風景画には独特の光と色彩とイリュージョンがあるのだから。
 装飾本位の芸術世界派に加わりはしたが、ルィロフの絵はどちらかと言うと質朴。ただ画面には動きがある。雲が、樹木が、草花が、波頭が、水鳥たちが、風の声を伝えてくる。

 ルィロフのアトリエには小さな“自然保護区”があって、そこにはウサギやリス、サル、野鳥たちが、籠に閉じ込められることもなく、暮らしていたという。
 革命後には、社会主義リアリズムよろしく、ラズリフ湖畔のレーニンなんかも描いているが、こうして見るとレーニンも、波打ち際で勿体つけて、嘴つき合わせて相談しているカモメや、とぼとぼと瞑想しているカモメと、そう変わらない。

 画像は、ルィロフ「青空」。
  アルカージイ・ルィロフ(Arkady Rylov, 1870-1939, Russian)
 他、左から、
  「緑の音」
  「黄昏あるいは曙」
  「森のなか」
  「ナナカマドの野」
  「ラズリーフ湖畔のレーニン」
       
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