




フィリップ・マリャーヴィン(Philip Maliavin)は、それまでの地味なロシア農民画の歴史のなかで、その眼の醒めるような華麗な色使いによって異彩を放つ画家、と解説にはある。
確かに異彩を放ってるな、この画家。彼の描く農婦たちの衣装は、何でこんなに赤いんだろう。生き生きというよりは生々しい赤。
アルヒーポフという画家も、赤い伝統衣装を着た農婦たちを描いたけれど、同じ主題でも随分と趣が異なる。
農婦たちが身に纏う赤いショールやスカートには、光を受けたモザイクが明滅するように、青や黄や緑や白が散りばめられている。衣装の派手さに比べると、農婦たちの顔は浅黒く、死人と言ってもよいほどで、カメラの前で被写体が極力意識する無表情のような、意味を掴みかねる表情を浮かべている。生命感と霊的な陰気さを併せ持った、強烈な印象!
このモザイクのような色彩のきらめきは、イコン画を研究してきらびやかな色彩を得たヴルーベリを連想させる。イコンから学ぶと、こういう色彩になるもんなんだろうか。
マリャーヴィンはオレンブルク地方の、貧しく子沢山な農家の生まれ。多くは読み書きのできない農村のなかで、幼い彼はせっせと素描を描いたり粘土像を作ったりしていたという。
そんな彼が心惹かれたのが、村を訪れた旅の修道僧たちが遠くギリシャから持ち込んだイコン画。勉強なんて農民のすることじゃない、と頑強に反対する両親に、説得に説得を重ね、村人たちから金を集めて、とうとう彼は、イコン制作を学ぶために修道僧とともにギリシャのアトス山へと旅立つ。
が、アトス山の修道院ではイコンなんて制作されていなかった。村に帰ろうにも、使い果たしてしまって金がない。で、マリャーヴィンは見習い僧となって、修道院にあるイコン画やら壁画やらを独学で勉強しながら、そこで暮らしていた。
でもまあ、転機というのはやって来るもので、あるとき、アカデミー教授もしていた彫刻家が修道院を訪れ、マリャーヴィンの作品を眼にして、助けてあげるからサンクトペテルブルクへおいでなさい、と声をかける。
こんなわけでマリャーヴィンは画家の道へと進む。レーピンの教室で、色鮮やかな赤を使って農婦の肖像を描き上げてからはもう、半狂乱のように次々と赤い農婦の絵を描く。
けれども彼の絵は、当時のロシア画壇にはあまりに鮮烈で奇矯すぎて、異常扱いされるばかり。すると彼は、作品を引っ下げてパリへと赴く。パリは彼の絵を熱烈な喝采で歓迎し、彼は一転、引っ張りだこの人気画家となった。
マリャーヴィンの人生が画家らしいのはその後しばらく、血の日曜日事件の少し後くらいまでで、アカデミー時代を含めて十数年が過ぎるともう、それまでのようなエキセントリックな絵は描けなくなってしまった。
以前の作品ばかりで個展を開き、革命後にはクレムリンに招かれてレーニンの肖像を描いたり、プロパガンダ美術教育の人民委員を務めたりしながら、肖像画家としてやっていった。
赤い農婦はもう戻ってこなかった。霊感の枯れたのが革命以前なのが、画家にとってはフェアだった。
画像は、マリャーヴィン「農婦たち」。
フィリップ・マリャーヴィン(Philip Maliavin, 1869-1940, Russian)
他、左から、
「二人の少女」
「ヴェールカの肖像」
「旋風」
「村のダンス」
「ブランコ」
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