チエちゃんの昭和めもりーず

 昭和40年代 少女だったあの頃の物語
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泊瀬部天皇

2008年02月21日 | チエの玉手箱
泊瀬部天皇(はつせべのすめらみこと)は、天國排開廣庭天皇(あめくにおしはらきひろにはのすめらみこと)の第十二子なり。母をば小姉君(をあねのきみ)と日(もう)す。稲目宿禰(いなめのすくね)の女(むすめ)なり。<略>
二年の夏四月に、橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと)崩りましぬ。
   <中 略>
 八月の癸卯(みずのとのう)の朔甲辰(ついたちきのえたつのひ)に、炊屋姫尊(かしきやひめのみこと)と群臣と、天皇を勸め進りて、即天皇之位(あまつひつぎしろしめ)さしむ。蘇我馬子宿禰を以て大臣とすること故(もと)の如し。卿大夫(まえつきみ)の位、亦故の如し。
是の月に、倉梯に宮つくる。
 元年の春三月に、大伴糠手連(おおとものあらてのむらじ)が女小手子(むすめ こてこ)を立てて妃とす。是蜂子皇子と錦代皇女とを生めり。
   <中 略>
 五年の冬十月の癸酉(みずのとのとり)の朔丙子(ひのえねのひ)に、山猪(いのしし)を獻(たてまつ)ること有り。天皇、猪を指して詔して曰はく、「何の時にか此の猪の頸を斷るが如く、朕が嫌しとおもふ所の人を斷らむ」とのたまふ。多くの兵仗を設くること、常よりも異なること有り。壬午(みずのえうまのひ)に、蘇我馬子宿禰、天皇の詔したまふ所を聞きて、己を嫌むらしきことを恐る。儻者(やらかひと)を招き聚めて、天皇を弑せまつらむと謀る。
 是の月に、大法興寺の佛堂と歩廊とを起つ。

 十一月の癸卯(みずのとのう)の朔乙巳(きのとのみのひ)に、馬子宿禰、群臣を詐めて日はく、「今日、東國の調を進る」といふ。乃ち東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)をして、天皇を弑せまつらしむ。或本に云はく、東漢直駒は、東漢直磐井が子なりといふ。是の日に、天皇を倉梯岡陵に葬りまつる。
或本に云はく、大伴嬪小手子、寵の衰えしことを恨みて、人を蘇我馬子宿禰のもとに使りて曰はく、「頃者(このごろ)、山猪を獻(たてまつ)れること有り。天皇、猪を指して詔して日はく、『猪の頸を斷らむ如く、何の時にか朕が思う人を斷らむ』とのたまふ。且(また)内裏にして、大きな兵仗を作る」といふ。是に、蘇我馬子宿禰、聴きて驚くといふ。
 丁未(ひのとのひつじのひ)に、驛使(はいま)を筑紫將軍の所に遣して曰はく、「内の亂(みだれ)に依りて、外の事を莫(な)怠りそ」といふ。

 是の月に、東漢直駒、蘇我嬪河上娘(そがのみめかはかみのいらつめ)を偸隠(ぬす)みて妻とす。河上娘は、蘇我馬子宿禰の女(むすめ)なり。馬子宿禰、忽(たまたま)河上娘が、駒が爲に偸(ぬす)まれしを知らずして、死去りけむと謂(おも)ふ。駒、嬪を汙(けが)せる事顯(あらは)れて、大臣の爲に殺されぬ。
(岩波書店 日本古典文學大系第68巻「日本書紀 下」より抜粋)