気まぐれ徒然かすみ草

近藤かすみ 

京都に生きて 短歌と遊ぶ

箸先にひとつぶひとつぶ摘みたる煮豆それぞれ照る光もつ

今日の朝日歌壇

2008-06-23 20:12:41 | 朝日歌壇
人生が全部本番だったこと目まいのように夏茱萸(ぐみ)の花
(新座市 中村偕子)

早苗饗(さなぶり)の果てし厨にただ音す八人家族の食器洗機
(山形県 高橋まさじ)

携帯の「圏外」すこし嬉しくて地下一階の哲学講義
(京都府 敷田八千代)

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一首目。人生にリハーサルはなく、全てが本番だったことを思うとめまいがするようだというわかりやすい一首。結句に夏茱萸(ぐみ)の花を持ってきて、詩情を添えている。
二首目。早苗饗(さなぶり)という言葉を知らなかったので、辞書で調べると、田植えを終えた祝いのことで、夏の季語である。都市生活者にとっては、想像するだけの世界だが、自然に触れて収穫を得るという楽しみも、労働の厳しさもあるのだろう。そのあとの食事はさぞ美味しいのだろう。食器洗浄器が、農作業のあとの家事を軽減してくれている。八人家族というのは、にぎやかで幸せなのだろうか。人間関係が濃そうで私は耐えられそうにない。農家の人みんなが立派に見えてしまった。歌については、早苗饗(さなぶり)という季語をうまく使っているのが良いと思う。
三首目。携帯電話を持っていると、いつもどこかから掛かってこないか気になって、それにすぐ返事しなければならないプレッシャーがあって大変らしい。だから要らないね・・・とうちの家族は言う。はい、要りません。私は退屈な日常が好きなのです。話が逸れました。歌は、下句の地下一階の哲学講義の「硬さ」が効果をあげている。俗世間?から離れてさぞ講義に集中できただろう。

携帯を持たずに咲いて月見草時間長者のいまをたのしむ
(近藤かすみ)