現代仏教特講の単位を参入すると、累計取得単位数が799単位となりました。
その昔、目標としていた1000単位からすれば、79.9%の達成率となっております。今日の放送大学の単位習得試験での単位が取れれば800単位突破となります。
やはり、ここまでくると、単位数はほとんど気にすることはなくなりました。昔、500単位を目標にしていたころぐらいが、一番、燃えていたのかもしれません。
単位の数だけでなく、資格の数も、学位の数も、それなりに飽和状態になってくると、あまり関心がなくなってきます。それが悟りの世界ではないかとも思い始めております。
そう、究極まで突き詰めていくと、最後にはゼロ=無になるわけです。ゆえに、関心もゼロへと集約していくのではないでしょうか。私の解釈が間違っているかもしれませんが、それこそが、「諸法無我」であり、我執や我欲を超越し、自然体でいることで、移りゆく世界に順応できると考えています。
学び始めたころには「卒業に単位が必要」とか、「今年中に卒業しなきゃ」とか「今年中に資格を10取得する」とか、それぞれに思うところがあるでしょう。「××しなければ」といった「自分への足かせ」こそが「我執」であり、分不相応に「○○したい」と「自分の強い欲望」こそが「我欲」であります。学び始めたころは、そのような思いに支配され、達成できないことが「恨み」や「嫉み」や「妬み」、あるいは「悲しみ」や「苦しみ」といったものに変化することが「煩悩にまみれる」といえるのかもしれません。
「悟り」を開くことができれば、このような苦しみから解放されます。自己の経験からの勝手な基準ですが、資格なら公的資格以上の、それなりに苦しむ資格を100個、単位なら社会人以降で500単位、学位なら15ぐらい?
今、思うのですが、その道の達人なら、きっとこの「悟り」というか、「開眼」というか、そういう瞬間というのがあると思うのです。なかなかインタビューはできませんが、野球なら2000本安打を打った後とか、陶芸なら数千の焼き物を焼いた後とか、その道のプロなら、「一皮剥けた」という瞬間があるはずなのです。それが、確実に、資格や学位の世界にもあると、今の私なら言うことができます。
ゆえに、あまり数にはこだわりませんが、やはり、一つの学びの経歴として記録だけは残してゆきたいと思っております。
その昔、目標としていた1000単位からすれば、79.9%の達成率となっております。今日の放送大学の単位習得試験での単位が取れれば800単位突破となります。
やはり、ここまでくると、単位数はほとんど気にすることはなくなりました。昔、500単位を目標にしていたころぐらいが、一番、燃えていたのかもしれません。
単位の数だけでなく、資格の数も、学位の数も、それなりに飽和状態になってくると、あまり関心がなくなってきます。それが悟りの世界ではないかとも思い始めております。
そう、究極まで突き詰めていくと、最後にはゼロ=無になるわけです。ゆえに、関心もゼロへと集約していくのではないでしょうか。私の解釈が間違っているかもしれませんが、それこそが、「諸法無我」であり、我執や我欲を超越し、自然体でいることで、移りゆく世界に順応できると考えています。
学び始めたころには「卒業に単位が必要」とか、「今年中に卒業しなきゃ」とか「今年中に資格を10取得する」とか、それぞれに思うところがあるでしょう。「××しなければ」といった「自分への足かせ」こそが「我執」であり、分不相応に「○○したい」と「自分の強い欲望」こそが「我欲」であります。学び始めたころは、そのような思いに支配され、達成できないことが「恨み」や「嫉み」や「妬み」、あるいは「悲しみ」や「苦しみ」といったものに変化することが「煩悩にまみれる」といえるのかもしれません。
「悟り」を開くことができれば、このような苦しみから解放されます。自己の経験からの勝手な基準ですが、資格なら公的資格以上の、それなりに苦しむ資格を100個、単位なら社会人以降で500単位、学位なら15ぐらい?
今、思うのですが、その道の達人なら、きっとこの「悟り」というか、「開眼」というか、そういう瞬間というのがあると思うのです。なかなかインタビューはできませんが、野球なら2000本安打を打った後とか、陶芸なら数千の焼き物を焼いた後とか、その道のプロなら、「一皮剥けた」という瞬間があるはずなのです。それが、確実に、資格や学位の世界にもあると、今の私なら言うことができます。
ゆえに、あまり数にはこだわりませんが、やはり、一つの学びの経歴として記録だけは残してゆきたいと思っております。