生涯学習とは楽しいものなのだろうか・・・ふと、そんなことを考える。
正直、私には、どちらかというと「苦痛」の部分が大きい。「生涯学習」は、そもそも、その名を「生涯教育」と呼ばれていた時代があった。「教育」という押し付け感、あるいは、やらされ感的響きより、「学習」という自発的印象を尊んだことがその改名の理由というのが一般的である。
しかし、我が恩師直伝の「生涯学習」の改名のいきさつは、「教育」という名称のままだと、文部科学省直轄となってしまう。されど、「生涯学習」と改名することで、文部科学省だけでなく、経済産業省といった教育以外の他の省庁も生涯学習に関与することが可能となる。
ただ、名前が変わったとはいえ、そもそも、「生涯教育」であり、あるいは、「社会教育」なのである。それが、まるっきり楽しいものであるわけがない。
そもそも、生涯学習が楽しいものだという幻影は、誰が吹聴したのだろう。シルバー世代が余暇を満喫する学習も生涯学習に包含されるため、そのイメージが先行したのだろうか?あるいは、一部、自分の趣味に完全にはまった学習を発見した人が、趣味と実益を兼ねた報告をしたことから派生したのだろうか?
余程の完成された人でなければ、ゲームをしたり、旅行に行ったり、家族と団欒したり、美味しいものを食べたり、グーグー寝たりといった欲求より、生涯学習が楽しいと感じることはないだろう。マズローの欲求五段階説に従えば、下位の欲求が充足されることが優先されるため、より上位の生涯学習をその他の欲求より楽しいと思える人は、ほとんどいないはずである。
日本では、娯楽ですら生涯学習と呼ばれるため、楽しいイメージがあるが、海外では、リカレント教育や継続教育が主要な学習となる。そう、テキストや参考文献でも、何故か「日本の生涯学習の特徴」といった章が設けられているのだ。世界標準の生涯学習と、日本でイメージされる生涯学習とは乖離しているのだ。
「行政関係者のための新版入門・生涯学習政策」のpp.38-39では、他の先進国で「生涯学習」の概念に含まれているのは「教育訓練活動における学習」と「自己学習活動における学習」であり、『「心の豊かさ」のためのものなど「消費的」な学習は含まず、「投資的」なもののみ』としている。
圧巻は『「学習が行われていなくても、心の豊かさや生きがいのための活動は、それ自身が生涯学習(あるいは学習活動)だ」と誤解している人が多いようです。』という一文である。
そう、誤解。多くの人が生涯学習について誤解している。「心の豊かさ」や「生きがい」は非常に大切な指針であるが、そこに学習行動が含まれないと、生涯学習とはいえないのである。
例えば、心が豊かになる献血。献血をしているだけでは生涯学習にはならない。しかし、血液を調べ、あるいは、その献血者の行動を研究史、レポートや論文をまとめ、自分のものにしたとき、初めてそれは、私の求める生涯学習の条件を充足する。単なる「物知り博士」で終わるようなレベルではなく、自分の力となるレベルに昇華させるのである。
「学歴社会」や「資格社会」といった言葉に辟易する人もいるかもしれないが、海外では当然の「生涯学習」なのである。なんせ、投資的なものであるから、それを客観的に証明する必要がある。それが、学位でありライセンスなのである。海外では、仕事を獲得する上でも、職務要件が明確化され、修士の学位がなければ、どんなにがんばっても仕事につけないものもたくさんある。そう、修士じゃないと学校の教師になることもできない国が存在しているのだ。今の日本だと、かなりの先生が職を失うこととなる。
いわば、子どもを育てることが、それだけ、専門的かつ高度な職務であることの裏返しなのだが、学位がないと仕事に就けないのだから、生涯学習は自己実現のための投資なのである。そして、学習することで評価され、それ相応の処遇を受けることが「生きがい」にも直結するといえよう。
ここまで読んでいただければ、きっと、分かっていただけると思うのだが、このブログで言うところの「生涯学習」には、日本的生涯学習である「スポーツ」や「旅行」「文化活動」は含まれていない。無論、「自分の日記≒備忘録」ということもあって、旅行記なんかも載せているが、PDCAのサイクルをまわしている部分こそが、「生涯学習の部屋」の「生涯学習の部分」である。
だから、苦しいし、逃げたいし、泣きたいし、目をそらしたいし、諦めたいことばかりである。なんせ、生涯学習より楽しいことなんて、掃いて捨てるほどいっぱいある。わざわざ、苦難の道を選択する必要もないのである。そう、私は受験生でもないし、正直、普通の極々平凡なサラリーマンなのだから。
でも、登山家の心理のごとく、やはり、学習機会というものがあり、それが私を受け入れてくれるなら、やはり、運命と諦めて、その道に身を投じるしかないのだろう。それが、私が私として実在し、生きている証なのだから・・・
楽にならなければならないときがくれば、きっと、神さまが「不合格」という知らせで、私を楽にしてくれるはずである。少なくとも、そのときまで、私の戦いは尽きることはない。
そして、海外では、このような形で、生涯学習の世界に身を投じているツワモノが山のようにいる。自分だけが苦しいのだと誤った認識を持ってはいけないし、そういう生涯学習のバトルに打ち勝ったものだけが、真の意味での自己実現を勝ち取っていることも事実なのである。
正直、私には、どちらかというと「苦痛」の部分が大きい。「生涯学習」は、そもそも、その名を「生涯教育」と呼ばれていた時代があった。「教育」という押し付け感、あるいは、やらされ感的響きより、「学習」という自発的印象を尊んだことがその改名の理由というのが一般的である。
しかし、我が恩師直伝の「生涯学習」の改名のいきさつは、「教育」という名称のままだと、文部科学省直轄となってしまう。されど、「生涯学習」と改名することで、文部科学省だけでなく、経済産業省といった教育以外の他の省庁も生涯学習に関与することが可能となる。
ただ、名前が変わったとはいえ、そもそも、「生涯教育」であり、あるいは、「社会教育」なのである。それが、まるっきり楽しいものであるわけがない。
そもそも、生涯学習が楽しいものだという幻影は、誰が吹聴したのだろう。シルバー世代が余暇を満喫する学習も生涯学習に包含されるため、そのイメージが先行したのだろうか?あるいは、一部、自分の趣味に完全にはまった学習を発見した人が、趣味と実益を兼ねた報告をしたことから派生したのだろうか?
余程の完成された人でなければ、ゲームをしたり、旅行に行ったり、家族と団欒したり、美味しいものを食べたり、グーグー寝たりといった欲求より、生涯学習が楽しいと感じることはないだろう。マズローの欲求五段階説に従えば、下位の欲求が充足されることが優先されるため、より上位の生涯学習をその他の欲求より楽しいと思える人は、ほとんどいないはずである。
日本では、娯楽ですら生涯学習と呼ばれるため、楽しいイメージがあるが、海外では、リカレント教育や継続教育が主要な学習となる。そう、テキストや参考文献でも、何故か「日本の生涯学習の特徴」といった章が設けられているのだ。世界標準の生涯学習と、日本でイメージされる生涯学習とは乖離しているのだ。
「行政関係者のための新版入門・生涯学習政策」のpp.38-39では、他の先進国で「生涯学習」の概念に含まれているのは「教育訓練活動における学習」と「自己学習活動における学習」であり、『「心の豊かさ」のためのものなど「消費的」な学習は含まず、「投資的」なもののみ』としている。
圧巻は『「学習が行われていなくても、心の豊かさや生きがいのための活動は、それ自身が生涯学習(あるいは学習活動)だ」と誤解している人が多いようです。』という一文である。
そう、誤解。多くの人が生涯学習について誤解している。「心の豊かさ」や「生きがい」は非常に大切な指針であるが、そこに学習行動が含まれないと、生涯学習とはいえないのである。
例えば、心が豊かになる献血。献血をしているだけでは生涯学習にはならない。しかし、血液を調べ、あるいは、その献血者の行動を研究史、レポートや論文をまとめ、自分のものにしたとき、初めてそれは、私の求める生涯学習の条件を充足する。単なる「物知り博士」で終わるようなレベルではなく、自分の力となるレベルに昇華させるのである。
「学歴社会」や「資格社会」といった言葉に辟易する人もいるかもしれないが、海外では当然の「生涯学習」なのである。なんせ、投資的なものであるから、それを客観的に証明する必要がある。それが、学位でありライセンスなのである。海外では、仕事を獲得する上でも、職務要件が明確化され、修士の学位がなければ、どんなにがんばっても仕事につけないものもたくさんある。そう、修士じゃないと学校の教師になることもできない国が存在しているのだ。今の日本だと、かなりの先生が職を失うこととなる。
いわば、子どもを育てることが、それだけ、専門的かつ高度な職務であることの裏返しなのだが、学位がないと仕事に就けないのだから、生涯学習は自己実現のための投資なのである。そして、学習することで評価され、それ相応の処遇を受けることが「生きがい」にも直結するといえよう。
ここまで読んでいただければ、きっと、分かっていただけると思うのだが、このブログで言うところの「生涯学習」には、日本的生涯学習である「スポーツ」や「旅行」「文化活動」は含まれていない。無論、「自分の日記≒備忘録」ということもあって、旅行記なんかも載せているが、PDCAのサイクルをまわしている部分こそが、「生涯学習の部屋」の「生涯学習の部分」である。
だから、苦しいし、逃げたいし、泣きたいし、目をそらしたいし、諦めたいことばかりである。なんせ、生涯学習より楽しいことなんて、掃いて捨てるほどいっぱいある。わざわざ、苦難の道を選択する必要もないのである。そう、私は受験生でもないし、正直、普通の極々平凡なサラリーマンなのだから。
でも、登山家の心理のごとく、やはり、学習機会というものがあり、それが私を受け入れてくれるなら、やはり、運命と諦めて、その道に身を投じるしかないのだろう。それが、私が私として実在し、生きている証なのだから・・・
楽にならなければならないときがくれば、きっと、神さまが「不合格」という知らせで、私を楽にしてくれるはずである。少なくとも、そのときまで、私の戦いは尽きることはない。
そして、海外では、このような形で、生涯学習の世界に身を投じているツワモノが山のようにいる。自分だけが苦しいのだと誤った認識を持ってはいけないし、そういう生涯学習のバトルに打ち勝ったものだけが、真の意味での自己実現を勝ち取っていることも事実なのである。
本日(すでに昨日か)、放送大学で問い合わせをした際の成績証明書はかなり古いものなので、最新版の成績証明書を請求する依頼書を作成した。
最新版といっても、成績が変わるわけではないのだが、募集要項を読んでも何ヶ月前のものを準備するかわからないので、とりあえず、今入手できるものを準備するというわけだ。
郵便料はかかるものの、私の卒業した大学は、証明書発行手数料はすべて無料!理由は不明だが、やはり、国立大学法人というのが影響しているのかもしれない。ありがたいかぎりである。
できれば、明日(すでに今日か)、ポストに投函しておきたいものである。
最新版といっても、成績が変わるわけではないのだが、募集要項を読んでも何ヶ月前のものを準備するかわからないので、とりあえず、今入手できるものを準備するというわけだ。
郵便料はかかるものの、私の卒業した大学は、証明書発行手数料はすべて無料!理由は不明だが、やはり、国立大学法人というのが影響しているのかもしれない。ありがたいかぎりである。
できれば、明日(すでに今日か)、ポストに投函しておきたいものである。