南無煩悩大菩薩

今日是好日也

穴可笑し。

2021-03-17 | 古今北東西南の切抜

(photo/original unknown)

肛門の「ひだ(しわ)」めは48本あるよしふるくいい伝えたれど、ものにしるせることはなきにきや、44の骨筋、8万4千の毛穴などは内典にも多くのせられしかど、このひだめのことは見えず。

また一名を菊と呼ぶことも。此のひだめ、その花房に似たる故の名なるべけれど、ある人の抄には菊花紫紅色なるものおおくは48ひらなりとも見えたれば、これはもしさるよしにもとづきて言うにや。何がしの院の女房一條が集に男のもとにいいつかわしける。

  をみなへしなまめく野べをよそにして

       菊にこころやうつろひぬらん

とあるは、やがてこの異名をよめるなるべし。

またこれを釜とよぶことはまたやや後になるや。近き頃、菅野何がしとかいいける京侍40にあまるるまで母をやしないて妻をもたらず。ともすればかの「手わざ」のみしけるを、したしき友うかがいしりて、あたら子を捨つるにやとわらいければ、男涙をながして、

  ははゆえに子はあまたたひすてつれと

       かまのひとつもほりえぬそうき

とていとうなきけり。なべていさををたつるにものうく、むくいをむさぼるにせちなるものは、みな此男のつらになんあるべき。

陰門のうち、車寄めくものを「ひなさき」とよぶは、なにのいわれにかあらん。つくづくおもうに、「ひな」もまた「ひだ」なり、「ししむら」のたたまれたる所ゆえにいうなるべし。「さき」とは物のなりいでたる所をいう名なればなり。からくにの人は、口の舌あるになずらえて吉舌とぞいうめる。古歌には「あまさかるひなさき」とつづけたり。ある歌合に、旅を、

  あまさかるひなさきとほししたひもの

       関よりおくのもやもやのさと

またこれを「さね」とよぶことは、から名に陰核などいうことあるよりよびつたえたることなるべけれど、これもややふるき世よりのことにや。古葉類林というものに、

  ほとのさねももまりやつをえてしかな

       数珠につなきてまらいのるかに

摩羅は梵語なり。

ー引用/阿奈遠加志(あなをかし) より  

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無知の智 -A sense of my own strangeness.

2021-03-05 | 古今北東西南の切抜

(picture/source)

私たちは様々な「無知」から智を慮る必要がある。

たとえば、自分では知覚できない無意識の偏見「「アンコンシャス・バイアス」と呼ばれるものがある。

また、我々は環境や心理的な動きに流されて、倫理的に疑問が持たれる行動をとることがある。それが自己の価値観に反する、としてもである。私欲に基づいて非倫理的な行動を取る場合、我々はそれに気づいていないことが多い。これは、「動機付けられた見落とし」(motivated blindness)と呼ばれる現象である。例えば、実際行っている以上に集団作業に貢献していると主張する場合などがそれに当たる。また企業幹部などは自分や組織のためになるなら、自社における深刻な不正行為を無意識のうちに見逃すこともある。

ジョン・ルースが、「無知のベール」(veil of ignorance)と名付けたものがある。たとえば社会はどのように構成されるべきかという問題を、その中における自らの立場(金持ちか貧乏人か、男性か女性か、黒人か白人かなど)を知らずに、すなわち無知のベールに覆われている状態で考えるとしたら、より公平かつ倫理的な意思決定を行うであろう、というものである。実証研究では、無知のベールに覆われて倫理的な意思決定を行う人は、より多くの価値を創造することを示しているという。ある意思決定によって我々がどのような便益を受けるか、あるいは損害を被るかを知らなければ、世の中における我々の立場によって生じるバイアスを受けずに済むのだ。

私を形作っている「偏見」に対する無知を意識化することは私自身の「智」をより信頼できるものへと引き上げてくれるはずだ。

考えや行いにおいてより多くの価値を創造しようとするなら、認知能力の限界を知り向き合い是正する必要がある。

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常識 

2020-11-20 | 古今北東西南の切抜

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昔、京都に近い愛宕山に、黙想と読経に余念のない高僧があった。住んでいた小さい寺は、どの村からも遠く離れていた、そんな淋しい処では誰かの世話がなくては日常の生活にも不自由するばかりであったろうが、信心深い田舎の人々が代る代るきまって毎月米や野菜を持ってきて、この高僧の生活をささえてくれた。

この善男善女のうちに猟師が一人いた、この男はこの山へ獲物をあさりにも度々来た。ある日のこと、この猟師がお寺へ一袋の米を持って来た時、僧は云った。
『一つお前に話したい事がある。この前会ってから、ここで不思議な事がある。どうして愚僧のようなものの眼前に、こんな事が現れるのか分らない。しかし、お前の知っての通り、愚僧は年来毎日読経黙想をしているので、今度授かった事は、その行いの功徳かとも思われるが、それもたしかではない。しかし、たしかに毎晩、普賢菩薩が白象に乗ってこの寺へお見えになる。……今夜愚僧と一緒に、ここにいて御覧。その仏様を拝む事ができる』
『そんな尊い仏が拝めるとはどれほど有難いことか分りません。喜んで御一緒に拝みます』と猟師は答えた。
 

そこで猟師は寺にとどまった。しかし僧が勤行にいそしんでいる間に、猟師はこれから実現されようと云う奇蹟について考え出した。それからこんな事のあり得べきかどうかについて疑い出した。考えるにつれて疑は増すばかりであった。寺に小僧がいた、――そこで猟師は小僧に折を見て聞いた。
『聖人のお話では普賢菩薩は毎晩この寺へお見えになるそうだが、あなたも拝んだのですか』猟師は云った。
『はい、もう六度、私は恭しく普賢菩薩を拝みました』小僧は答えた。猟師は小僧の言を少しも疑わなかったが、この答によって疑は一層増すばかりであった。小僧は一体何を見たのであろうか、それも今に分るであろう、こう思い直して約束の出現の時を熱心に待っていた。

真夜中少し前に、僧は普賢菩薩の見えさせ給う用意の時なる事を知らせた。小さいお寺の戸はあけ放たれた。僧は顔を東の方に向けて入口に跪いた。小僧はその左に跪いた、猟師は恭しく僧のうしろに席を取った。
九月二十日の夜であった、――淋しい、暗い、それから風の烈しい夜であった、三人は長い間普賢菩薩の出現の時を待っていた。ようやくのことで東の方に、星のような一点の白い光が見えた、それからこの光は素早く近づいて来た――段々大きくなって来て、山の斜面を残らず照した。やがてその光はある姿――六本の牙のある雪白の象に乗った聖い菩薩の姿となった。そうして光り輝ける乗手をのせた象はぐお寺の前に着いた、月光の山のように、――不可思議にも、ものすごくも、――高く聳えてそこに立った。

その時僧と小僧は平伏して異常の熱心をもって普賢菩薩への読経を始めた。ところが不意に猟師は二人の背後に立ち上り、手に弓を取って満月の如く引きしぼり、光明の普賢菩薩に向って長い矢をひゅっと射た、すると矢は菩薩の胸に深く、羽根のところまでもつきささった。
突然、落雷のような音響とともに白い光は消えて、菩薩の姿も見えなくなった。お寺の前はただ暗い風があるだけであった。
『情けない男だ』僧は悔恨絶望の涙とともに叫んだ。『何と云うお前は極悪非道の人だ。お前は何をしたのだ、――何をしてくれたのだ』しかし猟師は僧の非難を聞いても何等なんら後悔憤怒の色を表わさなかった。それからはなはだ穏かに云った。――

『聖人様、どうか落ちついて、私の云う事を聞いて下さい。あなたは年来の修業と読経の功徳によって、普賢菩薩を拝む事ができるのだと御考えになりました。それなら仏様は私やこの小僧には見えず――聖人様にだけお見えになる筈だと考えます。私は無学な猟師で、私の職業は殺生です、――ものの生命を取る事は、仏様はお嫌いです。それでどうして普賢菩薩が拝めましょう。仏様は四方八方どこにでもおいでになる、ただ凡夫は愚痴蒙昧のために拝む事ができないと聞いております。聖人様は――浄い生活をしておられる高僧でいらせられるから――仏を拝めるようなさとりを開かれましょう、しかし生計のために生物を殺すようなものは、どうして仏様を拝む力など得られましょう。それに私もこの小僧も二人とも聖人様の御覧になったとおりのものを見ました。それで聖人様に申し上げますが、御覧になったものは普賢菩薩ではなくてあなたをだまして――事によれば、あなたを殺そうとする何か化物に相違ありません。どうか夜の明けるまで我慢して下さい。そうしたら私の云う事の間違でない証拠を御覧に入れましょう』
 

日出とともに猟師と僧は、その姿の立っていた処を調べて、うすい血の跡を発見した。それからその跡をたどって数百歩離れたうつろに着いた、そこで、猟師の矢に貫かれた大きな狸の死体を見た。

博学にして信心深い人であったが僧は狸に容易にだまされていた。しかし猟師は無学無信心ではあったが、強い常識を生れながらもっていた、この生れながらもっていた常識だけで直ちに危険な迷を看破し、かつそれを退治する事ができた。

切抜/小泉八雲「常識 COMMON SENSE」より

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独活の律動

2020-11-14 | 古今北東西南の切抜

(gif/source)

井伏さんに「点滴」という文章がある。太宰治を追憶した文章である。それによると、太宰と井伏さんとは、水道栓から垂れる雫の割合のことで、無言の対立を意識していたようである。太宰は一分間に四十滴ぐらいの雫が垂れるのを理想としていたようで、そして井伏さんは一分間に十五滴ぐらい垂れるのを理想と見なし、いまでもそうだという。終戦前、二人が疎開していた甲府の宿屋の洗面所の水道栓から漏れる点滴の話である。

太宰は手洗いに立つたびに、その水道栓をいつも同じくらいの締めかたにして、自分の好みの割合で雫が垂れるようにし、しかも洗面器に一ぱい水をためておき、水音がよく聞かれるような仕掛けをして置く。それを井伏さんが手洗いに立って行って、自分の理想とするところのものに訂正して置く。それをまた太宰が手洗いに立ったときに改める。太宰の場合は、水道栓から漏れる雫は、「ちゃぼ、ちゃぼ、ちゃぼ……」というせわしない音を立て、井伏さんの場合は、「ちょっぽん、ちょっぽん、ちょっぽん……」というようなゆっくりした音を立てた。そして二人は互いに素知らぬ顔をしていたようである。「何という依怙地えこじな男だろう」と井伏さんは太宰のことをいっている。この話はおもしろい。二人の生活の速度というようなものが、図らずも、この点滴の割合にあらわれているように思われる。井伏さんと太宰とでは、その理想とする点滴の緩急に、数にして二十五滴のひらきがある。そして二人は、それぞれの生活の速度の基本を、そんなところに置いていたようである。四十滴を理想としていた太宰は、井伏さんを置いてけぼりにして、駈け足でこの世からさよならしてしまった。無言の対立に、そんな仕方で結末をつけたというわけだろうか。この文章にあらわれている限りでは、井伏さんは単に二人の好みの水音のことを話しているだけで、思うに二人の生き方がこうであるなどとはいっていないのである。たとえ井伏さんがそれを意識しているとしても、それをあらわに語らないところに、井伏文学というものがあるのだろうから。この文章を読んで私がこんなことをいうのは、これは程度の低い批評家根性がさせるようなもので、こんなことを書くのは、くだらないのだ。まして私が二人の間にわり込んで、おれの生き方を水滴の数に換算すればこのぐらいだろうなどといったとしたら、なおなお下司げすなことになるだろう。

この文章を読む者は、友達の死後、またその宿屋へ出かけて行って、もう誰も消しに来る者のない水道栓から漏れる水音を聞きながら、依怙地な友達のことを、いや友達の依怙地さを追憶している井伏さんの心の温度を感じとればいいのだ。この文章には次のような数行もある。

或るとき私が『君は、独活うどが好きだろう。独活そのものには、格別の味はないが、主観で味をつけて食べるから』と云うと『さては日ごろから、僕のことをそう思ってたんだな』と彼は笑いにまぎらした。

切抜/小山清「井伏鱒二によせて」より

自然音 - 水琴窟の音 -(Short Ver.)

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無限ーWaiting For The Miracle

2020-11-03 | 古今北東西南の切抜

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そう言えば、昔聞いたことを、今ふと思い出した。
 人から聞いた話では――こんな数学があるんだそうだが、俺が中学で習った数学とはまるでちがう。なんでもこれは今ではちっとも珍しくない数学だそうだから、珍しそうに言ってはおかしいが、中学は出た俺だからその説明ぐらいは俺にだってできる。
AB、A'B'の直線の図
 たとえばここにABとA'B'の二つの直線がある。ABは短く、A'B'は長い。ABは小さく、A'B'は大きい。ABはA'B'の一部とも見られる。ABはA'B'の部分とも言える。だが、はたしてそのABはA'B'よりも小さいかということなのだ。見た眼には、たしかに小さいが。
OAA'B'Bの図
 AA'とBB'との交点をOとする。このOからOM'という直線をひくとABとはMでまじわる。ここでM'をもしA'B'上の左右に動かすと、かならずそれに対応してMも動く。M'A'よりB'のほうへ動くと、Mも同様にAよりBへ動く。
 AB上のすべての点とA'B'上のすべての点をここで考えてみる。A'B'のすべての点をOと結びつけると、かならずその点に対応する点がAB上にも存在する。そうなると、A'B'上の点と、AB上の点とは同等であり、ABとA'B'とは同等なのだ。ABはA'B'より小さいとは言えないのだ。
 実はこれは無限という概念と結びついたもので、これでもって今まで漠然ばくぜんとしていた無限という概念がはっきりしたと言う。

切抜/高見順「いやな感じ」より

LEONARD COHEN - Waiting For The Miracle

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遅速で括れない早さ

2020-10-29 | 古今北東西南の切抜

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米海軍特殊部隊SEALsは

「何事もゆっくりやれば順調に進み、順調に進めば速く終わる」

という言い回しで知られる。

彼らのように迅速な対応を求められる特殊作戦部隊は、逆説的なようだが、緊急を要するミッションの計画および実行の両方で、順序を踏んで入念に事に当たる。

60年にわたる危機的状況における活動から、ゆっくりと滞りなく仕事を進めれば、ミスややり直しが減り、結果的にミッションを早く遂行できることを学んできた。つまり彼らは、リーダーたるもの、

「オペレーションのスピード(速く動くこと)と戦略のスピード(価値提供までの所要時間を短縮すること)を混同してはいけない」

ことを学んだのだ。(source)

-切抜/「危機下のリーダーには忍耐力が求められている」より

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簡単・目安スー

2020-10-25 | 古今北東西南の切抜

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ーにわかに、親近感を妙に覚える人たちが確かにいる。わからないがそれは否応を特定することの出来かねる、ひとつの在り方、として多数派ではないにしても確かに近いと感じるのである。ー

村上:昔から気になっているのは、確率です。気象情報で「何%」というと、いかにも科学的になったように見えるけれど、何%と言った時の100%から引いた方はわからないわけでしょう。そのわからないということをわからないとして正面から受け止める。何%とは何を意味しているのかということをきちんと理解して、よくわからんのだけれども、そのわからんところに対応しようという気持ちで、最後まで我々自身がいられるのか、それとも数字が「%」で出たから、その数字をよりどころにして行動しましょうとなるのか。

西垣:非常によいことをおっしゃっていただきました。最近のAI(artificial intelligence)というのは、統計処理をやっています。確率分布を仮定して、計算して答えを出す。ところが状況ががらりと変わってしまうと、分布そのものが変わるので、AIの計算結果は役に立たなくなる。そこが問題なのです。

カンタン・メイヤス―という現代哲学者はわからなさに二通りあると言っています。一つは英語で言えばポテンシャリティ(潜勢力)。これは確率的なわからなささで、繰り返しているうちにだんだん見当がついてくる。もう一つは。ヴァ―チャリティ(潜在性)です。こちらは、対象の挙動がなにをもたらすか全く予測が出来ない偶然性みたいなものなのです。わからなさにはこの二つがあるのに、我々はみんな大体ポテンシャリティでなんとかなると思っています。地震を例にすると、首都圏直下型地震が起きる確率は何%だとかいいますが、メイヤス―にいわせると「そんなことはヴァ―チャリティだからわからない」となるでしょう。

要するに世の中の事実の根本には、我々人間には偶然としか思えない根本的なわからなさがあるということです。サイコロを振って出る目を当てるようなポテンシャリティについては、確率計算で予測できるけれど、そればかりではないのです。

AIは過去のデータに引きずられる存在で、全く新しい環境条件のもとでは役に立ちません。ところが人間などの生物は、新たな環境の中でもなんとか生き抜こうとする。このなんとか生き抜こうとする直観力みたいなものが弱まると、死にます。生物種は滅びます。人間はそのことに気がつかないといけないんじゃありませんか。

中村:フランソワ・ジャコブと言う研究者がいます。彼は生物とは何かを説明しています。私は彼の考え方がとても好きです。彼は、生物を①予測不能性、②偶有性、③プリコラージュ(ありあわせの材料、道具でものを造ること)、と言っています。寄せ集めでできた予測不能なものが生物だと、分子生物学者として説明しているのです。私は直感的に、この説明はぴたりと当たっているなあと思っています。

西垣:当たっていますねえ。

村上:最近私が「わからないことについてどう対応したらいいか」ということで、大変感銘を受けたのは森山成彬さんという精神科医がおっしゃった言葉です。彼が、「ネガティブ・ケイパビリティ」と言う言葉を提案されたんですよ。ごく簡単に言ってしまうと、「ちょっと立ち止まって待つ」です。

我慢すること、それに耐える能力。要するに現代社会はできる限り懸命に正解を探し当てて、果断にそれを実行することが要求されている、その能力がポジティブ・ケイパビリティです。その能力ばかりで人間は行動し、判断するのが正しいと思われているけれど、ちょっと待って、決断し、行動するのを少し控えてみようという、その時間に耐えてみようよいう能力です。

ー切抜/中村桂子、村上陽一郎、西垣通、「ウィルスとは何か」より

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人は一日を過小評価し10年を過大評価する。その逆も真なり。

2020-08-31 | 古今北東西南の切抜

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——分光法のなかでも岩田先生は「時間分解分光」という方法に取り組んでおられます。ピコ秒(10-12=1兆分の1秒)、フェムト秒(10-15=1000兆分の1秒)といった時間スケールの現象に着目されているそうですね。

特に私たちは、溶液中の化学反応に注目しています。たとえばコップの中に入っている水は、分子同士が1ピコ秒に10回くらいぶつかっています。

化学反応は分子と分子がぶつかった拍子に起こることが多いので、化学反応を見るためには、10分の1ピコ秒(=100フェムト秒)程度の時間スケールで分光測定を行わなければならないということになります。

——生体膜の物理化学的なおもしろさはどこにあるのでしょうか。

物理化学の視点からからみると、生体膜ってものすごく変な場所なんです。生体膜を構成する脂質二重膜は、リン脂質が2層になってできている膜です。リン脂質分子は親水性の頭部と疎水性の尾部からなっており、水っぽい部分と油っぽい部分を同じ分子のなかに持っています。そして、水の中では頭部を外側、尾部を内側にしてリポソームという脂質二重膜のカプセル状の集合体を作ります。膜の厚さは5nmほど。そのすごく薄い厚さの空間やそのすぐ近くで生化学反応が起きているのです。

水は反応性に富み、有機化学反応の中間体と反応して本来の化学反応を妨害することがあるため、一般的な有機合成反応では反応溶媒の脱水を念入りに行うなど、水は徹底的に嫌われています。だけど身体のなかでは、たくさんの水がすぐそばにいるところに油の集合体である脂質二重膜が浮かんでいて、そこで生化学反応が起きています。生きものはなぜ、どうやって、そんな「変な場所」を使って化学反応をしているんだろうということには、素朴に興味がありますね。

(引用/10兆分の1秒の世界で起きる誰も見たことのない現象を追う – 「時間分解分光法」で挑む、学習院大学・岩田耕一教授)

 

《「三島由紀夫は高度の知性に恵まれていた。その三島ともあろう人が、大衆の心を変えようと試みても無駄だということを認識していなかったのだろうか」

「かつて大衆の意識変革に成功した人はひとりもいない。アレクサンドロス大王も、ナポレオンも、仏陀も、イエスも、ソクラテスも、マルキオンも、その他ぼくの知るかぎりだれひとりとして、それには成功しなかった。人類の大多数は惰眠を貪っている。あらゆる歴史を通じて眠ってきたし、おそらく原子爆弾が人類を全滅させるときにもまだ眠ったままだろう」

「彼らを目ざめさせることはできない。大衆にむかって、知的に、平和的に、美しく生きよと命じても、無駄に終るだけだ」》 -ヘンリー・ミラー

 

Bryan Ferry - More Than This ( Rework Retro Remix)

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ここぞ‘ねばり’のとき

2020-08-17 | 古今北東西南の切抜

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‘ねばり’ということは、これを他の言葉で申せば根気とか、あるいは意志とかという言葉に当たるでしょう。しかし言葉というものは実に微妙なもので、それぞれの生命を持っていると同時にまたその個性を持っているのです。そこでねばりというのと、根気とか意志力というのでは、大体の上では、同じ方向を示す言葉ですが、しかし今その一つ一つについて吟味してみると、それぞれ趣が違うのです。

そもそもわれわれが一つの仕事に着手して、これを一気に仕上げるという場合、どうしてもこれを仕上げるぞと決意する気持ちは、意志という言葉が最もふさわしいと言えるでしょう。ところがそうして決意した事柄を、実際に中断しないで持ち続けていくには、もちろん意志と言っても何ら差支えないわけですが、しかしある意味では根気と言う方が、よりふさわしいかと思うのです。

ところが人間が一つの仕事を始めてから、それを仕上げるまでには、大体三度くらい危険な時があるもののようである。もちろん事柄にもより、また人にもよることですが、しかしまず全体の三割か三割五分くらいやったところで、飽き性の人とか、あるいはそれほど進んでやる気でなかった場合には、ちょっと飽きの来るものです。この第一の関所を突破するには、‘意志’という言葉が一番ふさわしいでしょう。

この三割か三割五分あたりの第一関門をすぎると、当分のうちは、その元気で仕事が進むでしょう。ところが六割か六割五分あたりのところへ来ると、へたってくるのです。そして今度の‘へたり’は、前よりも大分ひどいのが常です。第一の関所で落伍するような人間では問題になりませんが、この第二の関門となると、心身ともにかなり疲れてきますから、まず七、八割の人は、ちょっとへたりこむのです。そこでその際立ち上がるのは、もちろん意志と言ってもよいわけですが、しかし私は、根気という方がもう少し実感に近いかと思うのです。

そこで根気を出して、この第二の関門もついに打ち越えたが、しかしその頃には、相当疲れていますから、持ちこたえるという程度の力しか出にくいのが普通です。つまり第一の関所のように、立ち上がりだしたら、ある意味ではこれまで以上の勢力で突破していくということは、容易にできにくいのです。そこで、とにかくへたり込まないで、なんとかがんばりを維持していく、それにはどうしても‘根気’という言葉が、最もふさわしいかと思うのです。

ところが八割前後になると、いかにも疲れがひどくなって、どうにも飽きがきて、何とか一息つきたくなるものです。しかしそこで一息ついてしまったんでは、もちろん仕事は成就しません。仮に後から補ってみたところで、どうしても木に竹をついだようなものになってしまいます。同時に‘ねばり’という言葉が、独特の意味をもってその特色を発揮し出すのは、まさにこの第三の関所においてです。

これは富士登山で言えば、まさに「胸突き八丁」というところで、最後の目標たる山頂は、眼前すれすれの所に近付いていながら、しかも身心ともに疲れ果てて、いたずらに気ばかりあせっても、仕事の進みはすこぶる‘のろい’のです。つまり油はほとんど出し切って、もはやエネルギーの一滴さえも残っていないという中から、この時金輪際の大勇猛心を奮い起こして、一滴また一滴と、全身に残っているエネルギーを絞り出して、たとえば、もはや足の利かなくなった人間が、手だけで這うようにして、目の前に見える最後の目標に向かって、‘にじりにじって’近寄っていくのです。これが‘ねばり’というものの持つ独特の特色でしょう。

そこで私は、この‘ねばり’というものこそ、仕事を完成させるための最後の秘訣であり、同時にまたある意味では、人間としての価値も、最後の土壇場において、この‘ねばり’が出るか否かによって、決まると言ってもよいと思うほどです。

すなわち百人中九十七、八人までが投げ出すとき、ただ一人粘りに‘ねばり’ぬく力こそ、ついに最後の勝利を占める、もっとも男性的な精神力と言ってもよいでしょう。同時にこうした‘ねばり’の‘こつ’は、運動をやっている人たちは、むろん分かっていることと思いますが、しかしそれが単に運動だけにとどまって、現実の人生そのものの上に発揮できないようでは、まだ十分とは言い難いのです。この点諸君の深く工夫あらんことを切望してやまないしだいです。

-切抜/森信三「修身教授録」より

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何事も起こり得る。

2020-08-02 | 古今北東西南の切抜

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たとえば、プライバシーについてー

プライバシーに関する思想は社会に根差すので、気にする社会もあれば、気にしない社会もある。西欧の視点では、中国国民のプライバシー保護の欠如は、有害という見方もあります。しかし、中国人がそう感じているかどうかはわかりません。

・・米国人でさえプライバシーを守りたいと言いながら、生活の出来事のすべてをフェイスブックに書いている。ですからとても難しいのです。言行不一致だったりするので。プライバシーについて、我々は実はあまりよくわかっていないように思います。

 

たとえば、働き方改革についてー

我々は週に5~6日働いてきました。しかし生物学的には、週6日働かなければいけない根拠などない。人々がもっと短く働き、より多くの人に仕事を広げる職場環境が必要だという人もいます。

しかし、これらは憶測に過ぎないし、私は何が起こり、何が起こらないのかは、起こってみなければわからないと思っています。

(会社の目線では、平均的な人が週に2,3日働くよりも、優秀な人に高くお金を払って週5日働いてもらうという選択になるのかもしれません)

-アジェイ・アグラワル

 

起こらないことがあったのに気にしない、起こったとたんに気にするというのは、どうにもへんな対応ではありませんか。

何事も起こったか起こらなかったという事ではなく、護持すべきはすべての物事は起こり得るということではないでしょうか。

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所謂、ニューノーマル について。

2020-07-20 | 古今北東西南の切抜

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世界の歴史の大きな転換点には、しばしば宿命的な人物が現れて、世界の方向を変えてしまう。

その後に生まれるのは、アルベルト・シュペングラーが1914年に予言した「西洋の没落」、エマニュエル・カントが1795年に予言した「永遠平和」、そしてリチャード・バックミンスター・フラーが1981年に「クリティカルパス」で予言した世界などの要素を持つ、新しい時代である。

そして、新型コロナがもたらす「どの国家でも、人種でも、民族でも、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に罹る」という明白な事実は、「人類は一つの種である」ことを否応なく立証することになる。

そうなると、2030年頃には、「新たな共存共栄の方向を見出して、全体としての生存を図るしかない」というホモサピエンスとしての社会的な本能が具現化していくだろう。

今回も、世界大恐慌の震源地は米国になるだろう。だからこそ、米国の中から世界の歴史を転換する宿命を背負った指導者が出てこない限り、この大恐慌が収束することはないだろう。

ここから先は全く空想の産物である。米国と世界の歴史を転換する宿命を背負ったリーダーはミシェル・オバマさんになるのではないか。

彼女は聡明さ、慎み深さ、清潔さ、高い知性を備え、プリンストンとハーバード出身の弁護士として培ったプロフェッショナルな能力がある。

さらに、ファーストレディーとしてバラク・オバマ大統領を支え、8年間にわたってホワイトハウスを相当な部分で切り盛りをしてきた経験もある。

それにもかかわらず、どちらかというと控えめで、かつ、輝くような女性であり、絶大な人気がある。

新型コロナによる大恐慌が始まる2020年以降、次の米大統領選挙がある2024年まで、多くの苦しみの時代を経て、人々は争うことよりも協調することの重要さを身に沁みて理解するだろう。

バラク・オバマ大統領のファーストレディーとしての8年間と言う輝かしい経験のほかにミシェル・オバマさんが持つのは、西洋人によって米国に強制的に連れてこられたアフリカ人奴隷の子孫であるという宿命である。

新型コロナ以降の米国は、このまま根強い人種差別を持ち続ける国になるのか、それとも、「我々は同じ人類である」という認識に達するのか。

世界でも同じ問いかけがなされるだろう。

日本も例外ではない。日露戦争以降は、米国に移住した日本人は「黄禍論」や人種差別に苦しんだ。

第1次大戦後のベルサイユ条約では日本が提案した「人種平等原則」は否決された。

そして、日本人自身も朝鮮半島出身者やアイヌ民族への差別をしてきた。差別のない国は地球上にほとんど存在しないだろう。

差別がある限り、人類を欠乏の恐怖から解放する「多次元ネットワーク」を全世界に広げるのに大きな障害となる。

どうすれば差別を克服できるのだろうか。問題を解決するための宿命を帯びた指導者が米国に必要になると予測する。

人類誕生の地である辺境から連れて来られた者の子孫であり、ホワイトハウス入りする前はシカゴのサウスサイドという貧困地域に住み、最も優れた能力をもつ人間である、という宿命を帯びたミシェル・オバマさんが米国の大統領になる時に、米国も世界も大きな転換点を迎えるのではないだろうか。

そのような夢想が湧いてくるのだ。

(切抜/山崎養世「コロナ禍の大混乱が去り、新たに生まれる世界秩序」JBpressより)

Cher - GIMME! GIMME! GIMME! (A Man After Midnight) [Official HD Audio]

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彼らの掟

2020-07-11 | 古今北東西南の切抜
(picture/source)

彼らは、人間が地球に登場するはるか昔から生態系の中で生物多様性の一員として進化を繰り返しており、それぞれ決まった生物とともに共生関係を築いてきた。

そしてある種の生物集団が増えすぎて(密になり)生態系のバランスを崩すようなことが起これば、その集団に寄生して感染症をおこし、集団密度を低下させて数の調整を図るとともに、より病気に強い集団へと進化させる。すなわち内なる天敵としての機能を果たしてきた。足の遅いシマウマから食べて、シマウマ集団の数を調整するとともに、より足の速い強靭なシマウマへと進化させているライオンと同じ役割を担っている。

生態系と言うシステムでは、太陽エネルギーによって植物が二酸化炭素と無機塩(窒素やリン)を材料として光合成をおこない、酸素と有機物をつくりだし、それを一次消費者である草食動物が利用して繁殖し、それをその上の肉食動物が利用する、と言う具合に生物の階層性が構築されている。すべての動物は死ねば屍と化して、細菌や菌類によって無機物へと分解され、再び植物の光合成の原材料として活用される。

このシステムには、物理的制約による重要な構造が存在する。まず、各階層で消費できる物質の量は、生態系の上位に行くほど少なくなる。なぜなら、生物は、食べたものから得たエネルギーを活動に使うので、その生物に蓄えられる栄養量は、食べた量より減るからである。だから、生態系の上に立つものほど、必然的に個体数が小さくなるという、生態系ピラミッド構造がつくられる。

人間が、自力で火をおこし、道具をつくっている時代は、バランスが取れていた。生態系の掟から大きく離脱し始めたのは、産業革命以降、化石燃料の利用を開始した時からであった。飛躍的な破壊能力、移動能力を手に入れたことで、すべての生物の上に君臨する、生物史上最強の消費者と化した。人間はあらゆる生物から資源を搾取し、寄生生物からの攻撃を抗生物質で封じ込め、高い生存率と長い寿命を獲得し、ひたすら増え続けた。この人口を支えるために、乱獲や農業面積の拡大を加速させている。

エネルギーと資源の大量消費は、結果的に生物の生息環境を悪化させ彼を呼び寄せ、生物多様性の減少を招くと同時に、地球の環境負荷を急激に変更かつ進行させている。

生態系のバランスを崩すほどまでに増えた生物は、一方で、餌としてみたら、極めて有効な資源となる。すなわち、天敵が登場すれば、増えすぎた生物種は格好の標的となり、捕食され続けて、数を減らすことになる。その天敵として、より強い捕食性動物が登場することもあれば、寄生性微生物の出番となることもある。

ここまで増加し密集している人間はまさに、彼らにとって絶好の獲物といえよう。生態系の奥深くからスピルオーバーした彼らは、みずからの増殖のための工場として、大量に存在する人間の体内に入り込んで、そのエネルギーを最大限利用しようとするのは、彼らの掟に他ならない。

(切抜参照/五箇公一「人類の進歩が招いた人類の危機」 DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー 2020 年8月号より)

『風のメルヘン』
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誠(まこと)について。

2020-06-24 | 古今北東西南の切抜
(画像/映画「切腹」より)

武士的気風は、日を遂(お)うて頽(くず)れてくる。

これはもとより困ったことには相違ないが、しかしおれは今更のようには驚かない。それは封建制度が破れれば、こうなるということは、ちゃんと前から分かっていたのだ。

今でもおれが非常な大金持ちであったら、4,5年のうちにはきっとこの風を挽回してみせる。

それはほかでもない。全体封建制度の武士というものは、田を耕すことも要らねば、物を売買することも要らず、そんなことは百姓や町人にさせておいて、自分らはお上から禄を貰って、朝から晩まで遊んでいても、決して喰うことに困るなどという心配はないのだ。

それゆえに厭でも応でも是非に書物でも読んで、忠義とか廉恥とか騒がなければ仕方がなかっのだ。それだから封建制度が破れて、武士の常禄というものがなくなれば、したがって武士気質もだんだん衰えるのは当たり前のことさ。

その証拠には、今もし彼らに金をくれてやって、昔のごとく気楽なことばかり言われるようにしてさえやれば、きっと武士道も挽回することができるに相違ない。


世間の人はややもすると、芳を千載に遺すとか、臭を万世に流すとかいって、それを出処進退の標準にするが、そんなけちな了見で何が出来るものか。

男児世に処する、ただ誠意正心をもって現在に応ずるだけのことさ。あてにもならない後世の歴史が、狂と言おうが、賊と言おうが、そんなことは構うものか。

要するに、処世の秘訣は誠の一字だ。

(切抜/勝海舟「氷川清話」より)


鶴田浩二 傷だらけの人生
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ころんでもころんでも

2020-05-31 | 古今北東西南の切抜
(gif/source)

古代エジプトでは、スカラベ(糞転がし)は、復活と自己生成という高度な概念を象徴していた。

スカラベは、丸めた糞に卵を入れて、東から西に向かってフンの玉を転がす。これを見た古代エジプト人は、夕方に「死に」日の出で「生き返る」太陽の、毎日の活動周期を思い起こした。というのも、卵が隠されているなんて思いもよらなかったから、糞の中で卵がかえり、幼虫が出てくると、スカラベに自己生成の能力があるように見えたのだろう。

動物の糞は、フンコロガシのエサで、卵を入れておく孵化室の材料にもなる。オスは糞の山にたかって、運べる限りたくさんの、ときには自分の体重の50倍もの糞を集めて球場に丸める。糞の玉は雌へのプレゼント。

また、フンコロガシは、糞の玉を転がす前に、玉によじ登って、くるくるまわる。糞のダンスをするのは、障害物にでくわしたときや、玉が転がっていったときにも踊る。

そして、逆立ちして、後ろ足で糞を押しながら一直線に進む。人間なら自分がどこをどう進んでいるかわからない。

フンコロガシは、糞の上でダンスをしているあいだに、頭の中で空の「スナップ写真」を撮影して、移動中にときどき実際の夜空と比べながらコースをたどっているようだ。

神聖な糞転がしは、満天の空の下で糞の玉に乗ってダンスをしているときに、頭の中に星図を描いている。

(参照/ベリンダ・レシオ「INSIDE ANIMAL HEARTS AND MINDS」)
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居家如客

2020-05-21 | 古今北東西南の切抜
(gif/source)

「一つ、親子兄弟夫婦をはじめ諸親類に親しくし、下人等に至るまでこれを憐れむべし。主人ある輩は各その奉公に精を出すべき事」。

これは先輩中沢翁拝読せられたお上の御高札の写し、幾度聞いても聞き飽きのない有難いことなので、これに倣って話します。畢竟、人は互いに仲良くして、世界中小言なしにニコニコと機嫌よく暮らせということじゃ。

もしこれが間違って、「一つ、親子兄弟夫婦をはじめ諸親類と喧嘩し、下人等に至るまでこれを酷く使うべし。主人ある輩は各その奉公に精を出すべヵらず」。とのお達しならば何とする。

明六ッの鐘がなると親子兄弟夫婦そろそろ寝所から喧嘩をはじめ、茶の沸く時分までひといき掴み合って、まず息休めに朝めしを食い、箸を下に置くやいなや、子は親に口ごたえし、弟は兄のよこつらを張り、亭主は女房を引きずりまわし、泣くやらわめくやら、茶碗割るやら煙草盆踏み砕くやら、ほっとした時分に昼めしを食い、それからまた叩き合い、日が暮れても精出して夜なべ仕事に喧嘩する。

なんと365日こんなことが していられようか。それでもお上のお達しならば、否応でもしなければならず、これがなかなか三日も続けられそうもない。
この仲良くすることは、元来人の生まれつきのことなので、生まれつきの通りしなさいということなら、喧嘩せずに100年でもいられる。例えば、手の指の内へ曲がるは生まれつきなので、何回曲げても楽なもの。もしこれを外へ曲げるとたちまち痛んで歪み、使えなくなる。これと同じことじゃ。

人、この世に仮に客に来たと思え。客なれば夏の暑さも冬の寒さもこらえねばならぬ。妻や子や孫もなおもって相客なれば、挨拶よくしてお暇申すまで。

父母に呼ばれて仮に客に来て心残さず帰る故郷

家ニ居ルヤ客ノ如シ

いかさまこう心得ると辛抱ならないものはない。自宅に居れば丸裸でもまだ暑いような夏の日でも、人様の家に呼ばれ客だと思えば、ネクタイ姿でも小言云う気ままも辛抱がなります。厳冬素雪の冬の日に、青洟垂れてずずぶるいに成っていながら、いえいえ暖かにございます、と言う歯の根もあわなくても客だと思えば辛抱がなる。

(引用/鳩翁道話より)

とにもかくにも何事もニコニコと機嫌よく堪忍して仲良く暮らすが、よろしかろう。なにはともあれ、いこう、いけるとこまで。

L'Oceano di Silenzio - Franco Battiato - Salar de Uyuni (Bolivia)
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