アントンK「趣味の履歴簿」

趣味としている音楽・鉄道を中心に気ままに綴る独断と偏見のブログです。

カリスマ演奏家の魅力とは

2016-10-29 10:00:00 | 音楽/芸術

最近発売された専門誌に、カリスマ演奏家の魅力をまとめた特集があったので目を通している。そもそもカリスマと呼ばれる演奏家は、アントンKにとっては、天にも届くとても近寄りがたい存在との認識だった。その演奏家が、もうこの世にいないのなら、残されたエピソードを読んだり、聞いたり、またレコードから出てくる音楽で想像できた。この想像がカリスマ性を生むのだと思っていた。ずっと語り継がれているフルトヴェングラーやクナッパーツブッシュをはじめ、前世期の巨匠たちがこの現代にもし甦ったら、同じようなカリスマでいられたのだろうかと考えてしまった。

アントンKが今この特集を読んで感じたことは、カリスマとは自ら発するのではなく、世間や時代がカリスマを生み出すということか。だから、カリスマとはある意味ま逆な現代社会では、もうカリスマ演奏家など出てこないと思われる。現代では、もっと身近な自分たちと変わらないことが好まれるから・・・大衆から距離を置き、威厳があるような人間は社会から相手にされないようである。みんな同じが好まれる時代。音楽においても、また写真においても、みんな同じ。この無個性な時代、何とかならないだろうかと思うのだが・・・

最近聴いた、ピアニストのアファナシエフ。彼もカリスマ演奏家の中に上がっていたが、確かに演奏は超がつくほど個性的だったが、一度舞台を降りると、随分愛想のよい紳士に映った。カリスマといった近寄りがたさはなかったのだ。朝比奈隆も同様。自ら舞台の上では役者だと語っていたが、普段は親しみやすい親父といった雰囲気だった。

アントンKにとっての今まで体験したカリスマ演奏家は、セルジュ・チェリビダッケのいう指揮者だろう。ビデオでも多くの映像が残されているから、その風貌や指揮振りは見ることができるが、自分が実際感じたようには中々残されていない。今でも忘れられないことは、チェリビダッケが舞台に登場した途端に、こちら側、つまり客席側の空気が変わったように感じることだ。ピンと張り詰めるというのか、冷たく透き通るというのか、拍手で沸くホールに独特の色目が加わる。そして、演奏が始まるが、最初の音が出るまでが長いこと長いこと。先ほどの空気が、ホール全体に行きわたるまで、指揮者チェリビダッケは、ジッとして動かない。ホールでの咳や雑音が無くなるまで待っていると思っていたが、実はそうではないようだ。全く無音になり、耳がツーンとしてきた時、タクトを下ろすのだった。今思えば、この数分、数十秒の間に、アントンKは極度に集中して冷静に音楽に身を置くことができた訳だが、同時にこの時点でチェリビダッケの魔力に吸い寄せられてしまったのだろう。つまり、チェリビダッケ自身が、指揮台で音楽に集中している気がホールに伝わってきたと理解できるのだ。こんなだから、演奏時間の長いブルックナーも一瞬の出来事に感じてしまう。まさに音楽とは空間芸術ということを思い知らされたのだった。今聴いていた音楽をまたすぐにでも聴きたくなる衝動に何度もかられたものだ。チェリビダッケの演奏には、そんな魔法がかかっていた。こんな些細な出来事が語り継がれていくこと、それがカリスマ演奏家なのかなと、今では自分の中では変に納得している。

 



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