風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

アナイス・ニンの官能日記(1)

2008-03-15 13:43:55 | コラムなこむら返し
Henry_june_anais アナイスの名前は、新潮社版ヘンリー・ミラー全集第1巻『北回帰線』が刊行された時(1965年3月)に知った。なぜなら、アナイスはそのヘンリー・ミラーの代表作にして出世作の『北回帰線』の「序」を書いており、同時に翻訳されていたからである。アメリカやフランスでは知られた作家だったらしいが、果たしてどのような作家であるのかは長い間知る術がなかった。その時点では、1冊も翻訳されていなかったからである。

 アナイスが日本でも知られるようになったのは、前の記事でも書いた『アナイス・ニンの日記/ヘンリー・ミラーとパリで』(以下『日記』。翻訳1974年11月河出書房新社原真佐子訳。現在ちくま文庫で読める。翻訳者は原麗衣となっているが、これは同じ翻訳者が改名したためで、同じ内容である。1991年4月刊)からである。しかし、この『日記』は生存者への配慮からアナイス自身の手で、大幅に削除改編されたものだと言う。

 アナイスは『日記』の作者として現在は高名だが、60年代半ばから『愛の家のスパイ』(河出書房)、『近親相姦の家』(太陽社)などが、翻訳されはじめる。が、当時はほとんど一般に知られることはなかった。アナイス自身は『愛の家のスパイ』が翻訳された1966年には来日しており、『文藝』誌上で日本の作家と対談し、浴衣姿で旅館でくつろぐ写真も残されている。

 最近、1990年に映画化された際の原作となった『ヘンリー&ジューン』を手に入れて読んだら、ビックリしてしまった。それは、まるでひとりの女が、内面もセックスへのあからさまな希求においても成熟してゆく姿を赤裸々に描いた官能文学そのものだったからである。
 『ヘンリー&ジューン』は、先の『日記』と時期的には重なる。『日記』は1931~34年をカヴァーするものだが、『ヘンリー&ジューン』は1931年10月~翌32年10月までの1年間を無削除版としてまとめられたものだという。アナイスの日記は、日付けもないまるで内面の物語のように綴られているが、それにしてもこれはまるで別物、別のストーリーじゃないかと思える。

 アナイスは(それを導き出したのは愛人でもあったヘンリー・ミラーの功績かも知れないが)実は官能文学の書き手としては相当な才能をもっていたと思う。と言うより、女性がみずからのセックスをあからさまにその欲望も含めて表現したのは、アナイス・ニン以前にはいなかったとさえ断言できるほどである。
 そして、アナイスの官能文学の片鱗は、最近では『小鳥たち』(新潮文庫2003年3月矢川澄子訳)に収められた13編のエロチックな短編の中で感じることができるだろう。

 アナイスは他に『ヴィーナスの戯れ』『ヴィーナスのためいき』(富士見ロマン文庫)のエロチカ二部作や『デルタ・オブ・ヴィーナス』(二見書房)などを残しているが、いずれも発表時には名前を伏せ、晩年自分の作品であることを認めたものである。

(つづく)


ザンパくんからのメール

2008-03-14 22:22:36 | アングラな場所/アングラなひと
 そのメールはボクにとってはとってもうれしかった。メールの主はザンパくん。最近、サイケデリックバンド「ねたのよい」にジャンベとしてメンバー加入し、本人も高円寺のエスニック関係の有名店である「仲屋むげん堂」でバイトをしている若い男の子だ。
 彼は、10日の「月裏の集い」でも、ボクの「部族宣言/2008」でボンゴを叩いてくれ、「ねたのよい」でも出演した。どうやら、フライヤ-関係の宣伝の仕事を「ねたぞく」でになっているようである。

 「10日は「部族宣言/2008」を本当にありがとうございます!

 改めて文字として受け止めてみて鳥肌がたちました。
 自分も『ねたのよい』として看板を背負い生きていくこととなりました。

 やっと自覚し始めた覚悟ですが全ての『ねたぞく』とともに光にむかい、日々を生きていきます。

 フリーペーパーになるかフライヤーになるかはまだ分かりません。早いほうがいいだろうと思いフライヤーでまくかもしれません。

 一つ漢字がわからないので教えて下さい。
 前半の「あるいは島嶼部」の箇所の読み方を教えてください。

 よろしくお願いします。 」

 「島嶼部」(とうしょぶ)が読めなかったのは愛嬌だが、ザンパくんがこんなにもしっかりとした文章を書くとは思わなかった。それに、こんなにも正面からしっかりと「部族宣言/2008」を受けとめてくれたこともボクには意外なほどの喜びだった。
 それに、なんとザンパくんはテキストで読んで(フリーペーパー使用のためにメールで、テキストを送ったのだ)「鳥肌」までたててくれたのだ。
 高円寺トライブの一員そして「ねたぞく」にこんなにもしっかりと受けとめてもらってボクの方が感激した。ありがとう! 高円寺トライブそしてねたぞく、若者たちよ!

 「部族宣言」のテキスト公開を御期待下さい!

(ザンパくん! キミからのメールをここで公開してしまいましたが、許してね。)


置き忘れられたモニュメント

2008-03-13 01:08:59 | まぼろしの街/ゆめの街
Kabukicho_2 その街を行き交う人は、まったく意に介さないか、見過ごして通り過ぎてしまい、そんなモニュメントが建っているのさえ知らないのだろうが、新宿歌舞伎町のコマへ向かう通りにそのレリーフのモニュメントはある。そこへゆくとボクは、周りの喧噪も派手な看板も、すっかり変わってしまった街の佇まいも忘れて60年代半ばのその時へタイムスリップすることが出来る。

 ボクは、この空を見上げるような女性像に惚れていた。そのモニュメントはその頃、ボクが毎日のように通っていた新宿ビートニクスのとりわけワルばかりが集っていた『ジャズ・ヴィレッジ』のすぐそばにあった。フーテン明けの夜が白々と明け染めた新宿の朝に、いやでも目についたし、なんだか、その母さんのように逞しげな肩や、胸元に郷愁さえ感じてしまい、家出をした先の母の面影さえ感じてしまうのだった。

 このレリーフ像には、2面あって反対側から見るレリーフは、これまたどうした訳か母の面影と言うよりは、長い髪を垂らした少女像のようにも見えるのであった。
 無雑作に積み上げられたレンガ石の上に、そのレリーフはあってその礎石から何からが、そこだけ40年以上の年月をそのままにまるで新宿と言う世界遺産「不夜城」の遺跡の上に奇跡的に残ったモニュメントのようで、ボクは幼い頃にボクが生まれた街である長崎で見た浦上天主堂の「被爆のマリア像」を連想させたりもしていたのかもしれない。

 先日、高円寺からの帰りにそこに立ち寄ったボクは、その像の礎石をなでてきた。すると、イメージはフラッシュバックし靖国通りには都電が走り、パンタグラフからフラッシュするアークが見え、歌舞伎町はジャズとR&Bの音楽で満たされ、角の銀行前ではポンが似顔絵描きをやっており、歌舞伎町公園の方から歩いてくる懐かしい仲間たちが見えたように思えたものだった。

 歌舞伎町には「スカラ座」がつたをからませた古色蒼然とした佇まいで建っており、「ポニー」があり、「ニューポニー」「木馬」「ヴィレッジ・ヴァンガード」「ヴィレッジ・ゲート」などのダンモの店、「王城」もその本来の名曲喫茶で経営し「カチューシャ」もロシア料理の歌声喫茶として開いている。
 そんな懐かしい幻影が見えたように思えたのだ。

 ああ、懐かしき青春。ボクのフーテン時代よ!



21世紀の「部族宣言」/40108年3月

2008-03-11 23:57:40 | アングラな場所/アングラなひと
Buzoku_akagrasu ついに21世紀の「部族宣言」が、10日のクラブ「Mission's」でのライブイベント「月裏の集い」で読み上げられた。ポエトリー・セッションという形での宣言の発表だ。バックのサポートは、エレアコギターでネギ(KORA CORA)、ドラムでIGGY(ねたのよい)であった(さらに、コンガ、ジャンベなどでザンパくんたちの助っ人)。
 思えば、1967年12月の日付けで『部族新聞』に掲載され、翌年5月に国分寺のC.C.C.つまり「エメラルド色のそよ風族」の集うアパートで数十人の仲間たちの前で読み上げられた「部族宣言」を第1次宣言(40067年12月という日付けを持つ)とすれば、この日の宣言は40108年3月の日付けのいわば、第2次宣言とでも言うべきものだ。西暦で言えば、2008年3月の21世紀の新しい「部族宣言」である。

 第1次「部族宣言」のメインの起草者はナーガこと長沢哲夫だった。「部族」では、若い世代に属していた。第2次「部族宣言」は起草したのはボクである。そしてねたぞくや高円寺トライブやネオビートニクスの若者にとっては、おそらく長老の世代のボクが、若者たちを鼓舞する意味で宣言を発した。

 これを今日、ここにもテキスト公開をしようと考えていた。ところが、どうやら「ねたのよい」がフリーペーパーを出すらしくそこへ掲載することが昨夜決まってしまったため、いま、公開するわけにはいかなくなってしまった。
 まだ企画段階らしくいつ発行される予定なのか不明だが、高円寺トライブか、井之頭トライブか、それともライブハウスのフライヤーの置き場に意をとめておいてください。「ねたのよい」はピースフェスと名付けたまつりをこの8月12日に代々木公園の野外音楽堂で開催することになっており、それには間に合わせたいと思っております。
 フリーペーパーの刊行状況や、どこで手に入るのかはまたこのブログでも逐次お伝えします。御期待下さい!



3/10 netazoku Presents「月裏の集い」/部族宣言2008

2008-03-09 23:25:44 | イベント告知/予告/INFO
Moon_backsideLIVE
ねたのよい/LOWLIFE SURFER/KORA CORA/濁朗

ポエトリー/部族宣言2008
フーゲツのJUN

DJ/SHUN(From 秋田)
オープン19時/スタート19時30分
出店 緑の月/雷音堂/サドゥーババ

入場料1000円(1D込み)
高円寺MISSION'S
東京都杉並区高円寺南4-52-1
Tel:03-5888-5605
高円寺MISSIONS
公式サイト→http://www.live-missions.com/
地図→http://www.live-missions.com/access/access.html

 明日です。直前告知ですが、高円寺トライブがまた結集するでしょう!


子守唄に抱かれて……/松永伍一さんを悼む

2008-03-08 23:58:20 | まぼろしの街/ゆめの街
 5日の新聞だったと思うが、ある詩人にして評論家のささやかな訃報記事が掲載されていた。
 松永伍一さん、詩人、作家、評論家。心不全のため3月3日死去。享年77歳。
 文壇や詩壇には所属せず、孤高の道をつらぬいた詩人だから、知っている人は多くはないかも知れない。この方は、その書くものがどこか土俗の匂いや、その郷土である九州の風が吹いていた。
 そして、やはり詩壇というものに縁のないボクが珍しく実際に会ったことのある詩人なのである。それも、それをとりもってくれたのが死んでしまったボクの母(そう、樹木となって千葉の天徳寺に眠る母)なのである。

 30年ほど昔になるが、当時まだ西武新宿線のS駅にほど近いアパートでひとり暮らししていた母が、ある日、松永伍一さんが近所に住んでいるから会ってみるか? と聞いてきたのである。一時は、そのおなじ駅の違うアパートに住んでいたこともあるボクは吃驚してしまった。松永伍一さんって、そんなにも近くに住んでいたのか、と。
 それで、母に紹介の労をとってもらったのだが、松永伍一さんは当時40代後半。まだ頭髪も黒く若々しく印象的な優しい目をしてらした。
 実のところ、何を話したのかよく覚えていないのだが、ボクは、松永伍一さんを長く農民詩人だという印象でとらえており、当時のボクは農業に多大な関心を持っていた頃なので、農業と詩人であることといったようなテーマを宮沢賢治などをひきあいに出しながら喋ったのではないかと推測する(自分の日記から、その記述を探し出してみる余裕もなかった)。

 とはいえ、そんなにもたくさんの著作を読んでいる訳ではない。印象に残っているのは、『荘厳なる詩祭』、『底辺の美学』や、天正少年使節のことを書いた『天正の虹』だろうか。しかし、忘れがたいのは『日本の子守唄』や『一揆論』といった本である。生涯を通じて150冊近くの本を書いた。
 『日本の子守唄』は、最近「日本子守唄協会」というNPOまでつくられ、子守唄が見直される風潮の中で(松永さんはその協会の名誉理事にまつりあげられたようだ)先駆的な研究書となった。ボクは、個人的には九州というみずからの郷土を掘り下げていったら「子守唄」という捨てられた棄民の唄に出会ったということだろうし、それにおそらくは松永さんと同郷の北原白秋の試みにちなんだのではなかったのかとにらんでいる。

 松永伍一さんは、谷川雁が「サークル村」づくりを北九州の炭坑地帯で「工作」しはじめた頃に、雁の「東京に行くな」という呼び掛けに逆らって上京し、同じ場所で根付いたように住み続け、そしてそこから郷土九州の根を掘り下げていったひとだと思っている(上京したのは1957年)。
 あの優しい小動物のような目は、おそらく土俗の葛藤を克服して獲得したものだったのだろう。
 松永さんは、晩年おつれあいの介護をし、妻を見取ると(05年11月)、自身脳硬塞で倒れたりして病がちだったようである。

 さて、ボクはいぶかしく思うのだが、どうしてボクの母と詩人松永伍一さんとの接点があったのだろうということだ。いま、ボクは確信して思うのだが、それは、ただ一点、ともに九州生れだということだったのだろう。たまたま、近所に住みお隣さんのような関係になった母が、なにやら何になりたいのかよく分からぬ不肖の息子に会わせてみるかとでも思ったのだろう。
 そして、同じく九州生れのボクへ、松永伍一さんはかぎりなく優しかった。それだけは、はっきりと覚えている。

 御冥福をお祈りします。合掌。


「クリシーの静かな日々」

2008-03-07 00:11:12 | コラムなこむら返し
Miller_portrait_2 ヘンリー・ミラーは性的に放縦だっただけでなく、ヴァイタリティに満ち、そして事実立派ないち物の持ち主だったらしい。また、セックスも上手かったようである。それに、彼自身セックスを宗教的な行ないに等しいものと考えていたようだ。
 2日前のこのヘンリー・ミラーに関する論考で、ボクはアナイス・ニンの日記を引用したが、そこにアナイスが「彼は……仏教のお坊さんの感じだ」と書いたこともあながちウソではないようだ。ヘンリーは書いている。

 「ロレンスはその論文の一つで、宗教的と性的という二つの優れた存在の仕方があることを示し、宗教的であるのは性的であるのよりも上であると言っている。彼によれば、性的な存在の仕方は小乗の道なのであるが、私は常に道は一つであり、それは救いではなくて悟達に導くものと考えてきた。」(「性の世界」)

 とすれば、そのような認識をヘンリー・ミラーが明確にしている訳ではないにせよ、このような考え方はほぼタントラの思考法と近似しているとは言えるだろう。御仏がダキニ(神妃)と合体している図象がチベット仏教にあるが、あのような心境と言えばいいだろうか。ヘンリー・ミラーはいわば「性の求道者」で、自身もそのことに自覚的だった。

 巴里での生活の2年目あたりにヘンリーは、「クリシーの静かな日々」の中で、カールとして登場する作家志望の男とアパルトマン(事実はホテル)をシェアして住んでいる。この人物は、のちに『わが友ヘンリー・ミラー』を書いたA・ペルレスであり、彫刻家オシップ・ザッキンへの山のような借金に苦しんでいたヘンリーは、転がり込むようにしてペルレスの好意に甘んじる。

 「クリシーの静かな日々」という中編は、この時代のエピソードを書いたものだ。
 おそらく妻ジューンからの送金で久方ぶりの小金を手にした主人公が、カフェで出会った貴婦人のような娼婦に有り金を巻き上げられて(同情してひと夜を共にした対価としてすべて差し出すのだ)、ひもじい思いをして部屋へ帰るとカールは14歳のまだ年端もゆかぬ小娘コレットを引っぱり込んでおり、そこから奇妙な三人の共同生活が始まる。さらに、ピストルをバッグにしのばせた夢遊病者のおんなのエピソード、ハンブルグでの三人の娼婦との話、などなど。ミラーがおそらく辛苦をともにして生涯の親友となるカールことペルレスとの性的な冒険の一部始終が語られた作品だ。

 ふたたび、アナイスの日記から。

 「彼の生活。底辺、下層社会。暴力、非情、金の無心、遊蕩。何という動物じみた生命の奔流。彼の言語、わたしのまるで知らない世界の描写。ブルックリンの街並み。ブロードウェイ。グリニッジ・ヴィレッジ。貧困。無学な人びとやあらゆる種類の人間とのつき合い。」

 このアナイスの日記のヘンリー・ミラーに関する記述のある箇所を抜き出して作られた『ヘンリー&ジューン』という本がある。この日記をもとにして1990年「私が愛した男と女/ヘンリー&ジューン」という映画が製作されている。この映画についてはあらためて書こう。
(了)



クレージー・コック/ヘンリー・ミラーのファルス信仰

2008-03-06 02:10:01 | コラムなこむら返し
Juneportrait ヘンリー・ミラーが、着の身着のままで巴里に到着した時、かかえていたボストンバックの中にはホイットマンの『草の葉』と、彼自身の未完の作品の原稿が入っていた。1920年代の後半に、書きはじめられたミラーの初期作品で、「モロック、この異教的な世界」と、初めはこういうタイトルが付されていた「素敵なレズビアン」という小説だった。この作品は後に、「クレージー・コック」というなんともすさまじい題名に変えられる。
 で、この作品はその存在は知られていたが、原稿は存在しないと長いこと思われていたようである。晩年、ヘンリー・ミラーはその絵画的才能でも知られるようになるが、作家としての出発点になる『北回帰線』以前の作品は未知のものだった。
 内容的には「素敵なレズビアン」というタイトルの方が、分かりやすいのだが、この作品の原稿はヘンリー・ミラーの2番目の妻であるジューンが、所持していた。ジューンは晩年精神病院に収容されていたが、彼女はみずからが育てた夫にして作家のヘンリー・ミラーが、若く美しい時代の自分をモデルにしたこの小説の原稿を後生大事に保管していたのだ。まるで、その原稿の中に若き日の自分自身とヘンリー・ミラーとの愛憎が封印されていたものであるかのように……。

 そして、ジューンはアナイス・ニンに負けず劣らずの美貌を誇ったほどの美女だった。いや、美貌だけで競うならアナイスに優っていただろう。だが、ジューンはどうやら、知性の面でアナイスに負けた。だが、ジューンは自らの野心のためには手段を選ばない女性だった。ミラーの作品の中には、ほのめかされそのためにミステリアスな印象を残すジューンだが、彼女はいわば高級娼婦で、その美貌と肉体を武器に夫であるミラーを経済的に支える覚悟であったようである。
 夫であるヘンリーは、おそらくその働きもせぬのに金を用立ててくる才能に気付きながらも素知らぬ振りをしている。ミラーに必要なものは金だけだった。
 しかし、ジューンからの送金は途絶えがちで、ミラーはしばしばそのジューンとの仲を疑っているエコール・ド・パリの彫刻家から生活費の調達というか、借金を積み重ねる。その金額は、今日のマンション1戸分に相当するほどだったと言うから、おそらくミラーはまるで女衒のように、自分の妻との不倫関係をネタに半分恐喝のようにしてこの彫刻家から金を無心していたのではあるまいか?
 ジューンは、ミラーが巴里に住みつくその3年ほど前に女友達であるジーンを伴って、巴里で遊んだ。ヘンリー・ミラーとは1924年に結婚しているから結婚3年目の事だ。そして、ジューン自身がその出自から名前ジーン・クロンスキーを与えた女友だちこそ、ジューンのレズビアンの相手だったらしい。ちなみに、ジーンはロマノフ家の血をひく名門の生れと言う設定だった。
 そのふたりの巴里滞在中にジューンはこの彫刻家と知り合い、ミラーはむしろこの唯一の妻の知り合いを頼って巴里に行った節がある。

 騙しあい、と言っていいものだろうか? むしろ、ミステリアスな存在としてジューンはまるで、ミラーにとっての宿命の女「ファム・ファタール」のような存在だったのでは? と、思えてくる。

 ヘンリー・ミラーは幸運なおとこだ。そして、10代だったボクは「ジャズ・ヴィレ」という新宿の不良少年の溜まり場にいて、ヘンリー・ミラーの『北回帰線』をフーテンバックの底に忍ばせて、ヘンリー・ミラーのようなおとこになりたいと憧れたものだった。

(追記)『クレージー・コック』は、原稿が発見されて1991年にアメリカで死後出版される(ヘンリー・ミラーは1980年に死去した)。日本では、書かれてからおおよそ70年後の1997年に幻冬舎から、谷村志穂訳で翻訳刊行された。もちろん、初訳である。



エトランジェの巴里の日々

2008-03-05 01:43:27 | コラムなこむら返し
Anais_nin_1 1930年3月4日??ちょうど、78年前の今日だが(この記事は、4日中にアップするつもりだったが、間に合わなかった)??ひとりのアメリカ人の男が3ケのバックをたずさえて巴里の街にやってきた。彼の胸には、この街で作家になるという野心しかなかった。ふところには数ドルの金しか持たず、まるで浮浪者のような身なりで、ボナパルト通りに面したオテル・ド・パリに宿泊した(翌日から、オテル・サンジェルマン・デュ・プレへ??当時は、まだ安宿だった)。その日から、この世界に名だたる古い街で、安宿とカフェと酒場とおんなたちとそして得体の知れないエトランジェ(異邦人、外国人)たちとの闘いにも似たくらしが始まった。
 彼の文学的出発は、その告白にも似た赤裸々な記述にあった。なにしろ、その文章は思いたつと数十ページにもわたる絶え間ない饒舌と、憎悪にも似た単語の羅列で、憑かれたように一気にタイピングされるのだった。猥褻な表現と、単語、ポルノグラフィまがいの性描写??しかし、そこで喚起されるイメージは黄昏のパリを思わせて美しくもある。

 その頃の、そのエトランジェの姿をある女性作家が、その日記に書いている。

 「彼は全然人目つかずに雑踏にまぎれてしまいそうな風貌をしていた。すらりと痩せていて、背は高くなかった。仏教のお坊さんのような感じだった。禿げかかった頭をつやつやした銀髪が後光のようにとり囲み、厚ぼったく官能的な口もとをしたばら色の肌のお坊さんだ。彼の青い眼は冷静で、よくものを観察しているが、口もとは感情があらわで、傷つきそうだ……彼はあの残忍で、暴力的で、生命力あふれる文章、カリカチュアやラブレー風のファルスや誇張とはあまりにもちがっていた。眼尻にたたえた微笑は道化がかっていて、声の甘いひびきはのどをごろごろ鳴らす猫の満足感を思わせた。」

 この日記の主は、アナイス・ニン。のちに、荒れ狂うようなエトランジェと愛人関係を結び、それどころか、その文才を見抜き、すっかりまいってしまってパトロンのような支えになる。
 このアナイス・ニン自身、十代で写真のモデルをやっていたほどの美貌の持ち主で、シュールレアレスムに傾倒しその日記を彩る交友録はアントナン・アルトー、ブルトン、マグリットなどの名前が輩出するが、翻訳された1931~34年の日記の中心は、先に描写されたエトランジェであるヘンリー・ミラーとアメリカにいる彼の妻ジューンとの関係、そしてアナイス一家を捨てた彼女の父への記述が、主たる主題となって浮かび上がる(「アナイス・ニンの日記」翻訳1974年河出書房新社。のちにちくま文庫に収録)。アナイスや当時のミラーの肖像写真はあの巨匠ブラッサイが撮っている。

 さて、そのパリ滞在中に書かれたタイプ原稿1,000ページにも及ぶ作品がのちの『北回帰線』である。
 日本でも比較的早くから翻訳され、またヘンリー・ミラーの代表作として続編『南回帰線』とともに知られるが、ボクはこれを新潮社から「ヘンリー・ミラー全集」が刊行され始めた60年代の半ばに読んだ。10代のボク自身の性的な夢想、破廉恥な欲情とともに読んで、ランボーとともにボクの聖典(性典)となったのだ。

(この稿つづく)



「ひな寿司」の夜

2008-03-03 00:51:08 | コラムなこむら返し
Hinasushi_08_3
 なんだか、わが家ではこのところ毎年「ひな祭り」というか、「ひな祭りパーティ」の定番となりつつある「ひな寿司」をつくって2日の夕食に供されました。
 昨年も写真付きでアップした気がしますが、今年の「ひな寿司」もみなさんに目で食べていただきましょう(笑)。
 制作著作権は娘と連れ合いです(笑)。ボクは、口に紅ショウガを加えてたらこ口にしたり、のりで口ひげを加えたりと遊ぶだけでした。

(写真3)ボクが食べたひな寿司です。アサリのお吸い物も定番です。おいしかった!


懐かしい声、子宮のうた

2008-03-01 23:59:09 | コラムなこむら返し
 弥生3月である。誕生月そしてなにか感慨があるかといえば、いつもとたいして変わりません。
 しかし、今日は泣かされた。たまたま食事中に見たTV番組に盲目の演歌歌手が出てきた。基本的にボクは演歌は嫌いである。でも、ひと声歌いだしたところで、その歌声にもっていかれた! そう、ボク自身の少年時代に!
 懐かしい唱法、のびやかな高音??誰だろう。この声は、とてつもない懐かしい感情に包まれて、ボクは思わず泣いてしまった。
 まだ、テレビもインターネットもなかった時代、音質の悪いラジオから流れてきたのびやかな声。好きとか嫌いとか、ジャンルとかそんな知識も何もない頃に、聞くともなく聞いて「時代」を刻印するような音楽。「時代」に刻み付けられた「うた」そのもの。
 しかし、その盲目の歌手はまだ十代らしいのだ。学生服を着て舞台に登場した。
 うん、待てよ。ガクランを着た歌手と言う存在も、まるで昭和40年代だが(たとえば、舟木一夫、三田明か?)、その声はもっと懐かしいのだ。

 その頃、ボクはどこにいたのだろう? どうやら、あとから聞いた話を総合すると、その場所は熊本県宇土半島三角だったようだ。まるで、対岸にあった銭湯絵の「松島」のような小島の連なる風景は、天草の島々だったようだ。山が迫って猫の額ほどの狭い土地に、へばりついて生活していた人間たちは湾内のナマコや、沖合いの魚を捕って生活するものが多かった。それは、不知火海の豊かな海に生かされてきた水俣の漁民たちと、おそらく変わりがなかったろう。
 そういえば、そこに住んでいた記憶の中で、天候が悪かったことはあるが、海が荒れたと言う記憶は全くない。凪いだ平穏な海??荒々しい玄海灘から、幾重にも島や入り江に囲まれ、不知火海は九州の子宮の形をしている!

 そして、その頃、ボクが母と住んでいた小屋は、湾の海に突き出たいわば漁師小屋だった。トイレは直接、湾の中に落とされ魚たちのエサに供されていた。ボクらの家族は、対面の豪勢な旧家に住む親戚を頼ってその小屋に住むことがかろうじて出来たのだ。

 その頃、凪いだ湾の向こう側からスピーカーを通して「うた」が聞こえてきた。音はワンワンと割れている、それでも構わずに大音響で当時の「歌謡曲」が流されていた。漁師小屋のどうにか住むことができるようになったウチにラジオもあるはずがない。その、あとで分かったが漁協のスピーカーを通して流れる「うた」は、貧しい生活の娯楽のひとつとなった。どういう経緯か覚えていないが、ボクは都会(ボクは長崎で生まれた)から来た坊ちゃんで(その割には漁師小屋に好意で住まわしてもらって)漁師のひとたちに可愛がられて、小舟の櫓を漕いだり、ポンポン船に乗らせてもらって沖合いに出たりして遊んでいたのだが、それでもこの「うた」は、当時の貧しい少年のボクを慰めてくれた。

 奇妙なことに、のちにガンジス河の岸辺にいてボクは、ワンワンと割れたスピーカーから流れるヒンドゥポップスに、デジャヴィ(既視感)を感じたことがあるのだが、それはこの少年時の体験だったのだろう。

 その頃、孤独な少年だったボクの無聊を慰めた「うた」は、後に知ったが、島倉千代子であり、三橋美智也だった。
 そう、その盲目の演歌歌手はボクを一気にその記憶の中へ連れ去った。あの、漁師小屋で聞いた風で運ばれて来た対岸の歪んだ「うた」!
 そこが、九州も子宮にあたるような地形の近くにあったせいか、子宮もないのにボクが孕んでしまった「うた」を思い出させてくれたのだ。

 懐かしいうたごえ、大地の子宮がかなでるあの「うた」を!

 清水博正クンという最近CDデビューをしたという盲学校に通うこのウタシャー(歌手)を、ボクは演歌が嫌いなのに応援したくなってしまったのである。