1930年3月4日??ちょうど、78年前の今日だが(この記事は、4日中にアップするつもりだったが、間に合わなかった)??ひとりのアメリカ人の男が3ケのバックをたずさえて巴里の街にやってきた。彼の胸には、この街で作家になるという野心しかなかった。ふところには数ドルの金しか持たず、まるで浮浪者のような身なりで、ボナパルト通りに面したオテル・ド・パリに宿泊した(翌日から、オテル・サンジェルマン・デュ・プレへ??当時は、まだ安宿だった)。その日から、この世界に名だたる古い街で、安宿とカフェと酒場とおんなたちとそして得体の知れないエトランジェ(異邦人、外国人)たちとの闘いにも似たくらしが始まった。
彼の文学的出発は、その告白にも似た赤裸々な記述にあった。なにしろ、その文章は思いたつと数十ページにもわたる絶え間ない饒舌と、憎悪にも似た単語の羅列で、憑かれたように一気にタイピングされるのだった。猥褻な表現と、単語、ポルノグラフィまがいの性描写??しかし、そこで喚起されるイメージは黄昏のパリを思わせて美しくもある。
その頃の、そのエトランジェの姿をある女性作家が、その日記に書いている。
「彼は全然人目つかずに雑踏にまぎれてしまいそうな風貌をしていた。すらりと痩せていて、背は高くなかった。仏教のお坊さんのような感じだった。禿げかかった頭をつやつやした銀髪が後光のようにとり囲み、厚ぼったく官能的な口もとをしたばら色の肌のお坊さんだ。彼の青い眼は冷静で、よくものを観察しているが、口もとは感情があらわで、傷つきそうだ……彼はあの残忍で、暴力的で、生命力あふれる文章、カリカチュアやラブレー風のファルスや誇張とはあまりにもちがっていた。眼尻にたたえた微笑は道化がかっていて、声の甘いひびきはのどをごろごろ鳴らす猫の満足感を思わせた。」
この日記の主は、アナイス・ニン。のちに、荒れ狂うようなエトランジェと愛人関係を結び、それどころか、その文才を見抜き、すっかりまいってしまってパトロンのような支えになる。
このアナイス・ニン自身、十代で写真のモデルをやっていたほどの美貌の持ち主で、シュールレアレスムに傾倒しその日記を彩る交友録はアントナン・アルトー、ブルトン、マグリットなどの名前が輩出するが、翻訳された1931~34年の日記の中心は、先に描写されたエトランジェであるヘンリー・ミラーとアメリカにいる彼の妻ジューンとの関係、そしてアナイス一家を捨てた彼女の父への記述が、主たる主題となって浮かび上がる(「アナイス・ニンの日記」翻訳1974年河出書房新社。のちにちくま文庫に収録)。アナイスや当時のミラーの肖像写真はあの巨匠ブラッサイが撮っている。
さて、そのパリ滞在中に書かれたタイプ原稿1,000ページにも及ぶ作品がのちの『北回帰線』である。
日本でも比較的早くから翻訳され、またヘンリー・ミラーの代表作として続編『南回帰線』とともに知られるが、ボクはこれを新潮社から「ヘンリー・ミラー全集」が刊行され始めた60年代の半ばに読んだ。10代のボク自身の性的な夢想、破廉恥な欲情とともに読んで、ランボーとともにボクの聖典(性典)となったのだ。
(この稿つづく)
彼の文学的出発は、その告白にも似た赤裸々な記述にあった。なにしろ、その文章は思いたつと数十ページにもわたる絶え間ない饒舌と、憎悪にも似た単語の羅列で、憑かれたように一気にタイピングされるのだった。猥褻な表現と、単語、ポルノグラフィまがいの性描写??しかし、そこで喚起されるイメージは黄昏のパリを思わせて美しくもある。
その頃の、そのエトランジェの姿をある女性作家が、その日記に書いている。
「彼は全然人目つかずに雑踏にまぎれてしまいそうな風貌をしていた。すらりと痩せていて、背は高くなかった。仏教のお坊さんのような感じだった。禿げかかった頭をつやつやした銀髪が後光のようにとり囲み、厚ぼったく官能的な口もとをしたばら色の肌のお坊さんだ。彼の青い眼は冷静で、よくものを観察しているが、口もとは感情があらわで、傷つきそうだ……彼はあの残忍で、暴力的で、生命力あふれる文章、カリカチュアやラブレー風のファルスや誇張とはあまりにもちがっていた。眼尻にたたえた微笑は道化がかっていて、声の甘いひびきはのどをごろごろ鳴らす猫の満足感を思わせた。」
この日記の主は、アナイス・ニン。のちに、荒れ狂うようなエトランジェと愛人関係を結び、それどころか、その文才を見抜き、すっかりまいってしまってパトロンのような支えになる。
このアナイス・ニン自身、十代で写真のモデルをやっていたほどの美貌の持ち主で、シュールレアレスムに傾倒しその日記を彩る交友録はアントナン・アルトー、ブルトン、マグリットなどの名前が輩出するが、翻訳された1931~34年の日記の中心は、先に描写されたエトランジェであるヘンリー・ミラーとアメリカにいる彼の妻ジューンとの関係、そしてアナイス一家を捨てた彼女の父への記述が、主たる主題となって浮かび上がる(「アナイス・ニンの日記」翻訳1974年河出書房新社。のちにちくま文庫に収録)。アナイスや当時のミラーの肖像写真はあの巨匠ブラッサイが撮っている。
さて、そのパリ滞在中に書かれたタイプ原稿1,000ページにも及ぶ作品がのちの『北回帰線』である。
日本でも比較的早くから翻訳され、またヘンリー・ミラーの代表作として続編『南回帰線』とともに知られるが、ボクはこれを新潮社から「ヘンリー・ミラー全集」が刊行され始めた60年代の半ばに読んだ。10代のボク自身の性的な夢想、破廉恥な欲情とともに読んで、ランボーとともにボクの聖典(性典)となったのだ。
(この稿つづく)