風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

Spring has come !

2008-03-17 00:01:46 | コラムなこむら返し
 春めいた日射しが続いた。いや、春を越えて初夏のような気温でもあった(実際は4月下旬の気候だったとのこと)。街をTシャツ姿で歩くひとも見かけたくらいだ。コートどころか、着込んだセーターなども脱ぎたいくらいだった。
 土日と関東地方でも20度を上回ったところが多く、一気に街は咲いた花に彩られたよう。桜の固いツボミも心無しか、霞がかかったように見えた。すこし芽吹いてきたのだろう。
 春が訪れたのだ。春になったのだ。

 なのに、チベットでは30名以上の僧侶、市民が抗議デモに突っ込んだ中国側の装甲車、治安軍の発砲によって殺されたらしい(ダラムサラ・チベット亡命政府15日発表)。確定した情報は渾沌としているが、ビルマのケースと同じように殺生の禁じられた素手の僧侶たちへ向かって、近代装備の中国治安部隊は発砲したようである。
 青海鉄道の開通によってラサまで、直行で行けるようになった現在、チベットを目指す旅行者は市内の立ち入りを禁じられ、すでにラサ市内にいるものは身の危険を感じながらゲストハウスに身を潜めているようである。
 いまは、中国の自治区となっているチベットは、そもそもチベット仏教の厚い信仰とダライラマへ対する帰依に支えられた軍隊ももたない祈りと信仰の平和国家だった。そこへ、1951年毛沢東率いる人民中国軍が進攻したのである。中国はチベット人や僧侶の抗議、抵抗を武力で制圧し、若きダライラマ法王はヒマラヤを越えて、1959年インドへの亡命を余儀なくされた。同時にチベット人難民はインドをはじめ、近隣諸国へ散らばった。それから、50年近くの時の移り変わりの中で、中国は華人の移住をはじめとして、チベットの中国化政策をすすめてきた。
 ラサにおけるホテルの建築ラッシュや、青海チベット鉄道の敷設に見られるように、それはチベットを観光資源として開発し搾取しようと言う植民地化政策と同じものだったであろう。
 今回、デモ抗議行動は1959年の3月10日に起こった「ラサ暴動」(多数の僧侶が殺された)と同じ日から始まったらしい。「チベット問題」は終わってはいない。先日、上海でみずからのコンサート・ライブで「チベット解放!」を叫んだビョークの勇気ある行動は、あたかも今回の抗議行動と弾圧・惨殺を予見していたかのようではないか!

※いくつかの確認作業なしにアップします。事実誤認がある箇所は教示ください。