風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

アナイス・ニンの官能日記(3)

2008-03-19 01:24:16 | コラムなこむら返し
Anais_nin_1932 そのような「ノンと言えないおんな」を癒すべき立場だった精神分析医も、つぎつぎとアナイス・ニンという美しきクライアントと男女の関係にはまってゆく。現在だったら、スキャンダルの対象にならざるをえないそんな深い関係に、なんとフロイド派のオットー・ランク博士やルネ・アランディ博士も「男」としての欲望にあがらうことが出来なくなってしまったらしいのだ。

 アナイス・ニンの『日記』は、あばきたてる。もはや死者となったひとたちの現世での、権威も地位も取り払って裸になってみれば所詮は「オス」でしかなかった、彼らを支配した欲望を、肉欲を!
 あたかも、死者が場で釣り下げられた屠畜の肉の様に、その肉(体)を復活させて肉欲に溺れている姿ばかりが浮かび上がる。美しき美貌を誇ったアナイスが、そのたぐいまれなる知性と共に、肉体の交接の歓びに思わず声を上げ、それだけではなくそのおんなとしての歓びを逐一、「日記」にその才能のすべてを駆使して記録したように……。

 アナイス・ニンの残した『日記』は、60年あまりの時を経て(アメリカでの無削除版の刊行は90年代になってからだった)、死者たちが(アナイスをも含めて)それぞれの「生(性)」を持っていた頃に、ということはとりも直さず、彼らがヴィヴィッドに生きていた頃の、肉(体)の歓びをまざまざと赤裸々に『日記』という記録文学の中で回復し、生きていたことの刻印を不格好であれ残していると言うことに他ならない。
 アナニス・ニンが生涯を通して書き続けたたぐいまれなる「日記文学」、アナイスのたぐいまれなる官能的な「告白文学」と言っていいものだろうか?

 アナイス・ニンは意図せずその『日記』を赤裸々に綴ることで、「生(性)」の曼陀羅を編み上げた。破廉恥な性の求道者でしかなかったヘンリー・ミラーさえ高みにあげたように、アナイスは文学や文化が男主導の家父長制の偏向した社会の中で、先駆的な「性の解放」をいちはやくなしとげた功績で称えられるべき作家かもしれない。

 アナイス・ニンの前で、なんておとこたちは矮小な存在だろう!
 だからこそなのか、アナイスの『日記』はアメリカのフェミニズムの高まりの中で、多大に評価されたと言う。
 さもありなん。でありながら、アナイスの「おんな」性の突出は、フェミニズム理論家を悩ませたらしい。アナイスはおとこの手によって、おとこの愛撫と挿入によって切り開かれた自らの官能に素直に反応する。それらは、アナイスの知性さえも変えてしまう。
 D・H・ロレンスの研究書をデビュー作とするアナイス・ニンは、そもそも観念の中で作り上げたセックスによって、「世界」を了解したようである。
 わたしはおんな! おんなの肉体とおんなの歓びをもって、世界を切り開き、官能の表現において文学したおんな。

 「これをありのまま日記に書こう。真実は下劣極まりない言葉で描写されるべきだから」(アナイス・ニン『日記(B)』p166)

 歓喜に溺れながらも、アナイス・ニンは冷徹な観察者であり続ける。アナイスには彼女が言うところの「小さなダイナマイト」たる『日記』があったから……。アナイス自身を少女時代から慰めてくれ、その中に秘密をすべて打ち明けてきた『日記』という「書くこと」があったからだった。

(おわり)

(写真)1932年ころのアナイス・ニン。



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