風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

子守唄に抱かれて……/松永伍一さんを悼む

2008-03-08 23:58:20 | まぼろしの街/ゆめの街
 5日の新聞だったと思うが、ある詩人にして評論家のささやかな訃報記事が掲載されていた。
 松永伍一さん、詩人、作家、評論家。心不全のため3月3日死去。享年77歳。
 文壇や詩壇には所属せず、孤高の道をつらぬいた詩人だから、知っている人は多くはないかも知れない。この方は、その書くものがどこか土俗の匂いや、その郷土である九州の風が吹いていた。
 そして、やはり詩壇というものに縁のないボクが珍しく実際に会ったことのある詩人なのである。それも、それをとりもってくれたのが死んでしまったボクの母(そう、樹木となって千葉の天徳寺に眠る母)なのである。

 30年ほど昔になるが、当時まだ西武新宿線のS駅にほど近いアパートでひとり暮らししていた母が、ある日、松永伍一さんが近所に住んでいるから会ってみるか? と聞いてきたのである。一時は、そのおなじ駅の違うアパートに住んでいたこともあるボクは吃驚してしまった。松永伍一さんって、そんなにも近くに住んでいたのか、と。
 それで、母に紹介の労をとってもらったのだが、松永伍一さんは当時40代後半。まだ頭髪も黒く若々しく印象的な優しい目をしてらした。
 実のところ、何を話したのかよく覚えていないのだが、ボクは、松永伍一さんを長く農民詩人だという印象でとらえており、当時のボクは農業に多大な関心を持っていた頃なので、農業と詩人であることといったようなテーマを宮沢賢治などをひきあいに出しながら喋ったのではないかと推測する(自分の日記から、その記述を探し出してみる余裕もなかった)。

 とはいえ、そんなにもたくさんの著作を読んでいる訳ではない。印象に残っているのは、『荘厳なる詩祭』、『底辺の美学』や、天正少年使節のことを書いた『天正の虹』だろうか。しかし、忘れがたいのは『日本の子守唄』や『一揆論』といった本である。生涯を通じて150冊近くの本を書いた。
 『日本の子守唄』は、最近「日本子守唄協会」というNPOまでつくられ、子守唄が見直される風潮の中で(松永さんはその協会の名誉理事にまつりあげられたようだ)先駆的な研究書となった。ボクは、個人的には九州というみずからの郷土を掘り下げていったら「子守唄」という捨てられた棄民の唄に出会ったということだろうし、それにおそらくは松永さんと同郷の北原白秋の試みにちなんだのではなかったのかとにらんでいる。

 松永伍一さんは、谷川雁が「サークル村」づくりを北九州の炭坑地帯で「工作」しはじめた頃に、雁の「東京に行くな」という呼び掛けに逆らって上京し、同じ場所で根付いたように住み続け、そしてそこから郷土九州の根を掘り下げていったひとだと思っている(上京したのは1957年)。
 あの優しい小動物のような目は、おそらく土俗の葛藤を克服して獲得したものだったのだろう。
 松永さんは、晩年おつれあいの介護をし、妻を見取ると(05年11月)、自身脳硬塞で倒れたりして病がちだったようである。

 さて、ボクはいぶかしく思うのだが、どうしてボクの母と詩人松永伍一さんとの接点があったのだろうということだ。いま、ボクは確信して思うのだが、それは、ただ一点、ともに九州生れだということだったのだろう。たまたま、近所に住みお隣さんのような関係になった母が、なにやら何になりたいのかよく分からぬ不肖の息子に会わせてみるかとでも思ったのだろう。
 そして、同じく九州生れのボクへ、松永伍一さんはかぎりなく優しかった。それだけは、はっきりと覚えている。

 御冥福をお祈りします。合掌。