風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

クレージー・コック/ヘンリー・ミラーのファルス信仰

2008-03-06 02:10:01 | コラムなこむら返し
Juneportrait ヘンリー・ミラーが、着の身着のままで巴里に到着した時、かかえていたボストンバックの中にはホイットマンの『草の葉』と、彼自身の未完の作品の原稿が入っていた。1920年代の後半に、書きはじめられたミラーの初期作品で、「モロック、この異教的な世界」と、初めはこういうタイトルが付されていた「素敵なレズビアン」という小説だった。この作品は後に、「クレージー・コック」というなんともすさまじい題名に変えられる。
 で、この作品はその存在は知られていたが、原稿は存在しないと長いこと思われていたようである。晩年、ヘンリー・ミラーはその絵画的才能でも知られるようになるが、作家としての出発点になる『北回帰線』以前の作品は未知のものだった。
 内容的には「素敵なレズビアン」というタイトルの方が、分かりやすいのだが、この作品の原稿はヘンリー・ミラーの2番目の妻であるジューンが、所持していた。ジューンは晩年精神病院に収容されていたが、彼女はみずからが育てた夫にして作家のヘンリー・ミラーが、若く美しい時代の自分をモデルにしたこの小説の原稿を後生大事に保管していたのだ。まるで、その原稿の中に若き日の自分自身とヘンリー・ミラーとの愛憎が封印されていたものであるかのように……。

 そして、ジューンはアナイス・ニンに負けず劣らずの美貌を誇ったほどの美女だった。いや、美貌だけで競うならアナイスに優っていただろう。だが、ジューンはどうやら、知性の面でアナイスに負けた。だが、ジューンは自らの野心のためには手段を選ばない女性だった。ミラーの作品の中には、ほのめかされそのためにミステリアスな印象を残すジューンだが、彼女はいわば高級娼婦で、その美貌と肉体を武器に夫であるミラーを経済的に支える覚悟であったようである。
 夫であるヘンリーは、おそらくその働きもせぬのに金を用立ててくる才能に気付きながらも素知らぬ振りをしている。ミラーに必要なものは金だけだった。
 しかし、ジューンからの送金は途絶えがちで、ミラーはしばしばそのジューンとの仲を疑っているエコール・ド・パリの彫刻家から生活費の調達というか、借金を積み重ねる。その金額は、今日のマンション1戸分に相当するほどだったと言うから、おそらくミラーはまるで女衒のように、自分の妻との不倫関係をネタに半分恐喝のようにしてこの彫刻家から金を無心していたのではあるまいか?
 ジューンは、ミラーが巴里に住みつくその3年ほど前に女友達であるジーンを伴って、巴里で遊んだ。ヘンリー・ミラーとは1924年に結婚しているから結婚3年目の事だ。そして、ジューン自身がその出自から名前ジーン・クロンスキーを与えた女友だちこそ、ジューンのレズビアンの相手だったらしい。ちなみに、ジーンはロマノフ家の血をひく名門の生れと言う設定だった。
 そのふたりの巴里滞在中にジューンはこの彫刻家と知り合い、ミラーはむしろこの唯一の妻の知り合いを頼って巴里に行った節がある。

 騙しあい、と言っていいものだろうか? むしろ、ミステリアスな存在としてジューンはまるで、ミラーにとっての宿命の女「ファム・ファタール」のような存在だったのでは? と、思えてくる。

 ヘンリー・ミラーは幸運なおとこだ。そして、10代だったボクは「ジャズ・ヴィレ」という新宿の不良少年の溜まり場にいて、ヘンリー・ミラーの『北回帰線』をフーテンバックの底に忍ばせて、ヘンリー・ミラーのようなおとこになりたいと憧れたものだった。

(追記)『クレージー・コック』は、原稿が発見されて1991年にアメリカで死後出版される(ヘンリー・ミラーは1980年に死去した)。日本では、書かれてからおおよそ70年後の1997年に幻冬舎から、谷村志穂訳で翻訳刊行された。もちろん、初訳である。