風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

赤いキリスト/ゲバラに捧げる「クラブ・チェ」の夕べ

2007-10-07 23:54:17 | コラムなこむら返し
 「Club Che」(クラブ・チェ)は、いや、5日に開催したE.G.P.P.100/step75は楽しかった。楽しいことの反動は、必ず来るもので、いま、やや「抜け殻」状態である(笑)。

 「チェ・ゲバラ」というテーマ設定がそもそもヤバかった。ボクらの世代で、石を投げなかったもの、街頭(闘争)に出なかったものがいるとしたら、それは「時代」に、「政治」に、そっぽを向いたものたちだ。ゲバラはその有名な肖像を使ったポスターといい、あの時代を生きたものの<たましい>を鷲掴みにした側面がある。そうでありながら、ボクらがゲバラの存在を知った時、ゲバラ自身の肉体は滅んでいた。
 思い返せば、ボクがゲバラの存在をはっきりと知ったのはレジス・ドブレの著作を通じてであると思う。『革命の中の革命』(1967年11月翻訳版出版/晶文社)??それが、その書物の名前で、多くのひともその著作でゲバラの存在を知っただろう(「ゲバラ日記」の翻訳出版はずっと下って1969年ではなかったろうか?)。
 おそらく1967年という時代にあってラテン・アメリカに関心を持つものはほとんど少なかった。その中の例外がなんと音楽関係者なのである。ラテンアメリカの存在は、もっと率直に言ってキューバ音楽の存在を昔から知り、学び、キューバに憧れ続けた人間はルンバなどのダンス音楽に関心を持ち続けた人間だ。ただその音楽は、言ってみればアメリカの植民地としてノスタルジック(ハバナ市はその美しい懐古的な街並で「世界遺産」認定されている)で、退廃的な歓楽街、享楽の都の副産物でもあった。アメリカの享楽的な別天地としてのキューバ時代の産物としてのリズムであり、音楽だった。

 チェが処刑されてのちも、世界のひとびとはチェのことを忘れなかった。とりわけ、キューバのひとびとはそうだったし、既成権力に反逆する若者たちがそうだった。チェの顔写真を使い、それがイコンとして万人のものになってゆくのは、ゲバラが死んで明けて68年のパリをゆるがした「五月革命」を通じてであっただろう。チェの顔写真は、はじめてラテンアメリカのボーダーを越えて、世界の顔となったのだ。

 この日のオープンマイクのイベントを「Club Che」(クラブ・チェ)と名付けたのは、苦肉の策という側面もある(笑)。告知が大幅に遅れたせいもあるが、他のイベントとバッティングしてしまった。事前エントリーの人数が少なかった。ゲバラ関係のコミュで呼びかけてみたが、日程が切迫していて反応がなかった。ならば、ボクが持っているゲバラを称える歌や、ラテン音楽を掛けるキューバな夜(キューバン・ナイト)にしてみるのも面白かろう、という発想がこの日の「Club Che」のアイディアにつながったのだが、これが滅法面白かった。参加者も踊るところまではいかなかったが、ノリノリのひと夜となった訳である。

(エントリー者を含めたイベントの報告はあらためて別稿で書きます。)