実は新宿駅は、かって山男たちのメッカだった。もう現在ではその名前の由来はほとんど知られていないし、新宿駅構内の拡大とレイアウト変更のためにその場所は、名前の由来となった用途は不要になってしまったようだが、新宿駅東口と中央口(現・中央東口)の間に「アルプス広場」と呼ばれる空間がある(名前は残ったようである)。現在は、コンコースとしての役目しかないその空間は、登山ブームがおこった50年代から60年代なかばまで信州方面の「日本アルプス」へ最終鈍行列車で向かう若者たちの整列場所だった。
つまり中央線の主要な駅であった新宿駅は、信州の山々ともっとも密接な駅だったのである。だから、キャラバン・シューズをはき大きな登山バッグを背負った若者たちは、そのいでたちのまま「歌声喫茶」や、「名曲喫茶」で時間待ちをしたり、その心に秘めたロマンを醸造していたものなのである。
新宿を中心にしてわきたった「山小屋ロッジ」風の建築スタイルのブームには、このような時代背景があったのだ。
かってこの国にもクラシック・ブームという時代があった。1954年にカラヤンが初来日して火が付いたブームである(同年4月に「スカラ座」が開店した)。その後も17回あまりも演奏会や、放送のため来日を果たすカラヤンは、クラシックファンだけでない一般大衆にもその名を知られ、クラシック音楽の代名詞のような存在になる。まだNHKのラジオ放送がメインだった時代にクラシック音楽にこの国の大衆の耳目を集めさせクラシック音楽のリスナーやファン人口を押し上げる。と同時にレコードが高価で買えないこれらのほとんどの大衆を「名曲喫茶」に導き、次々と「名曲喫茶」を開店させるブームのいしずえとなったのだった。
(おわり)
(写真5)半地下のスペースの最奥に壁画として飾ってあった木製のレリーフ。その画題は「椿姫」。そう、「新宿スカラ座」のマッチの画題はこのレリーフから取られた。そしてまた、「スカラ座」の外観が、南欧風の建物もイメージされていたことがそこからも分かる。
(マッチの画像以外のすべての写真は2002年12月31日の「スカラ座」ラスト・ディにボク自身が撮影したものです。)
つまり中央線の主要な駅であった新宿駅は、信州の山々ともっとも密接な駅だったのである。だから、キャラバン・シューズをはき大きな登山バッグを背負った若者たちは、そのいでたちのまま「歌声喫茶」や、「名曲喫茶」で時間待ちをしたり、その心に秘めたロマンを醸造していたものなのである。
新宿を中心にしてわきたった「山小屋ロッジ」風の建築スタイルのブームには、このような時代背景があったのだ。
かってこの国にもクラシック・ブームという時代があった。1954年にカラヤンが初来日して火が付いたブームである(同年4月に「スカラ座」が開店した)。その後も17回あまりも演奏会や、放送のため来日を果たすカラヤンは、クラシックファンだけでない一般大衆にもその名を知られ、クラシック音楽の代名詞のような存在になる。まだNHKのラジオ放送がメインだった時代にクラシック音楽にこの国の大衆の耳目を集めさせクラシック音楽のリスナーやファン人口を押し上げる。と同時にレコードが高価で買えないこれらのほとんどの大衆を「名曲喫茶」に導き、次々と「名曲喫茶」を開店させるブームのいしずえとなったのだった。
(おわり)
(写真5)半地下のスペースの最奥に壁画として飾ってあった木製のレリーフ。その画題は「椿姫」。そう、「新宿スカラ座」のマッチの画題はこのレリーフから取られた。そしてまた、「スカラ座」の外観が、南欧風の建物もイメージされていたことがそこからも分かる。
(マッチの画像以外のすべての写真は2002年12月31日の「スカラ座」ラスト・ディにボク自身が撮影したものです。)