風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

青春の殺人者、太陽を盗む/「理由なき」長谷川和彦(2)

2007-10-13 00:43:03 | コラムなこむら返し
Taiyo_hasegawa (承前)
 長谷川和彦監督はその才能と将来を嘱望されながら、なぜか劇映画としてはこの2本しかとっていない。そして、その割には名声ばかりが鳴り響いている。そして、その作品は今日の視点でみるせいばかりとはいえないと思うが、たいした作品ではない。むしろ失敗作ではないかと思われる。しかし、当時は絶大なまでに評価された。

 『青春の殺人者』の原作、中上健次の『蛇淫』は、70年代の中頃に実際に起った事件を取材し、作品にしたものである。中上流ののたくるような怒りの文体に満ちているが、映画ではそんなものは感じられない。
 このふたつの長谷川和彦監督作品には共通点がある。それは、ともに事件にいたるのに「理由がない」という点である。『青春の殺人者』の主人公(順というのだが、劇中原田美枝子の声で、この音としてはボクの名前と同じ「じゅん」が連呼されるのはたまらなかった(笑))は、義父と実母を殺すのだが、その動機はあやふやでほとんど動機らしい動機はない。

 『太陽を盗んだ男』の理科の教諭(沢田研二)も、手製の原子爆弾を製造してそれでなにをやりたいのかの、動機が不十分だ。いや、原爆を作ったはいいが、それで何を警察に、国家に要求するのか分からない主人公は、池上のやっている公開ラジオ放送にアクセスし、視聴者から何をしたいのかリクエストをつのることで、溜飲を下げる。おそらく、落合恵子(愛称レモンちゃん)をモデルにしたのだろう池上季実子は、そんな犯人に多大な興味をいだき、あげくカーチェイスを実況中継し、捜査を指揮する執念の刑事菅原文太の銃弾で横転した車の中で死んでゆく。

 「理由(動機)なき」犯罪もしくは暴力や破壊は青春の特権だった。少なくとも60年代の半ばくらいまでは……。しかし、それはいわばアプリゲールの特徴とでもいうべきもので、戦後派は享楽的で、無節操そして内的な必然性をもたなかった。若者文化(ユースカルチャー)の先行形態は、このようなアプリゲールにある。
 しかし、長谷川監督の世代は違う。それは、とまどいの世代だ。秩序は回復し、システムは打ち固められ、世界のほころびは縫い合わされてしまった。鞏固な世界の現実に目的と動機を喪失した世代なのである。
 遅れてきた世代として、「あらかじめ失われた世代」なのである。何をやっても模倣と言われる。いっそ開き直ってシラケてやれ。はじめから喪失しているのなら、あとから「理由」や「動機」は探せばいいじゃないかと開き直るのである。

 それにしても、スクリーンで見れて良かった。評価点は辛いですが………(笑)。