分類・文
小説 辿り着いた道 箱 崎 昭
夕食は7時までに帰ってこなければ先に済ませてよいことになっているが、そうはいってもトキ子は仕事中の夫を差し置いて1人で食事をする気にはなれなかった。
時間は遅くなっても、矢張り治男と食卓で差し向かいの食事をした方が殺風景ではないし美味しいのだ。
泰治も三度三度決まった時間に食事をする訳ではないが、気儘な食生活の習慣を身に付けていたのでトキ子はいつも放っておいた。
しかし、26歳にもなって世間から遮断して毎日部屋の中に閉じ篭っている生活を思うとトキ子は胸を痛めた。
その考えと悩みは治男と共有していた。
×人嫌い ×外に出られない ×働けない
この悪条件が泰治の頭と身体に呪縛のようになって染み付いている限りは、いつになっても快方に向うことは難しい。マンガやテレビを相手に悶々とした状態で部屋から出ずにいるから昼夜が逆転することさえあるようだ。
泰治自身は勿論のこと夫婦が充分に承知していることではあったが、そこに解決できない悩みの壁があった。
トキ子は、立ったいま思ったことだが団地の入居者募集があった時に治男に、どうせならああいう場所(ところ)に住んでみたいねえ、と言ったのは単に住みたい憧れではなく、泰治を抱えているので周囲の煩わしい噂話や世間体から逃避したいという潜在意識が働いたのではないかと気付き、自分のやましさに深く後悔した。
しかも、私にとっては世間に気遣うこともなく却って自由で生活がし易いかもよ、とまで口にしている。
利発な夫治男と、行動こそ伴わないが思考力のある泰治も、これに関しては最初から察知していたのではないだろうか?
トキ子は引越し前に住んでいた生活圏からの抜け出しを狙った以外の何ものでもなかったと思うと、自分勝手な結果をもたらしてしまったことの浅はかさに懺悔したい心境になった。
1日が終わって治男が帰宅するまでの間は、トキ子にとって気分的には自由時間を与えられたひと時になる。朝の内に軽く目を通しておいた新聞記事を丹念に読み返し、テレビ番組に興味が湧くものがあればチャンネルを回せる時間帯だ。
鉄製ドアの鍵穴にキーが差し込まれる音がすると、トキ子はいつも素早く立ち上がって玄関先で治男を迎える。
「お帰りなさい」勤めの感謝と無事に帰った安堵感が自然に笑顔をつくる。
治男は食卓の前に胡坐をかいてだされたビールをグラスに注ぐと1日の疲れを放出させるカンフル剤のような感覚で喉元を通す。
「泰治は1日中家に居たのかい?」
分かり切ったことなのだが、内心では何か変化が起きていないものかと淡い期待を込めて治男は時折そういう質問をする。
「別に…… いつもの通りよ」トキ子にしても当たり前の答えになる。
「実は今日、本町通りに近いガソリンスタンドで従業員を募集しているビラを見掛けたんだ。通うのにもそう遠くはないし小遣い稼ぎの積りで働いてみるように、トキ子から聞いてみておいてくれないか」 (続)
小説 辿り着いた道 箱 崎 昭
夕食は7時までに帰ってこなければ先に済ませてよいことになっているが、そうはいってもトキ子は仕事中の夫を差し置いて1人で食事をする気にはなれなかった。
時間は遅くなっても、矢張り治男と食卓で差し向かいの食事をした方が殺風景ではないし美味しいのだ。
泰治も三度三度決まった時間に食事をする訳ではないが、気儘な食生活の習慣を身に付けていたのでトキ子はいつも放っておいた。
しかし、26歳にもなって世間から遮断して毎日部屋の中に閉じ篭っている生活を思うとトキ子は胸を痛めた。
その考えと悩みは治男と共有していた。
×人嫌い ×外に出られない ×働けない
この悪条件が泰治の頭と身体に呪縛のようになって染み付いている限りは、いつになっても快方に向うことは難しい。マンガやテレビを相手に悶々とした状態で部屋から出ずにいるから昼夜が逆転することさえあるようだ。
泰治自身は勿論のこと夫婦が充分に承知していることではあったが、そこに解決できない悩みの壁があった。
トキ子は、立ったいま思ったことだが団地の入居者募集があった時に治男に、どうせならああいう場所(ところ)に住んでみたいねえ、と言ったのは単に住みたい憧れではなく、泰治を抱えているので周囲の煩わしい噂話や世間体から逃避したいという潜在意識が働いたのではないかと気付き、自分のやましさに深く後悔した。
しかも、私にとっては世間に気遣うこともなく却って自由で生活がし易いかもよ、とまで口にしている。
利発な夫治男と、行動こそ伴わないが思考力のある泰治も、これに関しては最初から察知していたのではないだろうか?
トキ子は引越し前に住んでいた生活圏からの抜け出しを狙った以外の何ものでもなかったと思うと、自分勝手な結果をもたらしてしまったことの浅はかさに懺悔したい心境になった。
1日が終わって治男が帰宅するまでの間は、トキ子にとって気分的には自由時間を与えられたひと時になる。朝の内に軽く目を通しておいた新聞記事を丹念に読み返し、テレビ番組に興味が湧くものがあればチャンネルを回せる時間帯だ。
鉄製ドアの鍵穴にキーが差し込まれる音がすると、トキ子はいつも素早く立ち上がって玄関先で治男を迎える。
「お帰りなさい」勤めの感謝と無事に帰った安堵感が自然に笑顔をつくる。
治男は食卓の前に胡坐をかいてだされたビールをグラスに注ぐと1日の疲れを放出させるカンフル剤のような感覚で喉元を通す。
「泰治は1日中家に居たのかい?」
分かり切ったことなのだが、内心では何か変化が起きていないものかと淡い期待を込めて治男は時折そういう質問をする。
「別に…… いつもの通りよ」トキ子にしても当たり前の答えになる。
「実は今日、本町通りに近いガソリンスタンドで従業員を募集しているビラを見掛けたんだ。通うのにもそう遠くはないし小遣い稼ぎの積りで働いてみるように、トキ子から聞いてみておいてくれないか」 (続)