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アジアと小松

アジアの人々との友好関係を築くために、日本の戦争責任と小松基地の問題について発信します。
小松基地問題研究会

『東京裁判 性暴力関係資料』(吉見義明監修)資料29,30

2015年07月08日 | 日本軍性暴力関係原資料
『東京裁判 性暴力関係資料』(吉見義明監修)<資料29>E1792 DocP5806
 書類番号5806
 ルイ・アントニオ・ヌメス・ロデリゲス訊問大要
 同人―職業医院事務員 国籍ポルトガル ポルトガル領ティモール出生 年齢30歳 現住所ポルトガル領ティモール、ディリ―は正当に宣誓の上陳述す。
私は日本軍が最初にディリを占領した1942年2月20日にはディリに居ました。
         *   *   *   *   *
 1943年オッスに居た時、私は日本人がゲリミアスと云ふ名の原住民の酋長も一緒に原住民を殴打するのを見ました。又混血児を殴るのも見ました。日本人は酋長や他の2,3人の原住民に彼等の手を縛った上で、煙草で焼いたり、口(T.N鼻?)を閉ぢて口に水を注いだりして拷問を行ひました。又彼等を突った石の上に無理に跪まづかせて、背中を圧迫したりしました。又煙草を耳に入れたりしました。原住民は又平手で打たれたり、杖で殴られたりして、意識を失ふと水で蘇生させられ、再び殴打されました。

 私は原住民の酋長ゲリミアスが新しく掘られた墓穴に連れて行かれるのを見ました。彼は手を縛られ、4,5人の日本の憲兵が長い原住民の刀で酋長の咽喉を小刻みに切り、豪州人の居所を白状しなければ殺してしまふぞと彼に云って居ました。酋長は如何なる情報を与へることも拒絶しましたので、連れ去られました。

 約1月経って、日本の祭日に日本人は酋長は日本人の友達ではないから殺されたと発表しました。日本人は他の酋長に此の事を全部話して、もしも彼等が日本人を援けなければどんな事が起るかに付て嚇しました。
         *   *   *   *   *
 私は日本人がケリカイ村を焼くのを見ました。その中には病院や医者の家も在りました。是は1942年12月のことでした。私は又マタ●●攻撃の後、チハレカ村が日本人に焼かれるのを見ました。日本人が原住民を襲った時、彼等は無差別機関銃射を浴びせました。
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 1942年2月21日に私は日本人がディリの支那人の家や他の多数の家の戸をこぢ開けて、家々を略奪して居るのを見ました。

 私は日本人が酋長に原住民の女の子達を娼家に送る事を強要した多くの場所を知って居ます。彼等はもしも酋長が女の子達を送らないなら、彼等即ち日本人が酋長の家に行って、彼等の近親の女達を此の目的で連れ去ると云って脅迫しました。
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  証人 署名
  ルイ・A・N・ロデリゲス
 通訳者私―ヂイル・フィリエラは上記証人の署名に先立ち前記大要を証人に対し証人自身の国語に正当に翻訳せし事を証明す。
  翻訳者 ヂイル・フィリエラ(本人署名)
1946年6月26日、ポルトガル領ティモール・ディリに於て余は右の陳述を録取し、且つ宣誓を為さしむ。
 東南亜細亜方面軍司令官により 右訊問方を任命せられたる将校 W・F・クィントン少佐(本人署名)
 蘭領東印度軍 H・ポス大尉(本人署名)
 ポルトガル領ティモール長官 (本人署名 不明)

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『東京裁判 性暴力関係資料』(吉見義明監修)<資料30>DocP5591
 証明書
 和蘭軍情報部戦争犯罪部長R・N・I・A陸軍中尉、下名チャールス・ヨンゲネールは正当に宣誓を為したる上、添付の報告書が左記文書の原本全部の真正にして完全、正確なる写に相違なきことを証言す。
   ×  ×  ×  ×
9、オハラ・セイダイ海軍大尉の宣誓陳述書
   ×  ×  ×  ×
 右はロエアング及セルマタ島に於ける集団殺人並に強姦に関するものなり。
 右の文書は和蘭軍情報部の公式記録の1部なり。
  和蘭軍情報部(印)シーエイチ・ヨンゲネール(署名)
 1946年(昭和21年)6月7日バタヴィアに於て蘭領東印度最高検察局附上級将校R・N・I・A陸軍中尉ケイ・エイ・ドウィーアドの面前に於て署名し、宣誓せられたり。ケイ・エイ・ドウィーアド(署名)

 陸軍中尉オハラ・セイダイの陳述書
問 貴方の氏名、年齢は?
答 氏名はオハラ・セイダイ、年齢は27歳。

問 貴方の所属部隊は?
答 タナカ部隊ハヤシ隊

問 貴方の住所は?
答 熊本県カモト郡イワノ村2191

問 貴方の軍隊勤務の概要を述べなさい。
答 1940年(昭和15年)12月台湾歩兵第2聯隊。
  1941年(昭和16年)10月久留米士官学校。
  1942年(昭和17年)1月爪哇。
  1942年(昭和17年)12月チモール。
  1944年(昭和19年)6月モア島。

問 1944年9月に於るモア島の指揮官は誰でしたか?
答 私でありました。

問 1944年9月にモア島で土民が殺されたことがありますか、その人数は?
答 セルマタ島及ロエアン島で約40名の土民が捕虜となり且殺されました。

問 何故に殺されたのですか?
答 土民達がセルマタ及ロエアン島の憲兵隊に攻撃したからです。

問 誰がその殺すことを命令したのですか。
答 タナカ将軍は土民達を司令部へ送るやう命じました。然し土民達がモアを出発する前に右命令は変更され、私がモアで彼等を殺し、土民の指導者3,4名をタナカ部隊に送るやうにと命ぜられました。

問 貴方は自分でその土民達を殺しましたか。
答 いえ、私は唯その殺すのを監督したのです。

問 誰が貴方の手助をしたのですか。
答 ウド曹長、トヨシゲ軍曹、マツザキ軍曹及21名の他の兵卒達です。

問 それ等の者は今何処に居りますか。
答 ウド曹長及マツザキ軍曹は台湾第2歩兵聯隊と共にロボクに居ります。トヨシゲ軍曹は1945年(昭和20年)7月中、ラウテムに向かひましたが荷船が着いた時には空でした。それ故彼は溺死したものと推定されました。

問 どんな風にして土民達は殺されたのですか。
答 彼等は3人宛途上縦隊を作って整列させられました。それから前に述べた21人の兵隊は銃剣で彼等を突刺し1度に3人を殺しました。

問 ある証人は貴方が婦女達を強姦し、その婦人達は兵舎へ連れて行かれ、日本人達の用に供せられたと言ひましたが、それは本当ですか。
答 私は兵隊達の為に娼家を1軒設け、私自身も之を利用しました。

問 婦女達はその娼家に行くことを快諾しましたか。
答 或者は快諾し、或者は快諾しませんでした。

問 幾人の女がそこに居りましたか。
答 6人です。

問 その女達の中、幾人が娼家に入る様に強ひられましたか。
答 5人です。

問 どうしてそれ等の婦女達は娼家に入る様強いられたのですか。
答 彼等は憲兵隊を攻撃した者の娘達でありました。

問 ではその婦女達は父親のしたことの罰として、娼家に入る様強ひられたのですね。
答 左様です。

問 如何程の期間その女達は娼家に入れられていましたか。
答 8ヶ月間です。

問 何人位この娼家を利用しましたか。
答 25人です。

問 土人を殴ったことがありますか。
答 あります。私は自分達に協力していた土民兵達を殴りました。

問 何故ですか。
答 ダマル島生れの土人で、日本兵を殺した者の1人がモアへ逃げました。彼は日本人の為めのスパイであった1土民の家に隠しました。そこから又彼は逃亡しましたが、私は彼が何処へ行ったのか分かりませんでした。彼の逃亡後彼が右のスパイの家に隠れて居たことが分かりました。そこで私はそのスパイが私に知らせなかったと言う理由から拳固でその頭や肩の辺を殴りました。

問 その土民は非道く傷を受けましたか。
答 いいえ。
 
  オハラ・セイダイ(署名)
証人ジェイ・レンニー陸軍大尉
   1946年(昭和21年)1月13日
以上の応答は日本語にて、オハラに読み聞かせられ、オハラは右が彼の為した報告の真実にして正確なる記録なる旨陳述せり。

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