アジアと小松

アジアの人々との友好関係を築くために、日本の戦争責任と小松基地の問題について発信します。
小松基地問題研究会

『東京裁判 性暴力関係資料』(吉見義明監修)25,26

2015年07月01日 | 日本軍性暴力関係原資料
『東京裁判 性暴力関係資料』(吉見義明監修)<資料25>
Evidentiry Document P#5767
(戦争犯罪調査事務局検事総長の印)
 宣誓口供書
 証人訊問調書
 証人は呼び出され、部屋に入り、訊問を受けて、アリダ・ホルスト旧姓ミッデルカンプなりと陳述す。
 住所クロメニー・ウェーヴェルシュトラート73番地(訳註:和蘭)
 証人は彼女が訊問せらるべき問題を知らされ、ここに於いて其の宗教信条に従ひ、全真実を語り、真実以外のことは語らざるべき旨宣誓し、左の如く質問に答へたり。

5.貴方が目撃した貴方自身に対し又は他の人々に対して為された暴行行為に付いて、何の情報を与へることが出来ますか。

 1942年(昭和17年)2月28日或ひは3月1日の夜、日本軍はブロラから35粁離れたレムバングに上陸した。私達はブロラに住んで居り、私の夫は其処の副州長(訳者註:其の地方の和蘭最高文官)であった。

 丁度其の時、チェプ(訳者註:爪哇主要油田)の油田は燃えて居た。ブロラに居ても其の臭いがしていた。チェプに到る総ての道路は爆破されてしまって居た。

 1942年(昭和17年)3月5日の木曜日の午後遅く、避難者が戻って来た。彼等は散々うろつき廻り、森の中で2晩を過ごし、凶悪な匪賊に襲はれ、結局日本軍に依ってブロラに連れ戻されて来たのである。

 彼等はカブバテン(訳者註:原住民県長の官邸)に入れられた。色々の婦人の私に話したところに依れば、避難者が県長の邸に着いた時、棺が5ッ置いてあったと云ふことである。ベルナスコ夫人とデグラーフ夫人とが私に此の事を話して呉れた。

 男の避難者の中に国営質店の監査官のファン・バーケルゲム、小学校教員のサルヅマンと其の舅(姓名不明)が居た。婦人達の中にはベルナスコ夫人と4人の子供に、其の乳母、デ・グラーフ夫人と3人の子供、フォン・メングデン家の子供達、フォーゲルザング家の子供達、私の息子のルーカス・ホルスト、ファン・バーケルゲム夫人と2人の子供とスーニンク・ファン・カペル夫人と13歳位の娘を含む3人の子供達が居た。

 早速、其の晩、彼等が到着してから1時間程経ってカブパテンに居残らなければならなかったファン・バーケルゲムを除いた他の人達は皆私達の地方市場に来た。カブパテンでは非難者1人1人は先づ其の姓名を尋ねられ、何処生れたかを聴かれた。和蘭で生れたのはファン・バーケルゲム1人(男の中で)だけであった。

 ブロラの県長は警視フォーゲルザングに日本兵はファン・バーケルゲムは生粋の和蘭人であるから死ななければならないと云ったと、後に起った事を話して居た。ファン・バーケルゲムは跪いて慈悲を乞ふたところが、即座に彼は首を切られてしまった。約2週間後、其の間ブロラに帰って居たフォーゲルザングが私に之等の事を総て話して呉れ、県長も又其の死刑執行の場に居合わせたと語った。其の日は市場で私達はまだ何も知らなかったが、何か恐い事が起って居るとは感じて居た。1942年(昭和17年)3月5日の木曜日は私達は皆一緒に大きな部屋に入って居た。其の頃日本兵は凶暴に見えた。

 其の夜ザルツマンのアムボン生れの舅、姑は私達の所から連れ去られ、酷く虐待された。15と16位の彼等の2人の娘も彼等と共に行かなければならず、彼女等も又虐待された。

 父親と母親はひどく取乱して、其の晩戻って来たが、娘等は金曜日の朝になってやっと帰って来た。彼等は日本兵に強姦されたのであった。
       ……………
 私は息子のルーカスと共に居た。私達は15分程倉庫に監禁され、其れから自宅に帰ることを許された。

 私達が出て来た時、私は垣根越しに別の倉庫の部屋の中に私の主人ディーツェル医師、メブスとクリユースが立っているのを見た。私は銃剣で追ひ立てられた。

 ルーカスと私は日本兵で一杯になっている自分の家に戻った。30分程経つと私達の男の人達を宿屋に連れ去った3人の日本人が現はれた。私はディーツェル医師の聴診器を振り廻して居る1人の日本人に主人は何処に居るかと聴いた。答は「死んだ。俺が殺した」と言って、間違ひ様の無い身振りをして見せた。その日本人が聴診器を振り廻すのを見た時、私はすぐ「ドクターは最早や生きては居ない」と感じた。其の日本兵は4人とも皆殺したと言った。

 其の金曜日に私は応急病院に居る他の人達の所へ行った。其処ではヒステリーのひどい状態にあった。事態を其れ以上悪くしない為、私は其処で起った事を少しも話さなかった。後刻此の事は県長に依って話された。

 1942年(昭和17年)3月7日の土曜日の午後に、日本兵(任意の兵隊)が婦女子と一緒に座っていた応急病院に来た事を未だ話して居ない。婦人達は此処で日本兵に強姦された。之に関連して言って置くべきは此の事は子供達の居ない処で起ったと云ふ事である。之等の婦人達は私、ベルナスコ夫人、メブス夫人、ディーツェル夫人、デ・グラーフ夫人、ファン・バーケルゲム夫人、フェルベイク夫人、ワレラ夫人であった。

 之は1942年(昭和17年)3月7日から17日迄の間に起った。普通日本人は夜来たが、例外には昼間来る事もあった。其れは集団的、連続的、無慈悲な強姦であった。 今述べた此の事が起った最初の午後、3人の兵卒が来て、総ての事は威嚇の下に行はれた。此の事が起きてから、私達は中国人の医師のリエムに此の事を話す事が出来た。彼は指揮官の所へ行った。其処で其の午後ディーツェル夫人、私と他に1,2名指揮官の前に呼び出された。指揮官は不行跡を行った日本人を指摘する機会を私達に与えて呉れ、彼等を私達の眼の前で銃殺すると言った。

 然し何事も起らなかった。そして1時後に私達は応急病院に送り帰された。
 其の夜の8時頃私達は近くの学校の教室に移された。私達に話された事に依れば、此処には日本兵は来ないから之は私達の身の安全の為に為された事であった。

 其の夜の10時から12時の間、私達皆が寝ている時、前述の指揮官を先頭に立てて、日本兵の全員が入って来た。指揮官は教室の机の上に腰掛け、1人宛、女が強姦されに無理に連れて行かれるのを見ていた。彼自身は之には加はらなかった。
       ……………
 1942年(昭和17年)3月23日に県長は福ウェドノ(訳註:インドネシヤ人地方官吏)を私達のもとにつかはして、男の人達がどうなったかを告げさせた。
       ……………
 1942年(昭和17年)3月26日、私はディーツェル夫人と共にブロラの墓地にある4人の男の墓に行った。ファン・バーケルゲム氏は何処に埋葬されているのか私は知らない。
       ……………
 何故男の人達が殺されたのか私は説明出来ない。只私の夫だけはチェプの破壊に対して、何か関係して居た。他の4人は全然それには何等の関係もなかった。そして破壊隊も立ち去ってしまって居た。恐らく彼等は和蘭人の血に依って其の怒を鎮めたかったのであらう。
       ……………
  ア・ホルストー・ミッデルカンプ(署名)
  イェー・ゲー・ベンデルス(署名)
(以下省略)


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
『東京裁判 性暴力関係資料』(吉見義明監修)<資料26>
 DocP5770
正義の為に
  訊問調書
 本日(木曜日)1946年(昭和21年)5月16日、私即ち汽船ニュー・ホーランド号輸送指揮官の命による戦争犯罪調査係予備歩兵中尉准男爵法学士ウエ・ア・バウトの面前に左記の者出頭す。
 氏名 イェ・ベールマン旧姓バレホーイェン
 職業 無し………
 此後の住所 ヘーグ市リアウ街183
 年齢 27歳
 ここに於て出頭人はその宗教的信念に従ひ全く真実を述べ、真実以外の何事をも述べざる事を誓言す。

 私は一般被抑留者としてムテラン収容所に抑留されました。1944年(昭和19年)1月28日、私は吾が婦人部指導者レイツスマ夫人から日本軍俘虜収容事務所へ出頭する様にと云はれました。此処で私は爪哇(註:ジャワ)人の1警視を見ました。彼は私を他の6人の婦人や少女等と一緒に連れて収容所の外側にあった警察署へ連れて行った。連行された人々の名前はアンニホーマンス、ゼイリストラ夫人、ブレッカー夫人、クラウト夫人、ケイコープ夫人、及びデウレーヘ夫人でありました。
       ……………
 私等が爪哇人警視に案内されて収容所へ帰って鞄に所持品を充めた後に、その警視は私等を日本軍俘虜収容所事務所へ連れて行きました。此処で私等は3人の日本人に引き渡されて、3台の私有自動車でマゲランへ輸送され、午後4時に到着しました。我々はテウグランと称せられ、14の家屋から成っていた小さい収容所へ連れて行かれました。1944年(昭和19年)1月25日私達の収容所から連行された婦人や少女等の一団と此処で会ひました。
       ……………
 1944年(昭和19年)2月3日、私達は再び日本人医師に依って健康診断を受けました。其処で私達は日本人向き娼楼に向けられるものであると聞かされました。其日の晩に娼楼が開かれる筈でした。帰宅後ブレッカー夫人と私は凡ゆる戸や窓を閉めました。午後9時頃戸や窓を叩く音がありました。私達は戸も窓も開け、閉さしてはならぬと命ぜられました。寝室だけは戸を錠で閉して私は其処へ閉じ籠もりましたが、他は其通りにしました。私は是を2月5日、日曜日まで継続しました。其日にも亦日本軍兵卒等が収容所へ入って来ました(以前は日本軍将校のみでした)。是等兵士の幾らかが這入って其の中の1人は私を引●つて私の室連れて行きました。私は一憲兵将校が入ってくるまで抵抗しました。其憲兵は私達は日本人を接待しなければならない。何故かと云へば若し吾々が進んで応じないならば、居所が判っている吾々の夫が責任問はれると私に語りました。この様に語った後、憲兵は其兵士と私とだけ残して、立去りました。其時ですらも私は尚ほ抵抗しました。然し事実上私はやられてしまいました。彼は衣服を私の身体から裂き取りました。そして私の両腕を後に捻りました。そこで私は無力となり、その後で彼は私に性交を迫りました。私は此の兵卒は誰であったか又其憲兵将校の姓名も知りません。

 此の状態が3週間継続しました。労働日には娼楼は日本将校のために、日曜日午後は日本下士官のために開かれ、日曜日の午前は兵卒等のために保留されました。娼家へは時々一般日本人が来ました。私は常に拒絶しましたが、無効でありました。

 1944年(昭和19年)2月の終り頃か3月の始頃に私は事務所へ出頭する様に命じられました。其処には、
タキグヂと言ふ日本の一将校が居ました。彼は私が受けた待遇に関して私の訴を証●として、事件を調査すると約束しました。彼は亦私達を抑留者収容所へ送還するために極力努力することを約束しました。彼は兵卒や下士や一般日本人に対して娼家を閉鎖して、私達のために直に情況を改善して呉れました。
       ……………
 出頭人は本調書を読み聞かされた後、其陳述を主張する旨宣言したる後、出頭人及調書作製人は本調書に署名す。
 調書作製人 ウエ・ア・バゥト
 出頭人 旧姓バレホーイエン・イェ・ベールマン
 1946年5月16日汽船ニュ・ホーランド号にて本調書を作製す。
 調書作製人 ウエ・ア・バゥト 署名
 (以下「証明書」略)
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« アメシロ報告(2015.6.28) | トップ | 事業系燃やすゴミの半分が資... »
最新の画像もっと見る

日本軍性暴力関係原資料」カテゴリの最新記事