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アジアと小松

アジアの人々との友好関係を築くために、日本の戦争責任と小松基地の問題について発信します。
小松基地問題研究会

【資料】2003.8「8・2富山大空襲と朝鮮女子勤労挺身隊」

2021年04月13日 | 戦後補償(特に不二越強制連行)
【資料】「8・2富山大空襲と朝鮮女子勤労挺身隊」 (2003年8月26日 S)

 朝鮮女子勤労挺身隊(合計1090人)が不二越に強制連行されたのは、1944年5月、6月、7月そして翌1945年3月です(朝鮮男子報国隊の540人は1944年秋)。舟橋村の『昭和十七年以降 防空日誌』(1944~45年)によれば、警戒警報や空襲警報が発令されている真っ只中のことです。

富山大空襲
1945年5月から富山空襲が始まりました。5月24日午前11時30分頃 B29、20機空襲。25日まで6回、延べ70機による空襲。6月1日、16日新湊町空襲。7月4日空襲、20日不二越東岩瀬工場付近空襲、26日豊田地内空襲、31日下奥井に3万枚の空襲予告びら。そして8月1日午後9時50分空襲警報が鳴ったが、上空を通過し新潟へ。2日午前0時15分空襲警報があり、B29戦闘機170機が3時間にわたり空爆。「目標の99.5%を破壊」し、死者2275人、負傷者8000人、家屋2万4912所帯焼失。

朝鮮人の命を軽視
 1945年7月、工場の一部を朝鮮の沙里院へ疎開(女子挺身隊420人も)させていたように、国、県、不二越は不二越工場が米軍空襲の標的になっていることを十分に知りながら、空襲の真っただ中で働かせていました。『ルメイ最後の空襲』(桂書房発行)には、米軍が不二越に爆弾を投下するために、照準を合わせていたことを示す資料が掲載されています。
 1945年1月、日本人児童に対しては、空襲で危ないからという理由で、農山村への疎開を指導しています。『富山県教育史(下)』(1101頁)の年表には、「1945年1月、富山・高岡市内で縁故疎開指示」との記載があり、『富山県史近代(下)』(1171頁)には、「20年7月16日、富山・高岡両市の国民学校28校は、初等科の全授業を停止した。そして、教職員は児童の家庭を訪問し、農山村の安全地帯へ縁故を頼って疎開させるよう勧めた」と記載されています。
 1944年9月27日の『石川県内政部長発教第2324号通牒』には、「学童集団疎開に伴う青少年団指導に関する件」、1945年2月28日の『石川県内政部長収教第3050号通牒』には、「昭和20年度学童集団疎開継続に関する件」を通達しています。
 政府は「昭和20年度学童集団疎開継続に関する措置要綱」「昭和20年4月国民学校初等科第3学年に進学する学童についても集団疎開を実施すること」「国民学校、初等科第3学年乃至第6学年の残留学童及び縁故疎開学童にして集団疎開を希望するものある場合は、受け入れ可能の範囲に於て既定計画の員数を増加し集団疎開を認むること」と閣議決定しています。
 不二越に勤労動員されていた砺波高等女学校の生徒(15歳)は「空襲のある1、2ヶ月前に工場の近くの学徒寮は危険だというので、ずっと離れた山室寮に引き移っていた」などと証言しています。
 しかしながら、1945年3月にも、朝鮮から12~3歳の女子勤労挺身隊を富山市中心部にある軍需工場・不二越に強制連行し、そのまま米軍の攻撃目標である不二越軍需工場内にある寮に閉じ込めて、働かせていました。裁判の陳述書作成時に、富山空襲について原告に尋ねており、その証言内容は空襲警報下の強制労働を物語っています。
 朝鮮人の命と日本人の命を明らかに差別しており、その結果、不二越に強制連行された男子報国隊や女子勤労挺身隊の児童は、防空壕もないなかで、たんぼに避難して、布団をかぶって震えていました。成順○さんは「空襲では田んぼに避難して布団をかぶっていた」、高徳○さんは「工場の放送で、下関方面からB29が新潟方面に向かって…空襲の時、みんなでたんぼの方に逃げました」「8月1日夜の12時、夜中です。約20キロ避難しました」と証言しています。1945年5月以降は、富山市では毎日のように警戒警報や空襲警報のサイレンが鳴り、その度に原告たちは、昼といわず、夜といわず必死に避難していたのです。

<資料1『富山市史通史 下巻』>
・(721ページ)富山県への空襲は昭和20年5月を最初とするが、8月の富山市空襲以前のものは伏木、新湊、岩瀬など港湾や工場地帯が目標とされた。
・(722ページ)初空襲は5月24日、B29約20機が午前11時半ごろ御前崎の上空から侵入、内1機が富山湾に機雷を投下したのにはじまり、25日まで前後6回にわたり延べ70機が伏木周辺海上に300個の機雷を投じ、さらに6月1日、16日と機雷や爆弾を新湊町に投下し、多くの被害を出した。7月に入ると襲来が激しくなり、4日1機、20日に2機(この時は不二越東岩瀬工場付近中田集落に爆弾投下)、26日豊田地区内に1機来襲し、いずれも多数の死傷者を出している。
・(723ページ)富山空襲への予告は4、5日前からあり、米軍機のビラでの警告があり、7月31日午後8時ごろには富山市下奥井に3万枚のビラがまかれていて、市民はその日の近いことを知っていた。

<資料2『富山市史 第2巻』>
・(1278ページ)昭和20年5月24日 米空軍B29約20数機が午後11時半ごろ御前崎の上空から我が本土に侵入、内1機は長野県を経て日本海上空に旋回し、新潟付近及び富山湾に機雷を投下して脱却した。また26日午後11時50分ごろB29十数機が富山湾に侵入して機雷を投下した。
・(1283ページ)昭和20年7月4日 午前1時45分米B291機が富山湾に侵入し、佐渡、新潟方面の海上へ脱去した。
・(1286ページ)昭和20年7月20日 …この日、午前7時30分ころ阪神方面から東北進したB29爆撃機 2機は、福井、金沢を経て本市に侵入し、爆弾数個を投下して午前8時半頃駿河湾から脱去した。この時1弾は不二越東岩瀬工場付近中田に落下して1名即死し、また付近の土工の飯場近くにも爆弾が投下され、飯場及び付近の民家数棟に全半壊の損害を与え多数の負傷者を出した。
・(1287ページ)昭和20年7月26日 B29は本朝伏木新湊方面に来襲して海上及び陸上に機雷を 投下したが、富山市にも1機が来襲して、豊田地内に爆弾を投下し、民家3棟が爆砕されて死傷者十数名を出し付近の住宅にも甚大な損害を被った。

<資料3 『新湊市史 近現代』>
・(167ページ)昭和20年5月24日午後11時、新港町・伏木港一帯に空襲警報のサイレンが鳴り響いた。…米軍の爆撃機B29が頭上を旋回し、爆音が重苦しく去来する中、…その時、漁港の南方の空に閃光が走った。
・(168ページ)この日、1発目は新湊漁港の防波堤上に落下さく裂し、係留してあった上陸用船艇と防波堤を爆砕した。2発目は防波堤から3、400メートルの至近距離にあった開発宅の土蔵に、あと、5、6発は新湊沖に落とされた。
・(169ページ)以後、連日のようにB29は伏木港と新湊漁港一帯をねらって機雷を投下した。…昭和20年6月16日午前1時15分ころから、新湊漁港一帯に60発の機雷が投下され、そのうち1発が中町の路上に落下し爆発した。…この20年6月16日午前1時50分ころ、衆議院議員卯尾田毅太郎が機雷の直撃を受けて死去した。

<資料4『昭和17年以降 防空日誌』(舟橋村役場)>   (注欄はS作成 2004年2月)

1944年
5月20日午後06時30分警戒警報発令(中部全地区)(注:5月朝鮮女子勤労挺身隊不二越に強制連行)
6月15日午後05時40分警戒警報発令(北陸地区)
6月18日午後00時30分警戒警報発令(北陸地区)
6月18日午後09時07分警戒警報解除
6月19日午後04時   警戒警報解除
6月22日   警戒警報解除(注:6月朝鮮女子勤労挺身隊不二越に強制連行)
7月04日午前09時00分警戒警報発令(東部地区)
7月04日午後07時   警戒警報発令(東部全地区)(注:7月朝鮮女子勤労挺身隊不二越に強制連行)
8月05日    警戒警報解除
9月19日午後00時35分警戒警報発令(東部地区
9月19日午後02時15分警戒警報解除  (注:秋、朝鮮男子報国隊不二越に強制連行)
11月01日午後01時35分空襲警報発令(東部全地区)
11月01日午後01時55分空襲警報解除(北陸地区)
11月01日午後02時35分警戒警報解除(北陸地区)
11月29日午後11時40分警戒警報発令(東部全地区)
11月30日午前03時10分警戒警報解除(東部全地区)
11月30日午前03時30分警戒警報発令(東部全地区)
11月30日午前05時10分警戒警報解除(東部全地区)

1945年
2月25日午後03時05分警戒警報発令(東海軍管区・北陸地区)
2月25日午後03時15分空襲警報発令(東海軍管区・北陸地区)
2月25日午後03時30分空襲警報解除(東海軍管区・北陸地区)
2月25日午後03時33分警戒警報解除
3月16日午前07時20分警戒警報発令(北陸地区)
3月16日午前07時40分警戒警報解除
3月24日午前01時10分警戒警報発令(東海軍管区・北陸地区)
3月24日午前01時33分警戒警報解除 (注:3月朝鮮女子勤労挺身隊不二越に強制連行)
4月06日午前01時45分警戒警報発令(北陸地区)
4月06日午前01時49分警戒警報解除
4月06日午前09時45分警戒警報発令(北陸地区)
4月07日午前11時50分警戒警報解除
4月13日午前09時30分警戒警報発令(北陸地区)
4月13日午前09時   空襲警報発令
4月13日午前09時40分空襲警報解除
4月13日午前09時48分警戒警報解除
4月18日午前06時   警戒警報発令(北陸地区)
4月18日午前06時05分警戒警報解除
4月22日午前07時35分警戒警報発令(北陸地区)
4月22日午前08時12分警戒警報解除
5月02日午後12時20分警戒警報発令(北陸地区)
5月02日午後01時30分警戒警報解除
5月08日午前11時50分警戒警報発令(北陸地区)
5月08日午後12時30分警戒警報解除
5月12日午後12時12分警戒警報発令(富山県)
5月12日午後01時   警戒警報解除
5月19日午前11時30分警戒警報発令(富山県地区)
5月19日午後00時00分警戒警報解除
5月21日午前06時30分警戒警報発令(富山県地区)
5月21日午前06時45分警戒警報解除
5月24日午前02時46分警戒警報発令(富山県地区)
5月24日午前03時 警戒警報解除 (注:24日、午後11時30分頃、富山湾に機雷投下)
5月25日午前00時20分警戒警報発令(富山県地区)
5月25日午前01時10分空襲警報発令
5月25日午前02時49分空襲警報解除
5月25日午前03時49分警戒警報解除
5月25日23時30分警戒警報発令(北陸地区)
5月26日00時35分警戒警報解除
5月26日12時28分警戒警報発令(北陸地区)
5月26日12時48分警戒警報解除 (注:26日、午後11時50分B29富山湾に機雷投下)
5月27日00時35分警戒警報発令(北陸地区)
5月27日02時10分空襲警報発令
5月27日03時5分空襲警報解除
5月27日03時15分警戒警報解除 注:6月1日新湊に機雷、爆弾投下)
6月02日04時35分警戒警報発令(北陸地区)
6月02日05時07分警戒警報解除
6月15日10時05分警戒警報発令(北陸地区)
6月15日11時警戒警報解除
6月16日01時16分警戒警報発令(富山県地区)
6月16日02時10分警戒警報解除
6月18日13時 警戒警報発令(富山地区)
6月18日13時13分警戒警報解除
6月21日09時40分警戒警報発令(富山地区)
6月21日10時10分警戒警報解除
6月21日12時39分警戒警報発令(北陸地区)
6月21日     警戒警報解除
6月21日23時34分警戒警報発令
6月22日00時13分空襲警報発令
6月22日01時53分空襲警報解除
6月22日 警戒警報解除
6月23日08時01分警戒警報発令
6月23日08時45分警戒警報解除(北陸地区)
6月23日12時47分警戒警報解除
6月25日12時30分警戒警報発令(北陸地区)
6月25日12時56分警戒警報解除
6月26日00時10分警戒警報発令
6月26日01時08分警戒警報解除
6月30日01時17分警戒警報発令(富山地区)
6月30日02時37分警戒警報解除
6月30日11時56分警戒警報発令(富山地区)
7月01日00時23分警戒警報解除
7月01日23時30分警戒警報発令(富山地区)
7月01日23時38分空襲警報発令
7月02日01時50分空襲警報解除
7月02日01時55分警戒警報解除
7月04日01時12分警戒警報発令(富山地区)
7月04日02時32分警戒警報解除(注:7月4日、午前1時45分、B29富山湾に侵入)
7月08日00時20分警戒警報発令(富山県地区)
7月08日00時45分警戒警報解除
7月09日22時26分警戒警報発令
7月09日23時15分空襲警報発令
7月10日02時24分空襲警報解除
7月10日02時34分警戒警報解除
7月10日08時54分警戒警報発令(富山県地区)
7月10日09時42分警戒警報解除
7月12日23時16分警戒警報発令(北陸全地区)
7月12日23時23分空襲警報発令
7月13日01時22分空襲警報解除
7月13日02時40分警戒警報解除
7月15日23時20分警戒警報発令(富山、石川)
7月16日00時29分警戒警報解除
7月18日00時30分警戒警報発令(北陸地区)
7月18日00時36分空襲警報発令
7月18日02時30分警戒警報解除
7月19日23時   警戒警報発令(北陸地区)
7月20日00時10分警戒警報解除
7月20日08時00分警戒警報発令(北陸地区)
7月20日08時37分警戒警報解除 (注:7月20日、B29不二越岩瀬工場付近に爆弾数個投下)
7月22日23時23分警戒警報発令(富山地区)
7月22日23時26分警戒警報解除
7月24日05時25分警戒警報発令(富山・石川)
7月24日05時36分警戒警報解除
7月24日10時20分警戒警報発令(富山、石川県)
7月24日11時35分警戒警報解除
7月25日23時47分警戒警報発令(北陸地区)
7月25日23時51分空襲警報発令
7月26日01時20分空襲警報解除
7月26日01時27分警戒警報解除
7月26日07時53分警戒警報発令(北陸地区)
7月26日09時23分警戒警報解除
7月26日10時53分警戒警報発令(北陸地区)
7月26日11時06分警戒警報解除
7月26日23時03分警戒警報発令
7月26日23時35分警戒警報解除(注:7月26日、伏木・新湊海上に機雷、富山市豊田地内に爆弾投下)
7月27日08時25分警戒警報発令(石川、富山県)
7月27日08時45分警戒警報解除
7月27日20時33分警戒警報発令(富山県)
7月27日21時10分警戒警報解除
7月27日21時55分警戒警報発令
7月27日22時10分警戒警報解除
7月27日23時25分警戒警報発令
7月27日23時37分空襲警報発令
7月28日01時05分空襲警報解除
7月28日01時07分警戒警報解除
7月28日09時05分警戒警報発令
7月28日09時21分警戒警報解除
7月28日11時05分警戒警報発令
7月28日11時38分警戒警報解除
7月29日10時14分警戒警報発令
7月29日10時52分警戒警報解除
7月30日08時40分警戒警報発令
7月30日09時16分警戒警報解除
7月30日12時33分警戒警報発令
7月30日13時17分警戒警報解除
7月31日20時15分警戒警報発令(北陸地区)
7月31日21時05分警戒警報解除
7月31日23時   警戒警報発令
7月31日23時18分警戒警報解除(注:7月31日、下奥井に3万枚のビラ投下)
8月01日20時28分警戒警報発令(北陸全地区)
8月01日21時40分空襲警報発令
8月02日02時25分空襲警報解除(注:8月2日、富山大空襲)
8月02日02時30分警戒警報解除
8月02日21時15分警戒警報発令(北陸全地区)
8月02日21時20分警戒警報解除
8月04日22時40分警戒警報発令
8月04日23時17分警戒警報解除
8月05日01時 警戒警報発令
8月05日01時40分警戒警報解除
8月05日22時35分警戒警報発令(北陸地区)
8月05日23時05分警戒警報解除
8月06日09時10分警戒警報発令
8月06日09時20分警戒警報解除
8月06日23時21分警戒警報発令
8月06日23時45分警戒警報解除(注:8月6日広島、9日長崎原爆投下)
8月07日07時28分警戒警報発令
8月07日07時37分警戒警報解除
8月10日07時05分警戒警報発令(北陸地区)
8月10日07時40分警戒警報解除
8月11日09時15分警戒警報発令(北陸地区)
8月11日09時30分警戒警報解除
   (注:8月15日、敗戦)

<資料5『陳述書』から富山空襲について抜粋>     2004年9月 作成:S
 
01李福○ 今もはっきりと思い出せるほど、空襲にはひどい恐怖がありました。
03張点○ 1945年の4月ころから空襲警報が頻繁になるようになり、5月から帰国するまでの2か月あまりの間は、毎日のように警報が鳴っていました。夜の12時にB29が来て、私たちは低い隣の山に入って顔を覆って、逃げました。初めは布団をもって逃げました。それが1回や2回ではなくて毎日だから面倒くさくて持っていかなくなりました。空襲の時は寮にいた女の先生が引率して逃げました。空襲が毎日なので、夢の中でもサイレンが鳴っていました。
 大きな地震に遭ってすごく怖かった。電気の笠が揺れて、死ぬかと思い、怖かったのを覚えています。
04李慈○(8・2空襲体験者)1945年8月の終戦の数か月前から、ほとんど毎日のように空襲警報が鳴りました。空襲警報が鳴ると、工場から歩いて1時間ほどの田圃に逃げるのです。防空ずきんをかぶって、リュックサックを担いで避難しました。リュックの中には洗面道具や服などが入れてありました。仕事をしていた時も、夜も空襲警報が鳴りました。畑に逃げ込んだときに、あまりお腹が空いていたので、そこにあったキュウリを食べたこともありました。毎晩のようにそんなことを繰り返すうち、寝不足で眠くてたまらなくなりました。
 そんなころ、あまりに眠くなって、空襲が来ても気がつかず、防空ずきんをかぶったまま寝ていたこともありました。作業中にも眠くなることがあって、実際に作業中に居眠りしていました。日本人は余り寝ていませんでしたが、韓国人挺身隊員たちは幼い子供だったのでよく作業中寝ていました。
06李今○(8・2空襲体験者)私が働いていた頃は、毎日のように空襲があり、非常に怖い思いをしました。空襲警報が鳴ると、私たちは、水をかぶって、工場の近くの林のようなところに逃げました。また、逃げるときは、布団を持っていき、木の下で寝たこともあります。
 空襲がある度に起こされて逃げなければならなかったので、夜に寝ることがほとんどできず、翌日の作業はとてもつらかったです。防空壕などは、見たこともなく、そこに避難したこともありません。今でも、時々、空襲で怖い思いをした時のことを思い出します。
07全玉○ 空襲があると、全員起こされて、防空頭巾をかぶって、工場の裏側にある畑に避難しました。工場の近くに防空壕はなく、防空壕に避難したことはありません。1945年春から頻繁に空襲警報が鳴るようになり、夜中に起こされては避難していました。
 避難した場所からは、戦闘機を見ることができる状態で、自分がいるところに爆弾を落とされたらと思うと、非常に怖い思いをしました。
 また、空襲の時は寄宿舎の外に出ることができたので、畑からジャガイモを拾って、生で食べることがありました。それくらいいつもお腹をすかせていたのです。空襲はいつも夜中だったので、空襲がある度に、起こされ、睡眠時間が減っていったので、やがて私は寝不足になり、翌日はとてもつらい状態でした。
08徐○蓮 仕事をしているとき、寝ているとき時間を構わず空襲警報が鳴りました。私はわーと言って工場の外にあった防空壕まで逃げ、そこで震えていました。防空壕には数名入ったことを覚えています。防空壕は工場からそんなに遠くなかったと思います。この空襲警報は幼かった私にとって本当に恐怖でした。
09林永○(8・2空襲体験者)終戦の数日前に富山市内に激しい空襲があり、市内は真っ赤に燃え上がりました。私たち女子勤労挺身隊はバラバラに別れて逃げました。私たちは夜中まで遠くの山の方に逃げました。空襲が終わってからも、あまりに遠くまで逃げたものですから、すぐに不二越には帰れず、途中日本人の民家に立ち寄って食料をもらったりしながら工場に帰りました。
10朴道○(8・2空襲体験者)空襲は、1日に何度もありました。特に食堂に配属された後に空襲が多くなりまし た。夜に空襲があると焼夷弾で昼間のように明るくなりました。空襲警報が鳴って海の中に入って隠れたこともありました。その時その近くに爆弾が落ち、本当に死ぬかと思いました。
 ある時、食堂から350メートルほど離れたところに大きな爆弾が落ちました。逃げて隠れていましたが、爆風で食堂の壁が壊れ、割れたガラスが飛んできて、左足の裏をけがをしました。今も傷跡が残っています。その時、治療は受けていません。薬はなかったし、近くに病院もありませんでしたし、病院へ行くということは思いもよらないことでした。今も怪我をしたところを押すと痛いのです。
 8月の空襲では、B29が10機ぐらい来て、爆弾をたくさん落としました。1時間で市内が全滅するかと思うような激しいものでした。私はもう怖くて、水の中に隠れたぐらいです。はじめに焼夷弾が投下されました。空襲は何回もあり、その度に防空壕に逃げました。
 あまりに怖くて、いまだに空襲の夢を見ます。思うだけで恐怖を感じます。
11羅贊○ 翌年(45年)には空襲があり、よく避難しました。昼でも空に飛行機を見ながら避難袋を持って、防空頭巾をかぶって避難したことがあります。火の手が上がって夜でも避難しなければなりませんでした。
12安喜○ 勤務中、空襲警報がよくあり、その度に防空頭巾を被って避難しました。サイレンの音に驚かされ続けました。1日2、3回はあったと思います。その度に心臓がバクバク鳴り、夜も眠れませんでした。両親に会うこともなく、死んでしまうのでないかと思いました。飛行機の音に恐怖を感じました。
14裵順○(8・2空襲体験者)空襲は、1日に何度もありました。夜も空襲に襲われて、毎夜のように避難していました。工場の外に2階建ての小さい建物に避難していました。間に合わない時は近くにあった木の下に避難していました。本当に怖い思いをしました。
15成順○(8・2空襲体験者)1945年6月ころからだと思いますが、毎晩のように空襲警報が鳴るようになりました。実際に空襲を受けたのは、終戦の少し前の1度だけだと思いますが、その前から空襲警報は頻繁になっており、そのために私たちは布団をかぶって郊外の田んぼの中まで逃げ出さなければなりませんでした。空襲警報が鳴った夜は、怖くなって、死んでしまうんじゃないかと思って、寮に帰っても眠れませんでした。翌日は寝不足で、しょっちゅう居眠りしそうになったものです。

16金正○(8・2空襲体験者)私が不二越に来てから、毎晩のように空襲警報が鳴り、一晩に2回空襲警報が鳴ることも珍しくありませんでした。空襲警報が鳴るたびに、掛け布団をかぶって外に逃げました。冬には、逃げるときに、周りがよく見えず、雪に埋まったことがありました。また田んぼで転んで、右膝をすりむいたこともありました。
 逃げ出すたびに、両親に会えず、姉にも会えないまま死ななければいけないのかと思って、いつも恐怖を感じていました。
 一度逃げてから寄宿舎に戻っても、なかなか寝付くことができず、また、すぐに起床する時間になり、ほとんど寝ることができないまま、工場に出勤することがよくありました。
 このような経験は13歳の私にはとても辛いものでした。今でも私は空襲警報が鳴ったときのことを生々しく思い出します。空襲のことを夢に見て、夜中に起きることもあります。
17羅花○(8・2空襲体験者)空襲警報は昼夜を問わずありました。昼は機械を動かしたまま逃げました。夜は、空襲警報のためにろくに眠ることができませんでした。警報のサイレンが鳴ると、防空壕に避難をしなければならなかったからです。
 避難に備えて、夜寝る時、リュックを肩にかけ、靴を履いて寝たりしました。 サイレンが鳴ると布団をかぶって、畑や田を一目散に走らなければなりませんでした。逃げていて力が尽きて、身体の調子が悪くなった時には、「逃げるのを止めて、死のう」とも思いました。ある晩は、とても疲れてそのまま寝て蟻にかまれました。
 今でも空襲で火災の炎があがって、恐ろしくて震えた事を思い出して胸がドキドキします。羅州出身の人も空襲で1人亡くなりました。
18金啓○(8・2空襲体験者)1945年8月15日の解放の日の数か月前から、毎日のように空襲警報や警戒警報が鳴るようになり、警報が鳴ると、私たちは布団をかぶって逃げました。夜、空襲警報が鳴ると怖くてその後も眠れず、翌日の仕事も眠たくて仕方がありませんでしたが、居眠りするとタムラ伍長から激しく叱られるので、眠たいのを必死に我慢して働きました。
19徐○南 1945年になると、仕事中、夜中を問わず頻繁に空襲警報が鳴るようになりましたが、やはり、夜中に空襲警報が鳴ることが多かったように思います。毎日のように空襲警報が鳴り、また一晩の間に何回も空襲警報が鳴ることもあり、そのたびに工場の近くにある林に逃げていました。
 ほぼ毎晩、空襲警報が鳴り、そのたびに起こされて逃げなくてはならないので、睡眠時間が短くなり、翌日は眠くて仕方がありませんでした。
 もう、死んでもいいからと言って寝ている人もいましたが、寮長が無理やり起こして、逃げさせられました。前日に寝ることができなかったので、翌日の仕事が終わって帰ってくると、そのまま押入で寝てしまったこともあります。今でも、空襲警報が鳴った時に感じた恐ろしさを生々しく思い出します。
21朴小○ 空襲は1944年の間に既に始まっていました。1945年に入って次第にひどくなり、1週間に2、3回、B29が飛んできて、空襲警報が鳴るようになり、寺や神社に逃げたことがあります。
 空襲は夜もあり、布団1枚を持って逃げ、その半分を下に敷いて、半分をかぶって、朝鮮に帰れないままここで死ぬんだという恐怖に怯えていました。
22朴順○ 私が不二越で働き初めてしばらくたったころから空襲がひどくなり、毎日のように昼は防空訓練をして夜は防空壕に逃げ込むようになりました。やがて毎日のように空襲警報が鳴るようになりました。そのようなことから不二越での生活の最後の2ヶ月くらいは、不眠症になってしまいました。
23崔姫○(8・2空襲体験者)終戦の日のしばらく前から毎日のように空襲警報が鳴るようになって、寝られなくなりました。非常袋を枕元に置いて寝て、警報が鳴ったら電灯は付けずにすぐに逃げるということが続き、毎日寝不足で眠かったのをおぼえています。
8月1日には、夕食後に警報が鳴り、布団をかぶって川辺に非難していたところ、夜10時くらいから明け方にかけて激しい空襲がありました。このときは川辺から焼夷弾がはじける様子が見えて、その破片が自分のところに飛んでくるような気がして本当に怖い思いをしました。
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