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アジアと小松

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小松基地問題研究会

20210928 尹奉吉、大阪衛戍刑務所の生活

2021年10月01日 | 尹奉吉義士
尹奉吉、大阪衛戍刑務所の生活

 1932年11月18日に大阪衛戍刑務所に移監された尹奉吉は、そこでどんな拘禁生活を強いられていたのだろうか? 知人から、北原泰作著『の後裔 わが屈辱と抵抗の半生』(1975年刊、石川県立図書館蔵)を紹介され、その様子をうかがうことが出来た。

 北原さんは1927年1月、岐阜歩兵第68連隊に入営し、同年11月の閲兵式で、軍隊内部の差別の存在と待遇の改善を昭和天皇に直訴し、逮捕された。1928年1月に名古屋衛戍拘禁所から大阪衛戍刑務所に移監され、尹奉吉は4年後の1932年11月18日に上海から移監されてきた。

 北原さんが名古屋から大阪に移監されるとき、名古屋駅を使わず、枇杷島駅から列車に乗車しているが、これはや社会主義者の裏をかく策略だったという。尹奉吉の場合も、新聞記者が待ち受ける神戸港第3突堤M岸壁を避け、三菱造船所桟橋から上陸し、大阪衛戍刑務所に向かった。その後、処刑のために大阪から金沢へと護送する際も、西金沢下車と発表しながら森本駅で下車し、金沢衛戍拘禁所に駆け込み、金沢での収監先を法務部と偽ったのと同じ手口を使っている。

 北原さんは、入監の手続きがすむと、…指紋採取。看守に連れられて監房の入口の前に立ち、看守の「入れ!」という号令で、監房に入る。畳3帖ぐらいの独居房で、三方は板壁で囲まれ、入口に対面する壁には鉄格子のはまった高窓がある。房内の片隅には、小判形の蓋付きの桶(大小便用の便器)が置いてある。

1日の獄中生活
 大阪衛戍刑務所では、朝6時に鐘が鳴らされ、看守が「起床!」と号令をかけ、受刑者は寝具を整え、出入り口の扉の前で不動の姿勢をとり、「出房!」という号令がかかると、便器を持って出て、通路に置き、整列して点呼を受ける。その後一列縦隊で洗面所へ行き、歯を磨き、顔を洗う。

 食堂へ向かうときは、4列縦隊で行進し、4人掛けの椅子に座り、米6割・麦4割のメシと味噌汁とタクアン2切れが並べられ、「喫飯!」という号令で食べ始めるが、15分後には「止め!」という号令がかかって、食事を終えなければならない。

 その後、労役のない受刑者は1時間毎に板張りの床に正座と安座(あぐら)を強制されるのであるが、正座に慣れた日本人でも1時間の正座は苦痛であるが、正座の習慣のない尹奉吉(朝鮮人)にとっては地獄の苦痛だったのではないだろうか。

 入浴は毎日あるが、温湯の入浴は週1回で、残りの6日は夏も冬も冷水のシャワーであった。シャワーのコックをひねると、看守は「上体」、「陰部」、「肛門」、「足」と号令をかけて、受刑者たちは体を洗い終えると、夕飯である。ごくわずかの魚肉か獣肉が出て、その後身体検査がおこなわれ、帰房する。夕食後も就寝までは正座と安座が繰り返される。

 就寝中も看守の支配・管理下にある。鼾(いびき)をかいたり、寝相が崩れているのが見つかると、叩き起こされ、度重なれば減食などの懲罰が加えられる。このように、尹奉吉も、1カ月間の大阪衛戍刑務所では寝ても覚めても、咳やクシャミさえも許可なくしてはおこなえないという、1日24時間自由が剥奪されていたのである。

 「在監者遵守事項」には、「12 毎朝父母若(もしく)は其の墳墓所在の方位に向(かつ)て礼拝すへし」あり、尹奉吉は大阪衛戍刑務所に在監した1カ月間父母や家族に思いを馳せていたのだろう。

 尹奉吉が他の受刑者と一緒に食事をしたり、シャワーを浴びたりしていたのかは不明であるが、北原さんの体験談を元に、尹奉吉の辛苦を想像するしかない。

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