メモ「大東亜共栄圏」思想の流れ
年初から、どこの新聞も「明治150年」を論じていますが、纐纈厚著『侵略戦争―歴史的事実と歴史認識』を読みました。
<江戸時代―大陸侵略思想の源流>
・林子平 『三国通覧図説』(1785年)、『海国兵談』(1791年)
ロシアの脅威への対抗から、朝鮮を領有する必要性を説いた最初の人物。
・本多利明 『西域物語』(1798年)、『経政秘策』(1798年)
南進論の萌芽
・佐藤信淵 『宇内混同秘策』1823年
「皇大御国は、大地の最初に成れる国として、世界万国の根本なり」→天皇こそ唯一の支配者であるとする強烈な自民族至上主義→ロシア脅威→中国奪取→東南アジアへ【1920~30年代の軍部・右翼は佐藤信淵の侵略思想を繰り返し借用した】
<明治維新―1868年>
・西郷隆盛 「征韓論」
朝鮮半島の領有によって、国内における権力関係の調整→国内危機の解除
<自由民権運動―1880年代>
・杉田鶉山(じゅんざん) 『東洋恢復論』1880年、『興亜策』1883年
専制権力による圧制からアジア人民が解放される為には、連帯を通してアジアの地でも民権論の拡張が不可欠―朝鮮・中国は侵略の対象ではなかった。このころの自由民権論者―明治政府の専制権力打倒とアジア地域における専制権力からの人民の解放を主張。転向→日本の近代化のためには、中国・朝鮮を侵略し、西欧流の近代化が緊急の課題。
・大井憲太郎―大阪事件(1885年)
韓国独立党への支援―人類不偏の課題。出獄後→西欧諸列強の侵略への対抗手段として、大陸に覇権を求め、大陸を領有することが日本の進むべき途
・樽井藤吉 『大東合邦論』1893年
日韓両国の文化的、民族的相違性を超越した共通の自然的・先天的な結びつきが存在しており、…両国の発展のためには、両国が将来的に「合邦」することが最善の途。清国との「合邦」は時期尚早、「合従」。 【この論が日清戦争の前に出ていたことに注目→大東亜共栄圏思想へ】
<日清戦争―1894年>
・内村鑑三 日清戦争は「義戦」。新文明が旧文明を乗り越える行為―侵略思想を内包。
・福沢諭吉「脱亜論」―日清戦争は「文明の義戦」―侵略思想を内包。文明的、思想的問題としてのアジア論―「義戦諭」的戦争観を再生産する思想的根拠→「東亜共同体諭」などを経由して、「大東亜共栄圏思想」へ
・徳富蘇峰
平民主義―西欧近代合理主義の基盤の上に、西欧的市民社会を形成することによる平等主義の実現を説く。日清戦争後―『大日本膨張論』1894年→日本民族膨張主義礼賛論を展開(『国民の友』1896年)―中国の「衝突」に勝利しない限り、日本の将来における発展はあり得ない。
・陸羯南(くがかつなん)
アジアの「平和」は日本を主軸に据えた形でしか成立しないと説き、中国への侵略を正当化した。
・高山樗牛
「日本主義論」―日本国家共同体へ国民を思想的にも精神的にも強制動員し、国家的価値や国家的利益がすべてに優越するものと主張した。
→日本文化の伝統や遺産に日本民族の一体感を求めず。→西欧の侵略に対抗するため、他の国に優越する強大国家、覇権国家の建設の中に民族としての一体感を求めるべし。
【明治を代表する知識人の日清戦争正当化論】
形式論―欧米諸列強からの日本防衛、朝鮮・中国の改革。本質的には―諸列強の動向を日本国家総体の危機と想定することで、日清戦争を日本国家膨張の一大契機として、積極的に評価。日清戦争で国民意識の中に「アジアの強国日本」のイメージを定着。
<日露戦争―1905年>
・西園寺公望 施政方針演説(1906年)
「彼の満州経営・韓国の保護は共に帝国のために努力せざるべからざる所にして、国力の発展は一日も緩うすべかざるなり」(戦後経営論)
・大山巌「1906年度日本帝国陸軍作戦計画策定要領」
「明治39年度以降における帝国陸軍の作戦計画は攻勢をとるを本領とす」←大陸侵略が日本国家の発展と密接不可分なものとして実践の対象となる。
・田中義一 『随感雑録』1906年
「我帝国の国是に伴う大方針を詳言するは海外に保護国と租借地を有し、且つ日英同盟の結果従来の如く単に守勢作戦を以て国防の本質とせず、必ず攻勢作戦を以て国防の主眼」「国利国権の伸張は先づ清国に向て企画せらるるものとす」「中国を侵略するのは帝国の天賦の権利」。
【田中義一が主張する大陸国家日本の形成という戦略は、明治初期から中期にかけて言論界で盛んに論じられた大陸侵攻論や膨張主義を積極的に採用した結果である】
・山県有朋 『対清政策所見』1907年
対中国外交に慎重な態度。「帝国国防方針案」では、「将来我国利国権の伸張は清国に向て企画せらるるを有利とす」
・後藤新平 『日本膨張諭』1916年
<東亜新秩序建設声明 1938年>
・陸軍省新聞班 『国防の本義とその強化の提唱』(陸軍パンフレット)1934年、「日満一体化論」、「日満支一体化論」
・三木清 『東亜共同体論』1937年ごろ
・宮崎正義 『東亜聯盟論』1938年
「満州国の建国(1932年)こそ…東洋解放とその新建設たる道義的・文化的意義を有する」
・石原莞爾 『東亜連盟論』
・近衛文麿 「東亜新秩序建設声明」1938年11月→大東亜共栄圏思想(1940年~)―巨大な幻想共同体構想
【コメント】
①アジア論に内在する大陸侵略思想は武断主義的基調を回避して、文明論的文化論的色彩で粉飾され、侵略の企画や実態を隠蔽した。
②政治的経済的動機づけからする侵略思想が日本国家の政治的地位向上の手段として位置づけられてきた。
年初から、どこの新聞も「明治150年」を論じていますが、纐纈厚著『侵略戦争―歴史的事実と歴史認識』を読みました。
<江戸時代―大陸侵略思想の源流>
・林子平 『三国通覧図説』(1785年)、『海国兵談』(1791年)
ロシアの脅威への対抗から、朝鮮を領有する必要性を説いた最初の人物。
・本多利明 『西域物語』(1798年)、『経政秘策』(1798年)
南進論の萌芽
・佐藤信淵 『宇内混同秘策』1823年
「皇大御国は、大地の最初に成れる国として、世界万国の根本なり」→天皇こそ唯一の支配者であるとする強烈な自民族至上主義→ロシア脅威→中国奪取→東南アジアへ【1920~30年代の軍部・右翼は佐藤信淵の侵略思想を繰り返し借用した】
<明治維新―1868年>
・西郷隆盛 「征韓論」
朝鮮半島の領有によって、国内における権力関係の調整→国内危機の解除
<自由民権運動―1880年代>
・杉田鶉山(じゅんざん) 『東洋恢復論』1880年、『興亜策』1883年
専制権力による圧制からアジア人民が解放される為には、連帯を通してアジアの地でも民権論の拡張が不可欠―朝鮮・中国は侵略の対象ではなかった。このころの自由民権論者―明治政府の専制権力打倒とアジア地域における専制権力からの人民の解放を主張。転向→日本の近代化のためには、中国・朝鮮を侵略し、西欧流の近代化が緊急の課題。
・大井憲太郎―大阪事件(1885年)
韓国独立党への支援―人類不偏の課題。出獄後→西欧諸列強の侵略への対抗手段として、大陸に覇権を求め、大陸を領有することが日本の進むべき途
・樽井藤吉 『大東合邦論』1893年
日韓両国の文化的、民族的相違性を超越した共通の自然的・先天的な結びつきが存在しており、…両国の発展のためには、両国が将来的に「合邦」することが最善の途。清国との「合邦」は時期尚早、「合従」。 【この論が日清戦争の前に出ていたことに注目→大東亜共栄圏思想へ】
<日清戦争―1894年>
・内村鑑三 日清戦争は「義戦」。新文明が旧文明を乗り越える行為―侵略思想を内包。
・福沢諭吉「脱亜論」―日清戦争は「文明の義戦」―侵略思想を内包。文明的、思想的問題としてのアジア論―「義戦諭」的戦争観を再生産する思想的根拠→「東亜共同体諭」などを経由して、「大東亜共栄圏思想」へ
・徳富蘇峰
平民主義―西欧近代合理主義の基盤の上に、西欧的市民社会を形成することによる平等主義の実現を説く。日清戦争後―『大日本膨張論』1894年→日本民族膨張主義礼賛論を展開(『国民の友』1896年)―中国の「衝突」に勝利しない限り、日本の将来における発展はあり得ない。
・陸羯南(くがかつなん)
アジアの「平和」は日本を主軸に据えた形でしか成立しないと説き、中国への侵略を正当化した。
・高山樗牛
「日本主義論」―日本国家共同体へ国民を思想的にも精神的にも強制動員し、国家的価値や国家的利益がすべてに優越するものと主張した。
→日本文化の伝統や遺産に日本民族の一体感を求めず。→西欧の侵略に対抗するため、他の国に優越する強大国家、覇権国家の建設の中に民族としての一体感を求めるべし。
【明治を代表する知識人の日清戦争正当化論】
形式論―欧米諸列強からの日本防衛、朝鮮・中国の改革。本質的には―諸列強の動向を日本国家総体の危機と想定することで、日清戦争を日本国家膨張の一大契機として、積極的に評価。日清戦争で国民意識の中に「アジアの強国日本」のイメージを定着。
<日露戦争―1905年>
・西園寺公望 施政方針演説(1906年)
「彼の満州経営・韓国の保護は共に帝国のために努力せざるべからざる所にして、国力の発展は一日も緩うすべかざるなり」(戦後経営論)
・大山巌「1906年度日本帝国陸軍作戦計画策定要領」
「明治39年度以降における帝国陸軍の作戦計画は攻勢をとるを本領とす」←大陸侵略が日本国家の発展と密接不可分なものとして実践の対象となる。
・田中義一 『随感雑録』1906年
「我帝国の国是に伴う大方針を詳言するは海外に保護国と租借地を有し、且つ日英同盟の結果従来の如く単に守勢作戦を以て国防の本質とせず、必ず攻勢作戦を以て国防の主眼」「国利国権の伸張は先づ清国に向て企画せらるるものとす」「中国を侵略するのは帝国の天賦の権利」。
【田中義一が主張する大陸国家日本の形成という戦略は、明治初期から中期にかけて言論界で盛んに論じられた大陸侵攻論や膨張主義を積極的に採用した結果である】
・山県有朋 『対清政策所見』1907年
対中国外交に慎重な態度。「帝国国防方針案」では、「将来我国利国権の伸張は清国に向て企画せらるるを有利とす」
・後藤新平 『日本膨張諭』1916年
<東亜新秩序建設声明 1938年>
・陸軍省新聞班 『国防の本義とその強化の提唱』(陸軍パンフレット)1934年、「日満一体化論」、「日満支一体化論」
・三木清 『東亜共同体論』1937年ごろ
・宮崎正義 『東亜聯盟論』1938年
「満州国の建国(1932年)こそ…東洋解放とその新建設たる道義的・文化的意義を有する」
・石原莞爾 『東亜連盟論』
・近衛文麿 「東亜新秩序建設声明」1938年11月→大東亜共栄圏思想(1940年~)―巨大な幻想共同体構想
【コメント】
①アジア論に内在する大陸侵略思想は武断主義的基調を回避して、文明論的文化論的色彩で粉飾され、侵略の企画や実態を隠蔽した。
②政治的経済的動機づけからする侵略思想が日本国家の政治的地位向上の手段として位置づけられてきた。