『革共同50年私史』(尾形史人著2016年) を読む(4) 2016年11月
引用は要約・省略しているので、直接著書にあたってほしい。【 】は著書のページ数。
(7)差別・排外主義について
【276】反差別の思想=70年代~2008年までの党の最も重要な軸。差別の主体=支配者+人民。資本主義は法制度上は平等だが、憲法に私有財産の優位性を謳っており、実質的には経済差別を公認している。【278】資本主義=経済的搾取←差別の再生産の主因→ブルジョア的社会経済制度に退いてもらわない限り、人格的完成解放の根拠は与えられない。【280】1970年7・7→革共同自己批判。支配階級の意識=社会意識のなかに存在する差別意識。差別とのたたかいは被差別人民と労働者階級人民の共同闘争。【293】7・7=階級意識の鮮明化=労働者階級の国内的・国際的団結のために必要。【296】労働者階級は「あるがまま」では、「自然発生的」には階級性を持っていない←誤り→階級的自己批判の側面が強調され、労働者階級の自己解放闘争が外部化される。【299】革共同(中央派)の2007年新7・7テーゼ→「プロレタリア解放が自動的に差別問題を解決する」論。革共同の7・7の限界―反差別闘争を労働者階級の自主解放闘争を低め、否認。【304】7・7は党内統制にも役に立った。【344】『レーニン最後の闘争』で、レーニンは「抑圧民族の民族主義と被抑圧民族の民族主義、大民族の民族主義と小民族の民族主義とを区別することが必要である。強大民族にとっての国際主義とは、諸民族の形式的平等を守るだけではなく、生活のうちに現実に生じている不平等にたいする抑圧民族、大民族の償いとなるような、不平等を忍ぶことでなければならない」。
<感想>
尾形さんは差別の根源が資本主義=経済的差別にあるとして、革命(私有財産制度の揚棄)なしには解決しないとしている。「7・7自己批判」から始まった差別とのたたかいは「支配階級の意識=社会意識のなかに存在する差別意識→差別とのたたかいは被差別人民と労働者階級人民の共同闘争」(278)として、積極的に評価している。
しかし革共同中央派の「2007年新7・7テーゼはプロレタリア解放が自動的に差別問題を解決する論であり、労働者階級の自主解放闘争としての反差別闘争を低めている」(229)として、批判している。それは革マル派が主張する「被抑圧民族迎合主義・被差別迎合主義」にも通じているようだ。至極妥当な批判である。北陸では、「新7・7テーゼ」について激しい論争となり、反対派の除名にまで発展した。
また、尾形さんは「7・7は党内統制にも役に立った」(304)と書いている。具体的状況については分からないが、北陸でも2000年女性差別事件告発を奇貨として、一気に中央支配を強めたことを見ると、革共同の常套手段だったのだろう。
中央派が三里塚農民にたいして、「労働者階級の立場に立て」(185)と要求している。これは立場の違う人民同士の共同関係を破壊する姿勢に通有している。それはまた現下の沖縄闘争で中央派が「資本家と一緒になった運動は労働者性を希薄化・解体するので有害」といって、沖縄闘争から召還している姿にも通じている。
もはや、中央派は労働者人民との共同闘争を取り組めないほどに、動脈硬化を起こし、硬直化した路線を歩んでいる。
(8)情勢認識について
【189】革命情勢とは、「武装蜂起による権力の交代が現実的課題になるような政治的激動。経済的に行き詰まっているだけではなく、経済的危機が政治問題になり、階級関係に亀裂・対立+労働者階級の憤激→行動力の大きさ・高さ→革命主体の化学変化が必要」。【191】70年闘争過程→「革命情勢の過渡期の接近」規定は無理。【196】抵抗闘争の端緒的部分的武装化を社会全体に適用→過ち。【205】1966年革共同「戦後体制の根底的動揺の時代到来」規定以来40年間、この時代認識のまま。経済危機を革命情勢と等置。【206】経済危機→経済侵略→革命情勢→内乱←主観的楽観論。【275】革命の現実性と革命的情勢の接近は同義ではない→革共同は混同し、武装闘争へ←誤りだった。
<感想>
「革命の現実性」は帝国主義段階論の認識規定であり、「革命情勢の接近」規定は政治情勢分析であり、明確に区別されていたはずだ(私は区別していた)。革共同が「革命の現実性」と「革命的情勢の接近」を混同していたとなれば、重大な理論的混乱だろう。
1970年代を「革命情勢とは帝国主義が経済的に行き詰まり、政治危機に発展し、労働者階級人民はこれまでどおりやっていけなくなり、行動に化学変化が起き、武装蜂起による権力の交代が現実的課題になる情勢」(189)と認識すれば、直線的に武装蜂起の準備に着手することになる。しかし、尾形さんは1970年前後の大学や沖縄をめぐるたたかいの武装的発展は部分的であり、体制全体にまではおよんでいなかったと総括している。経済的には、高度成長期の真っ只中にあり、労働者人民の生活は徐々に向上する過程にあり、労働者階級全体の憤激が高まり、行動には化学変化が起きていなかったからだと言う。
だが当時、米帝はベトナム侵略戦争に深々とはまり込み、日帝も参戦している状況があり、1973年にはベトナム和平協定の調印(1975年撤退)を強いられたとはいえ、70年当時は抜き差しならない状況に置かれていたことは事実として認めねばならない。1971年にはニクソンショック(金-ドル交換停止)で世界経済が混乱し、1973年には東京外為市場は変動相場制-円急騰、石油ショックで物価が高騰し、高度成長政策が破綻し、矛盾を人民に転嫁する政治が強行されていた。
労働組合運動(経済闘争)は沈黙していたが、6大都市(東京、大阪、京都、横浜、名古屋、神戸)では人民の怒りが沸騰し、革新市長が生まれていたのである。したがって、この情勢を通常の景気動向や経済変動の枠内ではなく、「革命情勢の接近」と認識したのも止むを得ないと思うが、それでも「想定外」の結果についても真摯に向きあって総括すべきだっただろう。革共同にはそこが足りなかったようだ。
加えて、1972年に、「人民革命軍、武装遊撃隊を建設せよ」(『前進』新年号)として、「国家権力の奪取」(131)を目的化したことは、情勢的にも主体的にも乖離していたといわねばならない。その後、革マル派との党派間戦争を「蜂起をたぐり寄せる水路」としたり、「80年代の10・8」を呼号して、1985年10・20三里塚闘争、11・29浅草橋闘争、90年天皇決戦などの軍事方針はあまりにも主観的で、当然大衆的実力決起には結びつかなかった(これは結果論というわけにはいかない)。10・20三里塚闘争は、三里塚闘争の局面では日帝に大きなダメージを与えたが、反面犠牲が大きく、党は深い傷を負った。
革共同の「階級闘争は革命戦争にレベルアップした」(162)という認識は破綻し、1991年「5月テーゼ」で労働運動路線への転換を図ったが、1993年新年号では再び武装闘争重視論文が発表されるなど、総括なきジグザグをたどることになり、人民からの信頼を失い、党勢を凋落させていったという尾形さんの総括は承認せざるを得ないだろう。
引用は要約・省略しているので、直接著書にあたってほしい。【 】は著書のページ数。
(7)差別・排外主義について
【276】反差別の思想=70年代~2008年までの党の最も重要な軸。差別の主体=支配者+人民。資本主義は法制度上は平等だが、憲法に私有財産の優位性を謳っており、実質的には経済差別を公認している。【278】資本主義=経済的搾取←差別の再生産の主因→ブルジョア的社会経済制度に退いてもらわない限り、人格的完成解放の根拠は与えられない。【280】1970年7・7→革共同自己批判。支配階級の意識=社会意識のなかに存在する差別意識。差別とのたたかいは被差別人民と労働者階級人民の共同闘争。【293】7・7=階級意識の鮮明化=労働者階級の国内的・国際的団結のために必要。【296】労働者階級は「あるがまま」では、「自然発生的」には階級性を持っていない←誤り→階級的自己批判の側面が強調され、労働者階級の自己解放闘争が外部化される。【299】革共同(中央派)の2007年新7・7テーゼ→「プロレタリア解放が自動的に差別問題を解決する」論。革共同の7・7の限界―反差別闘争を労働者階級の自主解放闘争を低め、否認。【304】7・7は党内統制にも役に立った。【344】『レーニン最後の闘争』で、レーニンは「抑圧民族の民族主義と被抑圧民族の民族主義、大民族の民族主義と小民族の民族主義とを区別することが必要である。強大民族にとっての国際主義とは、諸民族の形式的平等を守るだけではなく、生活のうちに現実に生じている不平等にたいする抑圧民族、大民族の償いとなるような、不平等を忍ぶことでなければならない」。
<感想>
尾形さんは差別の根源が資本主義=経済的差別にあるとして、革命(私有財産制度の揚棄)なしには解決しないとしている。「7・7自己批判」から始まった差別とのたたかいは「支配階級の意識=社会意識のなかに存在する差別意識→差別とのたたかいは被差別人民と労働者階級人民の共同闘争」(278)として、積極的に評価している。
しかし革共同中央派の「2007年新7・7テーゼはプロレタリア解放が自動的に差別問題を解決する論であり、労働者階級の自主解放闘争としての反差別闘争を低めている」(229)として、批判している。それは革マル派が主張する「被抑圧民族迎合主義・被差別迎合主義」にも通じているようだ。至極妥当な批判である。北陸では、「新7・7テーゼ」について激しい論争となり、反対派の除名にまで発展した。
また、尾形さんは「7・7は党内統制にも役に立った」(304)と書いている。具体的状況については分からないが、北陸でも2000年女性差別事件告発を奇貨として、一気に中央支配を強めたことを見ると、革共同の常套手段だったのだろう。
中央派が三里塚農民にたいして、「労働者階級の立場に立て」(185)と要求している。これは立場の違う人民同士の共同関係を破壊する姿勢に通有している。それはまた現下の沖縄闘争で中央派が「資本家と一緒になった運動は労働者性を希薄化・解体するので有害」といって、沖縄闘争から召還している姿にも通じている。
もはや、中央派は労働者人民との共同闘争を取り組めないほどに、動脈硬化を起こし、硬直化した路線を歩んでいる。
(8)情勢認識について
【189】革命情勢とは、「武装蜂起による権力の交代が現実的課題になるような政治的激動。経済的に行き詰まっているだけではなく、経済的危機が政治問題になり、階級関係に亀裂・対立+労働者階級の憤激→行動力の大きさ・高さ→革命主体の化学変化が必要」。【191】70年闘争過程→「革命情勢の過渡期の接近」規定は無理。【196】抵抗闘争の端緒的部分的武装化を社会全体に適用→過ち。【205】1966年革共同「戦後体制の根底的動揺の時代到来」規定以来40年間、この時代認識のまま。経済危機を革命情勢と等置。【206】経済危機→経済侵略→革命情勢→内乱←主観的楽観論。【275】革命の現実性と革命的情勢の接近は同義ではない→革共同は混同し、武装闘争へ←誤りだった。
<感想>
「革命の現実性」は帝国主義段階論の認識規定であり、「革命情勢の接近」規定は政治情勢分析であり、明確に区別されていたはずだ(私は区別していた)。革共同が「革命の現実性」と「革命的情勢の接近」を混同していたとなれば、重大な理論的混乱だろう。
1970年代を「革命情勢とは帝国主義が経済的に行き詰まり、政治危機に発展し、労働者階級人民はこれまでどおりやっていけなくなり、行動に化学変化が起き、武装蜂起による権力の交代が現実的課題になる情勢」(189)と認識すれば、直線的に武装蜂起の準備に着手することになる。しかし、尾形さんは1970年前後の大学や沖縄をめぐるたたかいの武装的発展は部分的であり、体制全体にまではおよんでいなかったと総括している。経済的には、高度成長期の真っ只中にあり、労働者人民の生活は徐々に向上する過程にあり、労働者階級全体の憤激が高まり、行動には化学変化が起きていなかったからだと言う。
だが当時、米帝はベトナム侵略戦争に深々とはまり込み、日帝も参戦している状況があり、1973年にはベトナム和平協定の調印(1975年撤退)を強いられたとはいえ、70年当時は抜き差しならない状況に置かれていたことは事実として認めねばならない。1971年にはニクソンショック(金-ドル交換停止)で世界経済が混乱し、1973年には東京外為市場は変動相場制-円急騰、石油ショックで物価が高騰し、高度成長政策が破綻し、矛盾を人民に転嫁する政治が強行されていた。
労働組合運動(経済闘争)は沈黙していたが、6大都市(東京、大阪、京都、横浜、名古屋、神戸)では人民の怒りが沸騰し、革新市長が生まれていたのである。したがって、この情勢を通常の景気動向や経済変動の枠内ではなく、「革命情勢の接近」と認識したのも止むを得ないと思うが、それでも「想定外」の結果についても真摯に向きあって総括すべきだっただろう。革共同にはそこが足りなかったようだ。
加えて、1972年に、「人民革命軍、武装遊撃隊を建設せよ」(『前進』新年号)として、「国家権力の奪取」(131)を目的化したことは、情勢的にも主体的にも乖離していたといわねばならない。その後、革マル派との党派間戦争を「蜂起をたぐり寄せる水路」としたり、「80年代の10・8」を呼号して、1985年10・20三里塚闘争、11・29浅草橋闘争、90年天皇決戦などの軍事方針はあまりにも主観的で、当然大衆的実力決起には結びつかなかった(これは結果論というわけにはいかない)。10・20三里塚闘争は、三里塚闘争の局面では日帝に大きなダメージを与えたが、反面犠牲が大きく、党は深い傷を負った。
革共同の「階級闘争は革命戦争にレベルアップした」(162)という認識は破綻し、1991年「5月テーゼ」で労働運動路線への転換を図ったが、1993年新年号では再び武装闘争重視論文が発表されるなど、総括なきジグザグをたどることになり、人民からの信頼を失い、党勢を凋落させていったという尾形さんの総括は承認せざるを得ないだろう。