アジアと小松

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小松基地問題研究会

林 銑十郎について

2012年05月05日 | 軍事問題(小松基地など)
林 銑十郎について

 林銑十郎は1930年12月22日に朝鮮軍司令官に着任し、1932年5月26日に離任している。朝鮮軍司令官就任中の1年半に、朝鮮では、次のような弾圧が繰り返されている。(『年表で見る韓国の歴史』より)

 1931年2月1日   第1次定平農民組合事件…125人の農民を検挙
      5月     新幹会解体
      6月     第1次カップ事件…70人検挙
      9月21日  独断により満州に朝鮮軍進撃
      11月30日 慶尚北道慶山の慈仁公立普通学校で韓国語の使用禁止
      11月    反帝同盟事件(京城帝大)…多数逮捕
      12月19日 新賓事件…日本軍が朝鮮革命軍幹部30人逮捕
 1932年1月23日  龍川小作組合…強制解散
      5月     第2次太平洋労組事件…100余人逮捕

 このように、林銑十郎は朝鮮軍司令官として、朝鮮総督とともに朝鮮人民への弾圧を恣にしていたのである。

 『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、林銑十郎は「軍部内革新派のロボット」になりやすいと見られていた。満州事変が起こった際、朝鮮軍司令官の林は、強硬派の参謀・神田正種の進言を入れて、中央の指示なしに朝鮮派遣軍を満州に進め、「越境将軍」と呼ばれた。石原莞爾大佐は「林大将なら猫にも虎にもなる。自由自在にすることができる」と言っていた。

 また、林は変わり身が早く、従来は皇道派の真崎大将に近いと見られていたのに、二・二六事件を前後して、いつの間にか統制派に鞍替えした。圧力に弱い「ロボット首相」と見られており、首相時代に特に何もしなかったことから、「何にもせんじゅうろう内閣」と揶揄された。

 このように、林銑十郎は「ロボット」のように、他者に操られる程度の人物であり、「偉人」と呼ぶのもおこがましい、ただの「パシリ」に過ぎなかった。ブルジョア的評価から見ても、「金沢ふるさと偉人館」の「偉人」から削除すべき人物である。
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