アジアと小松

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小松基地問題研究会

19531100「土地貧乏」出島権二  

2022年12月20日 | 内灘闘争
『土地貧乏』(出島権二『世界』1953年11月号)

貧しい村
 村の人たちは、自分たちが生まれ且つ生きていかねばならぬ村の経済的な利用価値の貧乏さを「土地貧乏」という言葉で表現する。具体的に申し上げれば、
1 河北潟と日本海並びにそれに続く無価値な(現在は)砂丘地の間に八キロの長さと一キロの幅をもった帯状の村で、耕作面積が零細である。
2 日本海が荒磯で、魚族に乏しく、且つ村から海端まで二キロも砂丘を登り降りせねばならぬので、地引き網を除いては、磯漁場としての価値は乏しい。
3 交通の便が悪く、農、漁業以外の産業が落ち着く立地条件が皆無である。

 耕す土地をもたず、獲るべき魚をもたぬ半農半漁の内灘は、その置かれた生活上の悪条件を打開するため、
1 出稼ぎによる漁場開拓をせねばならぬ。稚内を中心とした北海道の鰊場、帆立貝場、山口県や北九州への鰮(いわし)刺網漁業を主として、青森、秋田方面、及び九州地方の底引き漁業、千葉、静岡のさんまやまぐろ等、内灘漁民の出稼ぎは広い地域にわたっている。
2 家計の補いのため、自然女たちが働かねばならぬ結果、かつぎ売りというものが、今では内灘の女たちの一つの職業的な技術にまでなっている。
3 其の他織物女工、パチンコー(女)、土工、人夫、米軍ガードー(男)等いろいろの面に進出している。いわゆる土地貧乏のために、村の人達は、それを補うに出稼ぎやかつぎ売りなどの生活手段をもってしたわけであるが、

その結果は、
1 村の青年層が一年の三分の二を村から離れるので、村自体の運営発展の阻害になっているばかりでなく、それぞれの家庭にあって、一家団欒の、人間的な生活を営むことがきわめて暫くしかない。
2 担ぎ売りに一日中主婦が出歩くために、子供を家庭的な雰囲気の中で育ててゆけない。且つ、担ぎ売り、家事、農耕などで主婦の負担がきわめて過重である。
 といった風な生活上の変態や、無理が村の人達の生計に現れて来ている。

村百年の大計
 金は一年、土地は万年。政府は一時、村は永久といういみでの村百年の大計も考えられるが、ここで言う村百年の大計は、それとは反対の村を売る方の大計についてである。
 以上述べたような村の実状を何とかして打開したいという念願は村の人達が全部抱いて居る。たまたま、内灘試射場設置に伴う接収、補償の問題が生まれた。これは一応村の人達にとっては絶好のチャンスである。
 試射場を設置することで、村の再発足と、村人たちの生活の安定が約束されるなら、進んで受諾してもよい、少なくとも反対の必要は少しもない。これが百年の大計派の考え方である。
 五月十三日の村議会協議会で接収反対、如何なる政府の補償にも応じないという強い決議がなされた。但し、外部団体の援助については受け入れを拒否する、という条件が付けられている。これは甚だ矛盾した話である。絶対反対を貫徹するためには、あらゆる大衆の援助こそ必要であることは、賢明な村の指導者がご存じない筈がない。

 百年の大計と外郭団体の援助拒否とは一本の道であるが、絶対反対と外郭団体の援助拒否とは、相反する方向を示すものであることを熟知し乍ら、この矛盾した決議が生まれたのは、県民や村の人達の間に接収反対の声が高く、村議会としてもこれ以上知らぬ顔の半兵衛を決め込む訳にいかぬ窮地に追い込まれての結果であったろう。ところで、村百年の大計については村の指導者も、一般村民も同じように念願しながら、村の指導者(大部分)と一部の村人達だけがそこに止まり、何故大部分の村民達が絶対反対、何物もいらぬという強い反撃に出たか、この謎を考えねばならぬ。

二つの流れ
 村の指導者や一部の村人達が矢張り表向きは絶対反対を称えながら、心の内では百年の大計樹立は今なり、この好機を逃しては、内灘村が再建される時は永久にない。青い鳥を逃がさぬようにと気を揉んだにも拘わらず、益々村民の反対の運動が強硬になった理由として、
1 政府への不信、四か月だけ貸して欲しい、期間が終わったら直ぐ引揚げると約束して置きながら、途中から、政府は永久接収の含みで補償を出したなどと紐をつけ出し、揚げ句には、強制接収も又止むを得ぬ等の威嚇手段を用いたりした。
2 村の指導者への不満。四か月接収後、永久接収について政府との話し合いがあったのではないかという疑惑(益谷談話二月二三日)や接収反対決議をした村議会が、その後反対運動を少しも積極的に行なわず、自分達の反対意識を無視されたと見られる村民の憤まんなど。
3 金は一年土地は万年の標語に現れている通り、土地を持たない村人達が、土地に対する強い愛着は土地と結びつきの薄い都会生活者には到底理解できない根強いものがある。土地を失うことは生活の手段を奪われることである。

 外部からの啓蒙、援助。これはもう絶対に認めなくてはならない。議会などで、外郭団体が強硬に反対しているのであって、村民はそうでもないと政府が答弁したことは、全くの誤りであるとも言えない。最初の内は、むしろ村民達は一向煮え切らなくて、県の労組などが盛んに、啓蒙に努めた。その結果、一時は百年の大計派も全然、そんな素振りすら見せられない程村民の結束が強まった。
 これに対し、反対運動に対する反対派が、闘いが長びくにつれて徐々に台頭し、次第にその数が拡大されていった。後には愛村行動隊とか愛村同志会といった、村政擁護派が現われ、共産党追い出しと、接収反対運動とを置き換えて大根部部落民の闘いの方向を逆転させたり、暴力で村の実行委員を威嚇したり、村民大会ぶちこわしのテロ行為に訴えたりして、完全な反動化を示した。いわゆる百年の大計派の親衛隊である。

 この派の考え方も一応考えてみよう。
1 政府の指令は絶対である。いわゆるお上の言うことである。これに手向かうことは国賊であるという考え方。それまで行かなくても政府に勝てる道理がない。「長い物に捲かれろ」であり、「泣く子と地頭」であるという根本的の功利的な考えが根底にある。
2 四か月接収の結果がそれほどの被害、音響の点、危険の点、風紀の点など村人達が心配したほどでなかった。政府は今後もこれ以上のことはないと言明しているから、さしたる心配はない、等がそれである。
 部落別に見て、反対の強弱が非常に違ったが、それぞれの部落間の事情や感情など複雑なものが考えられる。大根布(おおねぶ)部落(内灘村の中心にあって、戸数などから見て最も勢力ある部落で村役場がある)が特別に反対意識が弱く、後には完全に反動化した理由については、

1 九十九里や、『ノリソダ騒動記』(杉浦明平1953年)に出てくる、数千万円の漁業の仕込みをする親方や、なまこ壁の土蔵も、黒塀も、この村には見当たらず、せいぜい数百万円の小親方が存在するに過ぎないが矢張りその雇用関係の影響は見逃せない。
2 村内通婚(主として経済的事情から)の結果、村が幾つかの大きな姻族で占められていて、その連繋が部落内のいろいろの問題に表面に現れる。
3 耕作反別が、他の部落に比して少ない。従って出稼ぎなどが最も盛んで、生活の安定性を欠いている。
4 振り売りの女たちが最も多く、その顧客が封建的な農、山村である。
5 村長と、十人(全員二二名)の村会議員を出している。
6 一時一千名を越えた警官が、本部落に常駐し、長らく部落の警戒に当たっていた。等が主なものと考えられる。

 以上内灘村の内部に現れた接収問題に対する村民の考え方を大雑把に分類すると、
1 経済的に恵まれない、いわゆる土地貧乏から脱出する好個の機会である。この際、外部の反対運動を閉出して政府と妥協すべきである。―― 積極的妥協派
2 接収には反対である。土地を取られたくない。然し、現実の問題として政府対手に闘っても万に一つの勝ち目がない。この際、反対運動を適当に切り上げるべきである。―― 消極的妥協派
3 土地は吾々の命である。土地を奪われることは死を意味するものである。祖先から伝わる土地を奪われる位なら、着弾地点に座り込んで弾丸に当たって死んだ方がよい。―― 一村的反対派
4 平和を愛し、民族の真の独立を希求する。―― 自覚的反対派
 一応このように分類できるようである。

村長の立場
 「村のことは村民に任せて置いて貰い度い。外部から来て、反対だ反対だと村を騒がせて貰うては甚だ迷惑である。結局最後に取り残されるのは村民であり、最後の結末をつけるのも村民である。どうか村のことは余り干渉せずに静かにして置いて貰いたい」
 中山村長の立場は、最初から外部の働きかけを好まなかった。
 「貴下達は、自分の生活のために、弾丸を造っている、或いは造った弾丸を内灘へ運んでいる。貴下達が、弾丸を造ったり、運んだりしてさえ呉れなかったら、内灘問題は起きなかったのだ。それにも拘わらず、弾丸を撃たすなといって私達を責めたてる。一体内灘だけが犠牲にならねば不可い(いけない)理由がどこにあるのですか」
 労働者の自己撞着に対する村長の抗議である。

更に、
 「聞くところでは、貴下の県でも、このような問題が発生しているそうですが、貴下は態々(わざわざ)対人(他人)の県のことまで、おせっかいに来なくても、自分の地元の問題を解決されたら如何です」
 S県の某左社(日本社会党左派)代議士への中山村長の抗議である。内灘村の村長という一つの限られた殻の中にあって、少なくとも、平和とか日本民族とかいう面倒な問題を考えなければ、確かに一つの筋の通った態度である。
 正義とか利己的とかいう言葉も、立場立場から批判される相対的な意識が強く、拘束力が薄い感じだ。又、百年の大計が果たして村のために真の措置であるかどうかということも、今後の歴史に待つより方法がない。
 土地貧乏なこの村にも、確かに小さい乍ら漁業の親方も居るし、政治ボスも存在する。又村民の意見が十分浸透しない封建的な村の古い仕組が、いろいろな形で根強く残っている。
 村長や、村の執行部が、これらの村の勢力であり、又それと結びついて、根強い村民の声を圧殺して、政府と手を握ったことも事実である。
 然し年中黒いヨレヨレの外衣(うわぎ)を着こみ、鉈豆(なたまめ)ぎせるで刻(きざみ)煙草を喫う。小学校の校長出身のこの老村長に政治や思想を求め、時代感覚を強要すること自体甚だしい矛盾である。彼の在職中に、このような降って湧いたような大事件が勃発したことは、彼にとってはよくよくの不運といわねばならぬ。一日も早く問題を解決して、村に以前の平和を取り戻したいというのがこの老村長の本当の願いであったろう。

政治の暴力化
 民主主義が日本の政治の基調になってから幾ばくもない今日、もはや民主主義を政治から追放しようとする力が急速に広がっている。
 内灘問題などは明らかに、政府が、政治の暴力を振り回して村を圧服し、村の執行部も又民主政治を無視して、村民の意志を抹殺したのである。
 民主政治の名のもとに行われている暴力政治に、已に(すでに)取られてしまった権現森に、断ち難い土地への愛着にひかれて、今日も尚秋風に吹かれ乍ら座り込みを続けている内灘村のかあか達の姿こそ、政治の暴力化に対する声なき民の強い抵抗である。

結び
 「生きる」ことが人間社会の一番最初の願いである。内灘の場合は、この「生きる」方法をめぐって、二つの立場が対立したという風に考えられぬこともない。そうしていずれの立場が真に正しいかという問題に決着する。
 漁業面に存在する封建的な機構、村内婚や盲目(ママ)的な宗教信仰などの生活改善、教育の問題、進歩的な因子を含まない村民間の政党争い、部落間の対立意識等々、一つ一つほぐして行かなければ存在さえ自覚されない様々な問題が村の内部に根強くからみついている。そして、それらの改められねばならない問題には経済という強い糸がしっかりと張りめぐらされている。内灘村には、今新しい村造りに目覚めた、若い人達が、新しい世界を求めて力強い台頭を始めている。内灘接収が落とした芽である。

付記
 内灘闘争のために、おびただしい激励文や金品を贈って下さった全国の平和を愛し、日本を愛する進歩的な労働者や文化人の皆様に、この紙面を借りて厚くお礼を申し上げます。又この機会を与えて下さった『世界』編集部に併せて厚意に深謝いたします。

                  【『内灘から三里塚へ―出島権二さんの意思をひきつぐために』(1989年)より孫引き】
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