『民事訴訟の本質と諸相』(瀬木比呂志著2013年6月発行)を読む
瀬木比呂志さんは下記のように書いている(227ページ)。
大阪国際空港夜間飛行差し止め等請求事件判決(1981年)については、私自身、苦い思い出がある。沖縄で、嘉手納基地騒音公害訴訟判決(1994年)を書いた際、私たちの若い合議体は、民間空港と米軍基地という事案の相違があるため、その事件では最高裁大阪空港判決に沿うのではなく、せめて、重大な健康被害が生じた場合には差し止めも認められるという一般論を立てて、判例に小さな穴を開けたいと考えていた。
しかし、判決の下書きができた段階で、国に対する米軍基地の騒音差し止め請求を主張自体失当として棄却する最高裁判決(1993年)が出たために、それに従って、理論面では判決の心臓部にあたるものとも言えた前記の判断を捨ててしまったのである。
その当時は、私も、まだ、疑問は抱きつつも、最高裁判決には従うべきものと考えていた。正直に言えば、最新の最高裁判決と真正面から抵触する判決を出すことに対する不安やためらいがあったことも否定できない。
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瀬木さんは、嘉手納基地爆音訴訟判決で、重大な健康被害が生じた場合には差し止めも認められるという「心臓部分」を捨て、「判例に小さな穴を開ける」ことを断念したが、その他の請求については画期的な判決でも出したのではないかと誤解されそうである。だが、その判決について、当時の弁護団事務局長の松井忠義さんのレポートが真実を明らかにしている。
(「やかまし別冊」(小松基地爆音訴訟原告団 2000年発行)より孫引き)
松井忠義さん
1994年2月24日に言い渡された1審判決は、夜間・早朝飛行などの差し止め請求は棄却(引用者注:支配の及ばない米軍の行為を差し止めできない)、過去の損害賠償請求はWECPNL80以上の地域に居住する原告について1部容認、将来の損害賠償請求は却下、という内容であった。
また、損害賠償はWECPNL95以上の地域を除き、本土の各基地訴訟(引用者注:小松基地騒音訴訟判決は1991年)と比較するといずれも低い額にとどまり、防音工事による減額のほか、沖縄の本土復帰時以降に損害賠償対象地域に転入した原告に対しては、「危険への接近」を理由に15%の減額がおこなわれた。
さらに、1審判決は、不当にも爆音と原告らの健康被害(ないしは、健康被害が生じる危険性)との間の法的な因果関係を否定するに至った。(「沖縄米軍基地公害・環境破壊調査報告書」)
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何のことはない。危険への接近を認めて減額し、健康被害を認めもしなかったのに、今ごろになって「実は……」というところがうさんくさいのである。
先ほどの文章に続いて、瀬木さんは「私がそのような考え方をはっきりと改めたのは、『民事訴訟実務と制度の焦点』(2006年)執筆の時点であった」と書いているが、その後、2012年に退職するまでに「最高裁におもねらない判決」を出しているのだろうか、気になるところである。
瀬木さんの同期には、「主文、志賀原発2号機を運転してはならない」(2006年金沢地裁)と判示した井戸謙一さんがいる。もしも、瀬木さんが嘉手納基地爆音訴訟判決をミスジャッジだったと心底から反省しているなら、大飯原発差し止め訴訟を取り組んでいる井戸さんのように、新嘉手納基地爆音訴訟を天命として取り組んでは如何だろう。
象牙の塔に安住の地を見つけた瀬木さんにとっては、「良心」を満たすことができなかったことが気がかりなだけで、ミスジャッジが多くの嘉手納基地周辺住民に苦痛を与えていることには無関心なのだろうか。
瀬木比呂志さんは下記のように書いている(227ページ)。
大阪国際空港夜間飛行差し止め等請求事件判決(1981年)については、私自身、苦い思い出がある。沖縄で、嘉手納基地騒音公害訴訟判決(1994年)を書いた際、私たちの若い合議体は、民間空港と米軍基地という事案の相違があるため、その事件では最高裁大阪空港判決に沿うのではなく、せめて、重大な健康被害が生じた場合には差し止めも認められるという一般論を立てて、判例に小さな穴を開けたいと考えていた。
しかし、判決の下書きができた段階で、国に対する米軍基地の騒音差し止め請求を主張自体失当として棄却する最高裁判決(1993年)が出たために、それに従って、理論面では判決の心臓部にあたるものとも言えた前記の判断を捨ててしまったのである。
その当時は、私も、まだ、疑問は抱きつつも、最高裁判決には従うべきものと考えていた。正直に言えば、最新の最高裁判決と真正面から抵触する判決を出すことに対する不安やためらいがあったことも否定できない。
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瀬木さんは、嘉手納基地爆音訴訟判決で、重大な健康被害が生じた場合には差し止めも認められるという「心臓部分」を捨て、「判例に小さな穴を開ける」ことを断念したが、その他の請求については画期的な判決でも出したのではないかと誤解されそうである。だが、その判決について、当時の弁護団事務局長の松井忠義さんのレポートが真実を明らかにしている。
(「やかまし別冊」(小松基地爆音訴訟原告団 2000年発行)より孫引き)
松井忠義さん
1994年2月24日に言い渡された1審判決は、夜間・早朝飛行などの差し止め請求は棄却(引用者注:支配の及ばない米軍の行為を差し止めできない)、過去の損害賠償請求はWECPNL80以上の地域に居住する原告について1部容認、将来の損害賠償請求は却下、という内容であった。
また、損害賠償はWECPNL95以上の地域を除き、本土の各基地訴訟(引用者注:小松基地騒音訴訟判決は1991年)と比較するといずれも低い額にとどまり、防音工事による減額のほか、沖縄の本土復帰時以降に損害賠償対象地域に転入した原告に対しては、「危険への接近」を理由に15%の減額がおこなわれた。
さらに、1審判決は、不当にも爆音と原告らの健康被害(ないしは、健康被害が生じる危険性)との間の法的な因果関係を否定するに至った。(「沖縄米軍基地公害・環境破壊調査報告書」)
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何のことはない。危険への接近を認めて減額し、健康被害を認めもしなかったのに、今ごろになって「実は……」というところがうさんくさいのである。
先ほどの文章に続いて、瀬木さんは「私がそのような考え方をはっきりと改めたのは、『民事訴訟実務と制度の焦点』(2006年)執筆の時点であった」と書いているが、その後、2012年に退職するまでに「最高裁におもねらない判決」を出しているのだろうか、気になるところである。
瀬木さんの同期には、「主文、志賀原発2号機を運転してはならない」(2006年金沢地裁)と判示した井戸謙一さんがいる。もしも、瀬木さんが嘉手納基地爆音訴訟判決をミスジャッジだったと心底から反省しているなら、大飯原発差し止め訴訟を取り組んでいる井戸さんのように、新嘉手納基地爆音訴訟を天命として取り組んでは如何だろう。
象牙の塔に安住の地を見つけた瀬木さんにとっては、「良心」を満たすことができなかったことが気がかりなだけで、ミスジャッジが多くの嘉手納基地周辺住民に苦痛を与えていることには無関心なのだろうか。