フィヨルドの変人 ~Odd person in fjord~

ぇいらっしゃ~い!!!

自然とはそもそも何なのか?

2019年02月17日 22時21分01秒 | 日記
ぬたりにとっての城跡巡りの白眉は、やはり大規模な遺構と言うことになろうが、そもそも大規模な遺構の残っている城の絶対数は少ない。そこそこの遺構の残る城跡は城址公園として整備されたり遊歩道が整備されたりすることも多く訪れやすくなるために、ぬたりは概ね県内のこういう整備されてる城跡は行き尽くしてしまったりする訳ね。
と言うわけで、昨今再開した城跡巡りは、あくまでも過去そこにあった、と言うだけの場所を訪れることに終始している感はある。案内や石碑なんかもほとんどないとこばかり。もはや完全に遺構が見られないところも数多い。
そういうのでも行こうと思えば数だけは沢山あるわけで、ぬたりが今住む自宅から徒歩圏内にも複数中世城館跡は複数存在する。手元の資料をあたるだけでも遺構が全くないというのは分かり、近くに住んでない限りは見向きもしなかったであろう中世城館跡なわけだが、先日一応散歩がてら一通り巡ってみた。まあ、もちろん遺構は皆無だったわけだが。
文章内の言葉で、最初「城跡」と言っていたものが途中から「中世城館跡」に変わったことについてここで説明すれば、戦の際に立て籠ったり敵を牽制したりする中世城館が「城」や「砦」と言われることが多い(根小屋なんて言い方もあるね)のに対し、平地で日頃の生活に即した城館は「館」や「屋敷」と言われるので、平地部だと「城」跡は案外少ないからこういう言い方になるのね。先日の散歩も6カ所ほど巡ったが、「城」と呼ばれるのは1カ所だけ。
ただ、遺構は皆無だったとは申せ、平野部の中世城館は今でも町並みに生き残っていたりするのは面白いと言えば面白い。これらの館が使われていたのは400年も前ながら、今でも敷地の境界が当時の境界をなぞる形で存在している事は多々ある。この日の散歩で、かつて館の外輪をなしていた土塁部分に、まんま畑の土手が存在していたりしましたからね。もちろん当時の土塁の跡ではないのだが、当時の境目が今の畑の境目になってるわけだ。
他にも、例えばぬたりんちから一番近い城跡(引っ越してきてそれほど経たずにすでに散歩済み)だと、かつての堀切がまんま住宅街の道になっていたりもする。いや、通るたびになんで妙にクランク状になってるんだこの道? と思っていたんだが、調べてみたらそこがまんま中世の城の堀の跡だったりしたわけでね。こういう何気ない日常の風景にも歴史ってのはあるもんですね。
・・・とまあ、なんかブラタモリみたいになったところで、今日の話はと言えば、この日の唯一の城を名乗る跡地にとにかくまあ、そういう跡を示すものが何もなかったってことでね。数十年前は道の取り回しあたりには名残があったりもしたようなのだが、今はそれすらもなかった。
原因は宅地造成ではなく、実は農地改良。まあ、何度も言うが、別に特異的な城でもなければ歴史に名を残す城でもないので遺構破壊自体はやむを得ない。それを言いたいわけではなくて、農業は何となく自然に優しい、なんてイメージあるけども、実はそうでもないよ、ってことでな。これは小規模な農家をしていたうちの両親が常に言ってた。
田畑を作るためには山野を切り開くわけで、それ自体が自然破壊だし、昨今は効率を重視して大規模に山を崩し沼地を埋め川の流れを変えて平地に均す。ある程度の規模の農村地帯なら、実は昔の風景は大規模に変えられてしまっている。他にも一見自然の山野に見える山に風景にしても、その多くが人工的に植林が行われた杉の林であり、自然な形の雑木林なんて案外少なかったりもする。
事の善悪を言いたいわけではないよ。我々はごはんを食べなければ生きていけないんだから、度が過ぎなければこれらの行為はやむを得ない。ただ、農業関係者や林業関係者が自然保護の担い手で都市部の人は消費するだけ、みたいな感覚にはついていかない方が良いよ、と言うのがうちの両親の言いたかったことなのよね。農地の大規模改良は何も言われなくて、工場ができるとなると地域の農家が「自分たちが守っている自然環境が云々」と言って反対するのは少しだけ筋が違うよ、ということでな。

こういう感覚は案外大事にしなきゃいけないと思いますけどね。
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