松美の言絵(いえ)

私は誤解されるのが好きだ。言い訳する手間が省けるから。

和時計をいじっていて気がついた春分の意味

2013-03-30 08:04:11 | 日記・エッセイ・コラム

春彼岸が過ぎて1週間もなるわけだが、この間何をしていたかと言うと

何もしていなかった。ただ春の甲子園を見て、だだっ広いストライクゾーンや

きびすいハーフスィングを見て高校生は大変だなあと考えていた。

甲子園のホームベースはプロ野球の2倍大きいらしい。間口にして2倍、だから

ベース自体は4倍の面積のものを使っているらしい。外角はボール2個半広かった。

あれだけ広いと大げさに言ってキャッチャーが捕れる球は全部ストライーク!と

コールされる。それとピクッと動いただけで大げさなジェスチャーでスイングを

取られる悲しさ。高校生は大変だ。あれで運命が決まるんだから。アンパイヤーの

役目はそれだけじゃない。試合の演出も担当している。ドラマを作っているのは高校生

じゃない。それは主審の役目だ。ドラマチックな野球は主審のおかげだ。

相変わらず和時計と遊んでいる。江戸時代の時計職人も毎日大変だったんだ

と分かる。何しろ24節気に合わせたかと思うと次の節気が来る訳だから。そうして

長くなる昼と格闘しているとハタと気がついた。春分ってことは昼と夜の長さが同じ

ということ。てことは唯一、和時計と西洋時計が一致する日、という意味だ。つまり

夜の6時の暗くなる時間に酉の刻六つに合わせると、朝の6時の明るくなる時間に

卯の刻六つに6回鐘が鳴って昼天符に切り替わるのだ。実際はそれが難しい。

まだ24分の誤差がある。しかしヨーロッパの大航海時代にどうやって時計を

合わせていたのだろう。電波で知らせる標準時計がない時代に何を基準にしていた

のか。おそらく天体観測だろう。望遠鏡のない人は太陽が南中する時刻に12時を

合わせていたに違いない。考えてみれば難儀なこった。やはり生活に合った古来

日本の報時制度は賢かった。これは驚くべき歴史を持っている。芭蕉と共に旅行した

曾良が日記を書いている。例えば宿を8時(辰中刻)に立って山寺に15時(未下刻)に

着いたとある。もちろん懐中時計なんか持っていなかった。日本全国至る所にあった

お寺の鐘の音で時刻を知ったのです。この頃、鐘に使われた銅は阿仁の鉱山を筆頭

にオランダに輸出するほど採れていました。日本の銅が世界経済に影響を与えるほど

の量だったそうです。

芭蕉で驚いてはいけません。平安末期、1100年頃「中右記」という日記があります。

これも曾良に負けず劣らず時間の記述が正確です。そもそも和時計に象徴される

不定時法は天智天皇が西暦671年に漏刻(水時計)によって測定した時刻を鐘や

太鼓によって知らしめたのが始まりだそうです。そのお役所が陰陽寮ですね。

去年の今頃を回想しています。卒業するために大変なプレッシャーと闘っていました。

ようやく1年が過ぎました。今考えても、36年続けた会計の仕事をまたやるなんてゾッと

します。ようやく仕事の夢を見なくなったんだから。貧しくても無職の年金生活を選んで

良かった、と思っています。

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