日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

石田東四郎・・・

2011-08-12 17:39:15 | Weblog
 昨日(12日)の夜のタケシの民放テレビでの「石田東四郎」さんの話、初めて知りました。「日本兵と中国人家族の56年」「知られざる奇跡の愛とキズナ」との内容で、とても心を打たれました。
 自分の味方が日本人に殺されたのに、その日本の兵を、それも、時期が終戦直後で周りの対応が大変な時期に、それに、金銭面でも、更には、その日本兵自身が記憶喪失になっているのに・・・。(・・・←信じられないって感じの内容でした・・・)。
 そんな中で、ある中国人のバンジュンさんが、(自分も赤ん坊の時、血のつながらない父母に救ってもらったと言う体験があってか)その日本兵を救う。何と、家族の一人として56年間も一緒に過ごしたのである。(・・・←エッ56年間!)
 救ったバンジュンさんの奥さんは、初め、強く反対する。又、子ども(長男ボジェ)が大きくなっていい名門高校に入学出来るはずだったのに、日本人をかくまっていると言う家族構成で落第させられる。中国兵から、いじめに会う。いろんな苦労を経る。
 そんな中で、バンジュンさん、「命の尊さは日本人も中国人も同じ」と言う信条で、同居生活を続ける。しかし、バンジュンさん、持病の病気で先に亡くなってしまう。その時、「彼を日本の家族に必ず帰してあげる様に・・・」と言い残して。
 この日本兵、記憶喪失で、どこの部署に属していたのかだけでなく、日本のどこに住んでいたのか、更には、名前さえも思い出せない。バンジュンさんの苦労は続く。
 時代の変遷で、田中角栄の時に、「日中平和友好条約」が結ばれたりして、日本と中国が親密になり、その結果、家族の元に無事に帰れることになる。
 ボジェさん、無事に家族の元にやれてホッとしたのか、その4年後に亡くなってしまう。
 日本兵、本名石田東四郎さん、障害を持ちながらも、100歳近くまでも生きられたのである。
 イヤー、スゴイ内容でした。
 
http://www.fujitv.co.jp/unb/contents/527/p527_1.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%94%B0%E6%9D%B1%E5%9B%9B%E9%83%8E
 

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主治医の悩み・・・

2011-08-12 11:15:30 | Weblog
 明日(13日)から休みなのだが、自分が主治医で、入院させている3歳の男児がいる。
 肺炎で、まだ、治り切っていない。熱が長く続き(5日間)、レントゲンで左前に肺炎像がはっきりとあった・・・→幸いに、入院して直ぐに解熱し、顔色も良くなり、良く眠れる様になり、食欲も出てきたのだが、まだ、聴診上、左の肺の空気の入りが悪く、バリバリの音がしている(親にも、その音を聴かせている・・・)。親も不安そう。で、付き添いの祖母から言われました・・・→
 「先生がいつも診てくれるので、ここの人たち、とても助かっています。先生が明日からいなくなので、不安です・・・」と。(申し訳ありません、常勤医の小児科医に、申し送りをしっかりとして行きますので・・・)
 私の場合、今は、非常勤医師(今年は、3カ月の長期の休みをもらって、今年は、約70日と約20日の2つに分けてもらえた)なので、時間外中心に診療している。平日は、17時~と19時半~に、集めて診ている(もう、6年間もそれを続けている)。それと、土日祝は、10時~と17時~と19時半~に(年末年始もゴールデンウィークも)。時間外に診て入院となると、自分が主治医になる。月に1回、平日の連続5日間、休みをもらっている。
 タイミング良く、休みに入る前に、入院患者さんを受け持たなくなることが多いのだが、時々、それが出来ないこととなり、患者さんに申し訳なく思っている。
 19床を持って佐伯で開業していた時は、代診は、全くなかった(と言うより、宮崎も大分も、地理的にちょうどその間にある佐伯へは)大学もスタッフを送れなかった。何処に行ける訳でもなく、黙々と仕事をしていた(と同時に、この時、趣味人間に変身してしまった感じだが・・・?!)。
 主治医って、それなりに大変なのです。
 昭和51年6月1日~昭和52年9月30日まで、宮崎県立宮崎病院で、169名の主治医になっている。
 昭和52年10月1日~昭和53年3月31日まで、宮崎医科大学小児科で、135名の主治医になっている。
 昭和55年4月1日~平成2年11月10日まで、西田病院小児科で、9.262名の主治医になっている(しかし、もっと忙しかった新生児の数は、これには、入っていない)。
 佐伯での昭和55年4月1日~平成11年5月31日までの(19カ年間&2カ月)で、統計を執らなかった(時間外診療をしなかった)日は、「たはら小児科医院」の開院式のあった平成2年11月11日(日)のみで、後は、毎日、時間外の統計を執り、自分の救急ノートに、その詳細を自分なりに記載してきた(日記を付けてる感じで)。
 時間外の数73.286名、その内、22:00~6:00までの数4.813名、(新生児を除く)入院患児数18.977名、その内、時間外入院数6.895名、時間外入院の内の深夜(22:00~6:00)の入院数1.378名・・・←家内からいつも言われていました・・・→統計を執る為に救急医療をしている・・・?!
 佐伯で、同じ職場で仕事をしていたナースの人にバッタリ会った時に言われました・・・→「先生、まだ、毎日統計執っているんですか?」と。
 しかし、今は、毎日統計を執ること、してません(・・・→今は、病院が時間外の全科の統計を執っていますが・・・)。
 当院の平成23年7月15日~8月11日までの全科の時間外数485名(内科178名、小児科168名)。
 小児科は、15歳を過ぎると、小児科でないので、内科にバトンタッチをすることになるが、自分が主治医だった患者さんのこと、その後も、気にしている。何故か、上手く救命出来たケースは、殆ど記憶になくて、後遺症が残ったケースや、親御さんとのトラブルがあったケースばかりが脳裏にしっかりと刻まれている感じになっているけど・・・。
*13日の郷里に帰る日、気になっていた3歳の男児、8月8日のマイコプラズマIgMは陰性であったが、8月13日早朝の検査では、陽性(!)で、8月13日の早朝の診察では、機嫌も顔付きも食欲も睡眠も良好なので、(左肺の打聴診の所見はまだ異常だが)退院とした。親御さん大喜び。私も、病名が付いて、ホッとした(目出度し目出度し!)。

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