日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

地域での私なりの音楽活動・・・

2011-08-08 11:47:11 | Weblog
 別に、私は、「音楽療法士」の資格を持っている訳ではない。自分が好きで楽器を演奏しているだけだが、それで、聞いて頂いた人に元気になって頂ければ、こんな嬉しいことはない。
 日本人のDNAには、そのどこかに、笛や太鼓の音色を親しむ感性がまだしっかりとあると思っている。
 タイのチェンマイのサンデーマーケットで、ゆっくりとしたテンポでの「荒城の月」や「悲しい酒」を篠笛で演奏しても、全くと言っていいほど受けなかった。不思議に思っていたが・・・→そこに住んでいる年配のある日本人からその時、言われました・・・「横笛でのゆっくりとした感じ、外国人には、その良さは、分からんね・・・」と。
 湿度の高い、四季の温度の変化の激しい日本では、テンポの速い明るい曲よりも、ゆっくりとしたもの悲しい感じの曲の方が受けるのかなあ・・・?!(今の日本の若い人には、このことは、当てはまらないだろうが・・・)
 確かに、私の演奏曲は、「荒城の月」とか「月の沙漠」とか「悲しい酒」とか「青葉の笛」と、もの悲しい曲が多いのだが、それで、老人施設で生活を余儀なくされている人の顔、演奏前と演奏後では、その多くが、はっきりと違っている。明るくなり、笑顔になり、体がより動いている。
 数日前のテレビの放映で、「Mr.マリック」さんが、アフリカの「ウガンダ」で、スケールの大きな手品をしていた。で、それを見て感激した現地の人が、「今まで、生きてきて良かった、こんな素晴らしいことが生きている内に経験できる何て・・・」って感じで言われていた。
 自分もそんな感じで、演奏できたらどんなにいいだろうか・・・。
 上天草総合病院に隣接する老人施設の「きららの里」では、この6年間で、もう、何度も演奏してきているけど、他では、まだ、あまりしていない。
 平成22年9月15日、上天草市の「和光園」
 平成22年10月29日、天草市の「さわやかランド」
 平成23年2月14日、天草市の「天草クリニック」
 平成23年2月18日、天草市の「ケアハウスかんな」
 平成23年3月7日、上天草市の「和光園」
 平成23年3月8日、上天草市の「きららの里」
 平成23年8月3日、上天草市の「相生荘」
 平成23年8月4日、上天草市の「きららの里」*
 平成23年8月9日、天草市の「天草厚生病院」
 平成23年8月10日、天草市の「麗洋苑」
 平成23年9月6日、天草市の「愛愛園」
 平成23年9月14日、天草市の「本渡ケア・ホーム」
 平成23年9月15日、天草市の「さわやかランド」
 平成23年10月26日、上天草市の「ほんごう苑」
*(夏祭りのオープニングで、それ以外は、独り演奏)
 今から、積極的に、演奏活動をしようと思っています。
*写真は、平成23年8月3日の「相生荘」でのもの。 
http://ongaku.hirakukokoro.net/(・・・←音楽療法士についての説明)
http://www.daisakukawahara.net/(・・・音楽療法について) 

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原爆の悲劇を繰り返すこと勿れ(3/5)

2011-08-08 08:58:18 | Weblog
 その夕方、隊事務室より、市内は被爆者の救助と遺体処理で大混乱の為、軍事行動に入るとの情報が私の耳に入っ来た。陸軍兵器学校第4期生として、一緒に卒業して任官した同期の約3分の2が、既に戦死していることを耳にした。卒業前に南方方面配慮を強く希望していたのであったが、「近本は教育指導に残れ!」との上からの命令により、広島船舶司令部教育隊に配属させられてしまい、南方方面に配属される同期が、非常に羨ましかった。
 ところがである。東南アジア方面や東南アジア方面に着任した同期は、大混成団体部隊の中で、大部分が20歳そこそこで伍長として加わっていた。その大船団は、昭和19年11月15日、輸送船八隻、護衛艦四隻をもって門司港を一路南方へと出向したのであるが、済州島沖にて、敵潜水艦にて殆どが撃沈されてしまった。
 「潔く梢離れて散る桜」 このまま、ベッドで死にたくない、軍人として死ぬのであれば、軍事行動中に死にたい。私は中野隊長殿に申し出た、「絶対に参加させて下さい!」「近本、そんな負傷で大丈夫か?」「ハイ、大丈夫であります。絶対に行動に参加させて下さい。」
 翌9日、頭の負傷をものともせず、朝6時に兵60名を引率して再び市内に突入する。担当の場所は、寺町である。物凄い死臭の中を通って紙屋町に行き、西練兵傷右に見ながら産業奨励館を左に見る。行軍途中で見る左右の惨状、何たる悲惨さか。あの爆弾一発でこの様な惨事に、唖然としてものも言えない。 木造の家は1軒もない。焼け爛れて夢遊病者の様に、茫然と立っている人、座り込んでいる人、横になっている人、そして、死んでいる人。
 「兵隊さん、助けて下さい!」 行軍中に何回も聞く。直ぐにでも助けてあげたい気は山々であるが、軍の命令で、寺町に一刻も早く到達せねばならない。「後で直ぐに参りますから、待っていて下さい。」それしか言えない。やっと寺町に到着。
 まだ生きている被爆者の殆どの方は、真っ先に水を求めるけれども、水を飲ませたら直ぐに死んでしまうから、絶対に飲ませてはいけないとの軍令であった。私の水筒には水が入っている。しかし、心を鬼とせねばならない。「私の気持ちを察して下さい。」
 大きなお寺の焼け跡があちこちにあり、お墓が沢山有る。だが、殆どの石塔は横倒しになっており、その間には、被爆者の死体で一杯である。何たる有様か!生存者が運んでくるのであろうか、自分の死に場所をこのお墓に求めに来たのであろうか、この多勢の被爆者の死体には、驚いてしまった。
 この死体の中を、口鼻にタオルを当てて、自分の身内を、親戚を、又、知人を探し回っている人達があちこちに見える。死体の中には、目・口・鼻から白い虫が見えているものが多い。
 一刻も早くと焦る感じで、軍令による火葬の行動に入る。近辺より柱・板切れ、燃える物は何でも集め、その上に死体をどんどん並べる。その上に燃え易い木切れを量ね、又その上に持参した石油を振り掛ける。被爆者の皆さん、静かに眠ってくれ。
 くそったれ、一番悪いのは戦争であり、新型爆弾一発である。再び人間として生あれば、絶対に敵の国と作って戦争をしてはいけない。そして、この恐ろしき新型爆弾を使用してはいけない。
 火葬の火は、轟々(ごうごう)と燃え盛り、死体の皆様は、じりじりと焼けて行く。しかも鰯(いわし)を焼き炙(あぶ)る臭いがぷんぷんと鼻をつく。夕食は、握り飯に沢庵と水だけである。死体を焼く前で食事をするのもなかなかである。水で流し込むだけである。夕日は沈み、電灯一つない真っ暗な夜に入る。私達が火葬をしている火は、どんどん燃え続く。真っ暗な周辺を見ると、あちことと真っ赤な火が燃えている。遥か彼方にも、燃えている。何百何千の被爆者の死体が焼かれ、火葬にされている。
 ふと見て驚いた。私達が火葬をしている火に向かって、さながら幽霊でも集まって来る様子で、水を求めて重傷の被害者が来た。今にも死にそうで、非常に弱っていて、衣類もボロボロになっている。この様子を見て、私は止む得ず、軍令を破ったのである。水を飲ませ、余った食事を与えた。昼間の疲れが襲ってきて、防空壕の中で睡眠を取ることにしたが、その被爆者の方達は、誰一人として立ち去ろうとしない。私達兵隊の側から離れようともしない。それで、一緒に、防空壕の中で寝ることにした。
 「私達は、兵隊さんの所に来たので安心しました。ひょっとして死んだら、あの様に火葬にされるのでしょうか?」 ハッとして、私はどう返事をしていいのかわからない。
 「大丈夫ですよ、日本は絶対に負けません!いつ戦死してもいいです。勝つ為に、自分達軍人は、国の為皆さんの為に一生懸命に、死ぬまで軍務に尽くします。」この返事しかなかった。被爆者の方達、疲れ切っている部下達、いつの間にか深い眠りに入る。


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