日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

動きが止まった・・・?!

2011-08-10 17:55:11 | Weblog
 8月10日(水)、有明町にある特別養護老人ホーム「麗洋苑」に行った。13:05に出発して13:40に着いた。細い路地を通って山の中を行った・・・→中に入ると、部屋の間取りが明るくて、活気に満ちていて、大きな施設で驚いた。多くの人が、機敏に動いていて、大広間には、立派なステージがあった。中学生も、数人いた。
 ステージの前に既にイスが並べられていて、ステージの上で用意をしている時、車イスの人などが、次から次へと集まって来た。14:00に一応用意が終わった時点で、既に8割以上の席が埋まっていたので、(待っているのも退屈だろうと思って)本番で演奏しない曲を中心に、篠笛で軽く演奏を始めた。
 1人、ステージの横を走り回る70歳前後(?)の女性がいて、職員の人が追っ駆けていた。しばらく、その追い駆けっこが続いていて、どうなるのかなあと少し心配していた。「黒田節」や「花嫁人形」や「枯れすすき」や「宵待ち草」や「島原の子守唄」や「赤い靴」などを吹いた。太鼓もちょっと打ち、ハーモニカも、ちょっと吹いた。
 14:20から50分間と言われていたので、14:20になってから、本格的に始めた。
 1:篠笛→「さくらさくら」を3通りの方法で演奏。「悲しい酒」などの古賀政男メドレー4曲演奏。「佐伯小唄」を演奏。2:盆踊り太鼓→「ばんば踊り」と「河内おとこ節」と「きよしのズンドコ節」を演奏。3:ハーモニカ→「ふるさと」や「仰げば尊し」など、数曲を演奏。4:篠笛→「月の沙漠」と「青葉の笛」を演奏。テープに入れたピアノでの「荒城の月」と共演。5:和太鼓→持ち曲「飛翔」3部構成をバチを3回換えて、15:10まで演奏。
 さっきまで走り回っていた人は何処に?・・・→正にその人が、ピタッと動きが止まっていて、大人しく最後まで同じイスに座って聞いくれていたのだ・・・これには、ビックリ!(・・・←和楽器は、確かに、鎮静作用があるなあ・・・?!)
 演奏で、何か抜けているなと思っていたら、「一本締め」をするのを忘れていた(盆踊り太鼓を打つ前に、皆の前で、タスキを掛けるが、これをよく忘れたり、最後の太鼓演奏の時に、そのタスキを外すのだが、それも忘れることあり)。自分の場合、1時間がセットになっているので、10分削ると、少し調子が狂う感じになるみたいだ・・・?
 マイクを全く使わなかった。音響がとても良かった。篠笛、全くの自然体で演奏出来、こんなに上手く演奏出来たこと、今まであったかなあ・・・。
 最後の「飛翔」の時には、シーンと静まりかえって、皆真剣に聴いていたみたい・・・終わってもそこからなかなか立ち去ろうしない人が多かった・・・。
 演奏を終えて道具を袋に仕舞い込んで直ぐにタクシーに乗って、16:00前に龍ケ岳町の自分の住むアパートに着いた。
 暑い中、8月での天草での自分の熱い演奏が無事に終わった。
 14日から、又、佐伯で、いつもの盆踊り太鼓だなあ・・・。9月には、恒例の「きららの里」での「夕涼みの会」(での篠笛演奏)、上天草市の大イベントの「五橋祭」(での太鼓打ち)があるなあ。
 

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原爆の悲劇を繰り返すこと勿れ(5/5)

2011-08-10 09:30:18 | Weblog
 7日間程残務整理をした後に、故郷である島根県江津市の父母の元に復員した。
 気になるのは、被爆を一緒にして行動を共にしてきた町田伍長である。無事に復員しているだろうか?手紙を出した。父親より返事が来た。
 「あなたは、無事に帰られて良かったですね、私の息子は帰って来ません。遺骨も帰りません。」
 「ガーン、・・・。」と頭に大きな石が落ちて来たショックである。あの時、私も死んでいれば、この様なご返事を頂くことはないだろう。余りにも、残念である。涙が出た。あの憎い一発の(原子)爆弾の野郎め。
 就職せねばと整理していると、私の手を握って死んで行った前田美代子さんの遺髪と、名札の張ってある封筒が出て来た。しまった、海田市から美代子さんのご両親の住所である三篠本町は、わずか三里ほどの距離である。何故、故郷に復員する時、途中で届けなかったのであろうか?我ながらぼけていて残念である。おそらく、ご両親の元には、美代子さんは、遺体で帰っていない。永久に帰らないであろう。せめてこの遺髪と本人の名札を届け、死の前のあの言葉、埋葬してある場所を教えねばと、早々速達にて郵便を出す。そして、4日後に、再び、広島に赴く。
 近所の浜田市発の国鉄急行バスにて、中国山脈を横横断して横川駅に着く。
 目指す美代子さんのご両親の住所である三篠本町1丁目は、1キロもないはず。少しは民家が残っているだろうと想像していたが、やはり一面の焼け野原であった。こんな所までこの様な惨状であるのか。一発の得体の知れない(原子)爆弾の野郎め、この辺までもなめ尽くしたのか・・・・と、ふと焼け跡整理中の方に尋ねた。
 「この辺と思いますが、前田義夫さんのご家族の方はいらっしゃいませんか?」
 「今、そこで焼き跡を片付けをしんさっている人が、前田さん夫婦と家族の方ですよ。」
 やっと尋ねて来た前田さんの家族の方は、眼前30メートル先にいらっしゃる。ああ、美代子さんの遺髪を届けに来て良かった。
 「前田さんですか?」
 「ハイ、そうですが・・・・」
 「前田さんのお父さんですか?」と言うと、途端に眼をまん丸と開いて、私の足下から頭の上まで、驚いて家族の方総立ちで唖然として見つめるばかり。
 「速達を下さった近本様ですか?」
 「ハイ、近本であります。」 
 軍隊用語が突然私の口から出た。私が上官をしていたので、だいぶ年上と思われていたのであろうか。私は、21歳である。まだ、未成年であろうと、頭をかしげて疑っている様子である。
 「近本様であんさるでしたら、私が住んでいる家まで来んさい。」と言われた。広島弁である。
 可部線の踏切りを渡って15メートルもあろうか、大木で囲まれた大きな古い家に連れていかれる。その家の中には、焼け出された数世帯の家族で一杯であった。10畳ぐらいの広い座敷に迎えられた。
  お互いに正座をし、おもむろに「美代子さんは、私の部屋で亡くなられ、遺骨として帰って来られませんので、せめてもの形見として、遺髪と胸に付けられておられた名札を持参致しました。」と言って、封筒の中よりそれを取り出して、お父さんに渡した。
 「美代子、帰って来たか!」 ワッと涙々である。
 美代子さんの生前の様子、亡くなる前の最後の言葉、遺体は似の島に送ったこと、私も負傷していたので、充分な手当が出来なかったことなどをお詫びした。
 「この名札は、美代子が胸に付けていたのに間違いはありません。美代子、よく近本様の胸に抱かれて帰って来てくれた。」「近本様、よくぞ美代子を連れて来られました。」
 「いいえ、私の当然のことをしただけです。」
 前田さんのご家族にお別れする時が来た。横川駅より長崎行きの汽車に乗った。
 広島よ、色々な出来事があった。生死のことがあった。私の一生涯、決して忘れることは出来ない。
 被爆でお亡くなりになられた方々、静かにお眠り下さい。

(ご愛読、ありがとうございました)

(この内容は、被爆者の方の御好意により頂きました。本人から浪人の時に大変お世話になり、又、何度も、当時のこと聞かされました。今は、残念なことに、故人となられていますが、故人の奥様とは、今も安否の連絡を取り合っています。被爆関係者の生の記録です。)

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