日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

花贈呈・・・?!

2011-08-09 18:57:45 | Weblog
 8月9日(火)、有明町にある「天草厚生病院」行った。タクシーで行ったのだが、龍ケ岳町からそこまで、時間がどのくらい掛かるのか分からなかった。取り敢えず、12:40に出発して、運転手さんもスピードアップして行ったら、13:20に着いた。ちょうど40分掛かった。道路が良くなっているせいか、思ったよりも早く着いた。
 笑顔が素晴らしい看護部長さんが直ぐに挨拶に来て、話をしていたら、直ぐに14時になってしまった。14:00~15:00まで、予定通り1時間演奏した。自然体で、気持ち良く、演奏出来たし、篠笛の音色も、良かった。いつもの調子で、その内容は・・・→
 1:篠笛→「さくらさくら」を3通りの方法で演奏。「悲しい酒」などの古賀政男メドレー4曲演奏。テープに入れた「荒城の月」を篠笛二重奏で演奏。「上を向いて歩こう」と「佐伯小唄」を演奏。2:盆踊り太鼓→「ばんば踊り」と「河内おとこ節」と「炭坑節」を演奏。3:ハーモニカ→「ふるさと」など数曲演奏。4:篠笛→「月の沙漠」と「青葉の笛」と「君が代」を演奏。テープに入れたピアノでの「荒城の月」と共演。5:拍子木→「一本締め」。6:和太鼓→持ち曲「飛翔」3部構成をバチを3回換えて演奏。
 こじんまりとした部屋で、マイクはちょっとした使わなかった。「さくらさくら」の後、古賀政男の「影を慕いて」を演奏している時、拍手があった。こんなこと、初めてだった。ここの人たち、とても感性豊かなのかな(?!)。歌ってとも催促しなかったのに、自然と皆が歌っている。
 演奏している前の離れた端で、独り我関せずって感じの80歳前後(?)の女性がいて、無関心って感じで黙々と手遊びしていたが、それが、こちらを真剣に見る様になって、最後には、(造花の)花をくれて、私と握手。それを見ていた周りの人がとても驚いて、大拍手となった・・・。「ホントは、お金を上げたいけどないので・・・」と言われて渡されたけど・・・。
 職員の人の話だと、この女性、普段はマイペースで、1時間もじっと座っていることだけでも、奇跡に近いって感じで言われたけど・・・。
 この病院、平成15年に建て替えて立派な病院になっていて、どの職員さん達も、ニコニコ顔で、とても感じが良かった。
 天草って、多くの人が思っている以上に広いって感じだ。初めて天草を訪れた旅人は、タクシーの運転手さんに、「ちょっと天草を回って・・・」何て言う人もいるそうだが、上天草市だけでも、少なくとも3時間、天草全体だと少なくとも7~8時間、掛かりますね・・・(・・・←それでも、サッと見るだけかな?!)。
 それにしても、いろんなサプライズがあるなあ。明日も、又、有明町で演奏あり。楽しみ。
 

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原爆の悲劇を繰り返すこと勿れ(4/5)

2011-08-09 08:39:58 | Weblog
 ふと部下から起こされた。もう夜は明けていた。朝の5時半である。直ぐに火葬場を見る。あの赤くて燃えていた火は消えて、白い煙が静かに立ち登っている。場所を替えて、次の火葬の準備を部下に命じる。
 まてよ、防空壕の中で一緒に寝ていた被爆者の方達の様子はどうなっているのだろうか?皆横になってまだ寝ている様である。中に様子がおかしい方がいる。さてはと、一人一人の肩を揺さ振ってみる。4人程、反応がない。瞼を開けて目の玉を見る。瞳孔は開き切り、4人共、死んでいる。これ以上死なせたくない。1人でも助けたい。
 直ちに救助隊に伝令を飛ばす。昨夜、お互いに話をしたばかりなのに、火葬をするのが4人、突然に増して来た。可哀相に、又、涙が出て来た。
 10時頃であったろう。本隊に至急に帰隊せよとの伝令が自分に来た。何の要件かわからない。とっさに、負傷している私を休ませようとして、中野隊長殿が気を使われたのであろうか?その事であれば、私はまだ頑張るつもりであるが、命令とあれば、致し方ない。
 浅川兵長に後のことを宜しく頼み、兎に角、伝令と一緒に本隊に帰隊して驚いた。「海田市にある特別隊に編入転属を命ず。」被爆する前から、船舶司令部の名簿の中に私の名前は載っていたのである。
 急いで海田市にある特別隊に赴任する。遂に来た、沖縄決戦の名誉ある特別攻撃隊員である。それも幹部員である。
 船舶司令部の特別な秘密兵器である艇体は、総ベニヤ製にて長さ約6メートル、エンジンは貨物自動車エンジン60馬力、速度15ノット、艇3分の1先は、爆薬がぎっしり詰まり、先端には大きな信管が付いていて、所謂人間爆弾艇で、敵艦船手前500メートルで舵を固定し、搭乗者は、艇外の海中に飛び出し、艇だけが敵艦隊に体当たりして爆発する仕組みになっているが、敵の発見が早ければ、艇もろともに撃沈する恐れが大いにある。
 翌日より、敵艦船に突っ込みする特訓が始まった。遂に念願の原爆被害者の仇を取ることが出来る。500メートル手前で艇外に脱出しても、帰還の望みは先ずない。敵艦船のど真ん中に艇諸共に突っ込めば、私一人で見事に撃沈させることが出来る。最早決死の覚悟は出来ていた。
 いつ出撃なのか待機中である。今、8月15日の午後である。隊本部が急にざわめき出した。待ちに待った出撃出発かと歯を噛みしめて両拳を握った。
 どうも様子が変である。隊員達も頭を傾ける中、隊長が悲愴な顔をして全隊員集合を命じた。
 「・・・・・・、全隊員の諸君、戦争は終わった。ご苦労さんでした。」
 日本が勝ったのか、休戦になったのか、・・・ああ、日本は負けたのである。
 全隊員泣いている。隊長も泣いている。
 国の為に一生懸命に勉強して、陸軍兵器学校に入学し、卒業し、船舶司令部に配属され、過去4年半軍務につき、今正に特攻隊員として出撃瞬前に、終戦となってしまった。
 残念無念である。


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