日本の心・さいき

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インフルエンザの歴史・・・

2011-02-13 14:06:04 | Weblog
  インフルエンザの歴史を調べてみると・・・

1、今は、A型に関しては、ソ連型と香港型が、ある年には、一つだけ、ある年には、両方が流行する感じになっているが・・・。
 長いインフルエンザの歴史の中では、ある時期までは、A型のあるタイプが流行すると、嘘の様に他の型は消えていた!
 1890年、H2N8の旧アジア風邪が流行した。
 1900年、H3N8の旧香港風邪が流行した。
 1918年、H1N1のスペイン風邪が流行した。(4000万人以上が死亡)
 1931年:ブタインフルエンザが発見
 1933年:A型インフルエンザウイルスが発見
 1940年:B型インフルエンザウイルスが発見
 1950年:C型インフルエンザウイルスが発見
 1947年、H1N1のイタリア風邪が流行した。
 1957年、H2N2のアジア風邪が流行した。(日本で100万人感染し、8000人死亡)
 1968年、H3N2の香港風邪が流行した。
 あるタイプが流行すると、その前のタイプは、嘘の様に、消えていた!
 ところが、1968年、H3N2の香港風邪が毎年続いているのに、1977年に、H1N1のソ連風邪が、香港風邪と共存する感じで、流行する様になってしまった。
 何故だろうか?(・・・←多くの人が、予防接種をする様になってから?!)
 2001年には、マスコミでは、大きく取り上げられなかったが、H1N2の小流行もあってはいるが・・・。
 今は、A型は、H3N2の香港型とH1N1のソ連型が、入れ替わり立ち替わり、共存している感じで、流行している(ある年には、一方だけで終わることもあるが・・・)。

2、インフルエンザの始まりは、(昔は検査がなかったので)小児科外来では、急に年齢層が上がることで気が付く。
 兎に角、インフルエンザが流行すると、同じ症状の人がどっと急に来院する。何せ、潜伏期が1~3日なので、直ぐに発症するから。
 流行すると、春休みに入るまで、多いのが続いていた。
 ・・・春休みに入って、小児科外来のインフルエンザの患者さんが少なくなると、「今年も、無事に体が壊れることなく、無事に時間が過ぎた、良かった・・・」何て思っていた。流行時期には、自分の勤めていた佐伯市の病院では、月曜などは、1日250人を何度も超えていた(それ以外に、新たな入院が一日3~5人程あり、かつ、新生児・未熟児医療のお産も、年間500件近くあり、フラフラ状態で、過労死寸前って感じだったが・・・→それで、やむなく、開業しましたが・・・)
 ところが、今は、インフルエンザの大流行が長引くことは少なく、嘘の様に急速に終息するケースが多い。大流行があっても、3月になる前に、既に終息していることも多い。
 更に新たなこととして、春休みが終わって、新学期になってB型が流行する現象が出ている。(・・・←予防接種をしているのに!)

3、インフルエンザの予防接種の改善も、かなり進んで来ている。当たる確率が多くなった。抗体値が4倍前後上がる様になった。基礎疾患を持っている人も、打てる様になった(より、積極的に)。
 それに、検査が出来、治療も1日で終わる吸入、注射薬まで、出来てしまったし、既に、使われている。

 しかし、毎年、しっかりと予防接種をしてきていても、手洗いやうがいやマスクを徹底的にしていても、インフルエンザには勝てない感じです。
 それは、何故・・・?!

http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20110130/2
http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20110211/1
http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20110213/2

以下は、インターネットから引用
 インフルエンザと人類の関わりは古く、古代エジプト時代にはすでにこの感染症が知られていたことが記録に残っている。古代ギリシャのヒッポクラテスの記録(紀元前5世紀)にも残っている。
 1878年のコッホによる炭疽菌の発見以降、さまざまな感染症についてその病原体が分離・発見されていったが、インフルエンザ病原体の発見は困難をきわめた。
 1889年-1900年:H2N2の流行
 1892年、北里柴三郎らがインフルエンザ患者の気道から病原体の候補となる細菌を分離し、Haemophillus influenzae(インフルエンザ菌)と名付けたが、コッホの原則に基づいた証明には至らなかった。当時はまだウイルス自体が認知されておらず、ディミトリ・イワノフスキーによってウイルスの存在が初めて報告されたのが、北里の発見と同じ1892年のことである。
 1900年-1918年:H3N8の流行
 1918年から1919年にかけて、スペインかぜ(病原体はH1N1亜型)の大流行が発生。人類は初めてインフルエンザの世界的大流行に遭遇した。このときの感染者数は6億人、死者は4000-5000万人にのぼる(当時の人口は20-30億人)と言われるが、候補となる細菌やウイルスが報告されたものの、マウスやウサギなどの一般的な実験動物で病気を再現することができなかったため、その病原体の証明には誰も成功しなかった。
 1933年、ワシントンで発生したインフルエンザの患者から分離されたウイルスを使って、フェレットの気道に感染させてヒトのインフルエンザとよく似た症状を再現できることが実験的に示された。この実験によって、インフルエンザの病原体がウイルスであることが明らかとなり、インフルエンザウイルス(後にA型インフルエンザウイルス)と名付けられた。後に、この当時の流行株に対する抗体が、スペインかぜのときに採取されていた患者血清から検出され、スペインかぜの病原体がこれと同じもの(H1N1亜型のA型インフルエンザウイルス)であることが明らかになった。
 1940年、インフルエンザ患者から従来とは抗原性が異なるウイルスが分離され、B型インフルエンザウイルスと名付けられた。
 1946年、鼻かぜ症状を呈した患者からA、B型と異なるウイルスが分離され、1950年に病原性が証明されてC型インフルエンザウイルスと名付けられた。
 1957年、アジアかぜが世界的大流行を起こす。それまで流行していたH1N1亜型とは異なり、H2N2亜型に属する新型ウイルスであることが明らかになった。同時にH1N1亜型のものは姿を消した。
 1968年、香港かぜの世界的大流行。H3N2亜型に属する新型ウイルスであった。同時にH2N2亜型のものは姿を消した。現在の季節性インフルエンザの原因の1つである。
 1977年、ソ連かぜが流行。これはスペインかぜと同じH1N1亜型に属するものであった。アジアかぜ以降姿を消していたH1N1型が再び出現した理由は明らかになっていない(一説には、アザラシなどヒト以外の生物が保存していたためとも言われている)。このときはH3N2亜型は姿を消すことなく、以後H1N1とH3N2が毎年流行を起こすようになっている。現在の季節性インフルエンザの主な原因である。
 1997年、香港でH5N1亜型という高病原性鳥インフルエンザウイルスが、トリからヒトに直接感染して死者が発生した。トリからヒトへの直接感染は起きないというそれまでの定説を覆すものであり、世界的大流行が危惧されたが、ヒトの間での伝染力が低かったため大流行には至らなかった。
 2001年、欧米や北アフリカ、中近東の数カ国でH1N2亜型に属するウイルスがヒトの間で流行していることが確認された。これはH1N1亜型のH1とH3N2亜型のN2を併せ持ったウイルスであった。2006年現在、流行は小規模にとどまり、H1N1やH3N2に取って代わるほどの勢いはない。
 2009年メキシコから新型インフルエンザの流行が始まった。H1N1型ではあるが、スペイン風邪やソ連風邪と異なる種類である。(ウイルスは米国内から入ったと言う説が有力である)


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続々・今年のインフルエンザA型・・・

2011-02-13 11:09:41 | Weblog
 私見ですが・・・

1、学校から登園許可証や登校許可証を書いて下さいと言われる。しかし、実際に書いている小児科医にとっては、かなりの矛盾を感じながらも、(当院では無料で)書いているのだが・・・。
・順番として、ちゃんと書くとなると(登園禁や登校禁がいつかまでとなると)、治癒した感じになって来院して、初めて書けると言うことになる。
 しかし、実際は、もう次に来てなくて、書かないといけないことが多い。中には、園や学校の方から、一方的に、「インフルエンザの検査してもらってきなさい!」何て言われて、来院している場合もある。
・診断書をちゃん書くとなると、お金が要る。普段、多くの人が、診察してもらって書いてもらっている診断書だ。だとしたら、それが無料や例え100円であっても、それで、ちゃんとした診断書になるのかどうか?
・更には、その責任である。ちゃんとした診断書でないのに、責任まで取らせられるとしたら、これは、少し問題になるかな?!
 例えば、インフルエンザに罹患して心筋炎になっていて、無理して、治り切っていないのに、運動して突然死となると、事は重大である。
・書く方としては、診断せずして、治癒証明書としては、書けない。
・インフルエンザの診断は、その検査をしても、何度しても(インフルエンザにしっかりと掛かっていても)陰性になることもあるし、又、経過には、個人差がある。

2、子どもの場合、二峰性と言って、2~3日熱があった後に、下がった感じになって、又、上がることがる。これを「二峰性の発熱」と言う。再び熱があった場合、(中耳炎などの)合併症の熱なのか、単なる二峰性の熱なのか、区別しないといけない。
 初めの熱が下がっても、48時間でなく、まる4~5日程、ゆっくりと休むことが医師の立場からはいいと思われるのだが、勉強の進み具合が気になる日本では、なかなか難しい様だ・・・?!

3、解熱後、48時間経てば、登園・登校可と考えている学校関係者は多い。しかし、特に、小児の場合は、その感染力は、その後もしばらく続くケースが多い。
 それを守らない為に、解熱後48時間後に登校して、クラス中にウイルスを撒き散らす感じになって、学級閉鎖となっているケースが多いと思われる。
 感染から逃れる確実な方法は、隔離である。その証拠として・・・→冬休みに入ったり、春休みに入ったりすると、患者数がガクッと減っている。

4、インフルエンザは、全身症状なので、その子の一番弱い所に症状が出易い。呼吸器の弱い子の場合、咳が長く続いたり、消化器の弱い子の場合、下痢が長く続いたりすることもある。けいれんが起きやすい子では、けいれん止めの座薬を用意しておくとか、呼吸器の弱い子の場合、部屋の湿度に絶えず注意しておくとか、消化器の弱い子の場合、食べ物に注意しておくなどの配慮が必要と思われる。

5、鼻水止めや咳止めは、与えるべきかどうか?
 いろんな考え方があると思うが・・・→私は、与えてない。鼻水や咳は、ウイルスを体から排除しようとの防衛反応と考えれば、抗ヒスタミン剤の鼻水止めとか、鎮咳剤は、むしろ、上げない方がいいのでは?!
 むしろ、鼻水を出しやすくしたり、痰を切る薬の方がいいと思っている。喘鳴があれば、気管支を広げる薬や吸入も、積極的にするべきだと思っている。(添付文書には、気管支喘息の発作の時は、ペリアクチンなどの抗ヒスタミン剤は、禁忌と書かれている!)

6、鼻水があっても、それが、単なるウイルスのせいで一過性かどうか、はっきりした方がいい。2週間も鼻水だ何てことになると、アレルギーを疑う。

7、咳が長く続いている場合は、原因を突き詰めるのは、結構、難しい。副鼻腔炎の事もある。小さい子だと、今の時期だと、RSウイルス、大きい子どもだとマイコプラズマ。家族に喫煙者のいる場合は、長いこと咳が止まりませんよ!換気扇の下でも、駄目です。外で吸っても、しばらく気道にあります。・・・←父親が喫煙習慣を止めなくて、難儀しているケース、多いですが・・・!

8、熱自体は、急患でない!「機嫌」「顔付」「食欲」「睡眠」の4つに注意して、それがどんどん悪くなれば、毎日でも、受診しないけない・・・と私は親御さんにいつも言っている。
 熱や嘔吐があっても、機嫌がまあまあ良ければ、慌てる必要はない。熱が無くて、顔色悪くて、元気ない方が心配。
 小さい子が、夜、急に高い熱が出た場合、心配なのは、けいれんと脱水。手足が冷たい時、熱が上がり切る前で、子どもにとってはきつい時。その後、手足が温かくなると、少し楽になるはず。葛根湯や麻黄湯や白虎加人参湯や(虚の子の場合)桂枝湯などがあれば、与える。

9、抗生剤は、与えるべきか?
 乳幼児の場合は、細菌感染のケースは、少ない。喉が赤くても、細菌感染のケースは、経験上、少ない。アデノウイルスの時は、喉がとても赤くなっている割に、機嫌がいい。アデノウイルスでは、口蓋扁桃に白苔が付いていることもある。インフルエンザの時は、乳幼児の咽頭所見は、さほど赤くないか、時に、殆ど正常に見えることもある。が、インフルエンザの場合は、アデノウイルスよりもきつがっていることが多い。
 溶連菌の場合は、アデノウイルスとの鑑別は難しいが、喉をとても痛がり、小学校入る前からの大きい子が多く、とてもきつそうにしている(疑えば、抗生剤を与える前に、検査をするべき)。
 ウイルスなのに、抗生物質を与えると(ウイルスには、抗生物質は、全く効かない!!)、いい腸内細菌まで死んで、免疫力が低下すると思っているのですが・・・。
 インフルエンザの時、早目に抗生物質を使った方が、中耳炎になり易いケースが多い様に思っている?!中耳炎になった場合も、抗生剤を長く使っている方が、却って長引いているケースも、経験している?!(もちろん、そうでない場合もあるが・・・・・・←日本では、耐性菌で苦しんでいるケースが諸外国よりも多い!)

10、気の力も大きい。特に、母親がイライラしていたり、ストレスを感じていたり、医療機関に不信感を持っていたりすると・・・→それが直接子どもに行って、免疫量が低下して、治りが遅くなるのでは・・・?!

http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20110211/1

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歴史観・・・

2011-02-13 11:00:20 | Weblog
 NHKの大河ドラマで、織田信長が、本能寺の変で亡くなってしまったが・・・。
 小さい時、父が私に、織田信長の家老の平手政秀(ひらてまさひで)の話をよくしていた。(私の名前が、同じ、まさひでと言うこともあってでしょうが・・・?!)
 平手政秀は、若い信長があまり無鉄砲なので、それを控える様に何度も言ったが聞き入れられず、最後は、そうしないなら私が切腹をしますとまで言って、切腹してしまった。信長は、そんな政秀の死を知って、深く悲しみ、そして、それまでの様に無鉄砲でなくなったとのこと。
 父は私に、決して平手政秀の様な人間になれとは言わなかったが・・。
 そんな織田信長のことで、ひょんなことから、次のエピソードを知った。
 日本に「黒人(モザンビーク出身)」が初めて来日したのは、織田信長の時代で、キリスト教宣教師が織田信長に差し出した時。織田信長は、ホントに黒いのかどうか疑って、タワシで皮膚をゴシゴシこすらせたとのこと。
 当時、黒人は、馬よりも安くで売られたいた。しかし、牛の様にとてもガッチリとしたその黒人を織田信長はとても気に入り、自分の家来として、ちゃんとした服を着せ、食事を与え、彼だけの部屋まで与えた。
 その黒人、初めて人間的に扱われたことにとてもとても感謝した。何せ、今と同じ、正職員として就職するのも非常に難しい戦国時代、しかも、日本中から注目されている織田信長の家来だからして。
 「本能寺の変」の時、主君の為に、最後まで(二条城で)とても勇敢に闘ったのが、この黒人だった。(この黒人、信長が弥助と名付け、その後、光秀に捕らえられたものの後に放免となっているが、その後の詳細は不明・・・)
 で、もっとスゴイ話がある。・・・→それが明智光秀の生き方だ。何と、・・・「1人背の高い黒い人間がいるが、それを殺す必要はない!彼は外国の人、関係ない人!」・・・何て感じで、明智光秀の家来に前もって言っていたのだ。
 歴史をどうとらえるか、同じ出来事でも、見方によって様々だと思う。それに、明らかな隠蔽工作があれば、真実とは、ほど遠いものになるだろう。
 昨年、実際に京都の「本能寺」に行った時、そこの館長さんが言われていた・・・「当時の事、実際の事は、誰にも解らないんですよ。残った秀吉が、都合のいい様に、書き残させていますから・・・」と。
 歴史観、人によって違うことが頷ける。
http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20101119/1
 

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