山上俊夫・日本と世界あちこち

大阪・日本・世界をきままに横断、食べもの・教育・文化・政治・歴史をふらふら渡りあるく・・・

イタリア映画「木靴の樹」を40年ぶりに再見

2018年07月30日 16時52分22秒 | Weblog
 今日、イタリア映画の傑作、エルマンノ・オルミ監督「木靴の樹」を見た。実に40年ぶりだ。1978年のカンヌ国際映画祭パルムドール賞はじめ各賞を総なめにした作品だ。19世紀末の北イタリアの地主制の下での農村の四季が映画の世界だ。片寄せ合って暮らす4家族の小作人たちの物語だ。
 農作業と日常生活、家族の機微が淡々と静かなタッチで描かれる。農作業風景では、19世紀の画家ミレーの「種まく人」や「落穂拾い」そのままの姿が登場する。トウモロコシの収穫では3分の2が地代だ。山積みした荷車が地主の館に終結する。祭りでは、アヒルの首を切ったり、豚の解体と子どもたちの反応が描写される。若者の恋愛結婚、新婚旅行のミラノの修道院で孤児の里親となって子どもを授かり村に帰る。
 題名となっている木靴の木のエピソードが終末にくる。渋る親が説き伏せられて子どもを学校に通わせるが、ある日、木靴が縦に割れてしまう。裸足で帰った子どもに、父親は夜中に、村から伸びる道路の並木のポプラを切り、5、60cmほどを家に持ち帰り、ナタで木靴をつくった。オランダにあるような足がすっぽり入る木靴ではなく、上に皮を張ったサンダルだ。だが、並木を1本切ったことが地主にバレる。共有物として勝手に利用していいはずだが、地主の支配権が強力になっていた。その一家は小作の地位を取り上げられ、追い出される。荷車にわずかな家財を積んで、あてもなく出ていく。他の小作人はなすすべもなく窓からそっと見送るだけだ。たったひとつの木靴をつくるために木を切った。それだけで生きる権利を奪われる。
 静かで悲しい物語だ。40年前に見た記憶は樹を伐り、木靴を作り、追い出されるところだけだった。そこにいたる貧しいながらも豊かな農村の暮らしが美しく描かれていた。
 この映画を見て、思いだしたのが、2009年に公開された韓国の「牛の鈴音」のことだ。老牛と老夫婦の物語だ。底辺の人間にやさしく寄り添う映画は心にしみる。
 九条のシネヌーヴォXで8月17日まで上映中だ。未見の方も昔見た方もぜひ。
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