唯円道場跡伝承地@水戸市河和田町榎本
「歎異抄」の著者と目される唯円(1222年- 1289年)は、親鸞(1173~1262)の直弟子で、1240(仁治1)年に常陸・河和田に念仏道場を開いたといわれる。
のち、この道場は少し離れた竹ノ内という所に移転して泉渓寺と称するようになる。1
690(元禄3)年に旧河和田城跡の一角に移されて報仏寺となり、現在に至っている。
唯圓房碑
久しく荒廃していたが、1911(明治44)年にこの地の住人達の尽力で整備されて碑が建てられた。
道場跡と伝承の地は、国道50号バイパスの南側に道場池又は心字池と呼ばれた処だが、ほぼ埋めたてられて田圃と雑地。
中央の木立の小さな森の中に在る。
田植えの時期のためなのか、周囲には水が溜まり中州のよう。
水戸駅の「水戸観光協会」の案内所で頂いた地図に基づき歩いた。
「道場池夜雨」への点線のルートは草に紛れて分からないので、木立を目指す。
「塩の道」
当時の道場に沿った通りは「塩の道」と呼ばれ、鹿島灘沿岸から内陸の下野(群馬・栃木)を結ぶ主要な通商路で、近くには市が立ち賑わっていたと言われる。
辻に小さな祠があり、台町焼の恵比寿・大黒像が供えられてあった。
50号バイパス方面からは入ることが出来ないが「高倉町珈琲 水戸店」の駐車場の南側の奥の方向中央の杜が遺跡。
駐車場に面した農家の納屋の壁面に「マキヨウイチ」作の大きな風景画。
ソーラーパネルの奥方面が遺跡。
この辺りまで池だった可能性がある。
今では市街地となったが往時の風景に思いを馳せる。
*親鸞(1173~1262)は健保2年(1214)配流の地・越後から常陸におもむき,笠間稲田郷に住んで他力念仏の布教につとめた。
常陸での20年余の間に「教行信証」の初稿を著し,多くの弟子ができた。
直弟子の一人である唯円の念仏道場を親鸞も訪れたに相違ない。
*唯円の晩年は大和国吉野で布教し、秋野川の近辺で没したといわれる。
*倉田百三著 『出家とその弟子』(岩波書店1918)は『歎異抄』をベースにして親鸞と唯円の師弟関係を軸に戯曲化した文芸作品。
一燈園やキリスト教の思想の影響も強く受けているとされるが、大正の新仏教が当時の青年からは熱狂的に支持されて大ベストセラーとなり「親鸞ブーム」を引き起こした。
「歎異抄」の著者と目される唯円(1222年- 1289年)は、親鸞(1173~1262)の直弟子で、1240(仁治1)年に常陸・河和田に念仏道場を開いたといわれる。
のち、この道場は少し離れた竹ノ内という所に移転して泉渓寺と称するようになる。1
690(元禄3)年に旧河和田城跡の一角に移されて報仏寺となり、現在に至っている。
唯圓房碑
久しく荒廃していたが、1911(明治44)年にこの地の住人達の尽力で整備されて碑が建てられた。
道場跡と伝承の地は、国道50号バイパスの南側に道場池又は心字池と呼ばれた処だが、ほぼ埋めたてられて田圃と雑地。
中央の木立の小さな森の中に在る。
田植えの時期のためなのか、周囲には水が溜まり中州のよう。
水戸駅の「水戸観光協会」の案内所で頂いた地図に基づき歩いた。
「道場池夜雨」への点線のルートは草に紛れて分からないので、木立を目指す。
「塩の道」
当時の道場に沿った通りは「塩の道」と呼ばれ、鹿島灘沿岸から内陸の下野(群馬・栃木)を結ぶ主要な通商路で、近くには市が立ち賑わっていたと言われる。
辻に小さな祠があり、台町焼の恵比寿・大黒像が供えられてあった。
50号バイパス方面からは入ることが出来ないが「高倉町珈琲 水戸店」の駐車場の南側の奥の方向中央の杜が遺跡。
駐車場に面した農家の納屋の壁面に「マキヨウイチ」作の大きな風景画。
ソーラーパネルの奥方面が遺跡。
この辺りまで池だった可能性がある。
今では市街地となったが往時の風景に思いを馳せる。
*親鸞(1173~1262)は健保2年(1214)配流の地・越後から常陸におもむき,笠間稲田郷に住んで他力念仏の布教につとめた。
常陸での20年余の間に「教行信証」の初稿を著し,多くの弟子ができた。
直弟子の一人である唯円の念仏道場を親鸞も訪れたに相違ない。
*唯円の晩年は大和国吉野で布教し、秋野川の近辺で没したといわれる。
*倉田百三著 『出家とその弟子』(岩波書店1918)は『歎異抄』をベースにして親鸞と唯円の師弟関係を軸に戯曲化した文芸作品。
一燈園やキリスト教の思想の影響も強く受けているとされるが、大正の新仏教が当時の青年からは熱狂的に支持されて大ベストセラーとなり「親鸞ブーム」を引き起こした。