ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

「私がここに居ります」

2014-02-27 14:35:57 | 「先週の講壇より」
2月16日(日)の礼拝説教の一部が「先週の講壇より」として週報に載りました。
テキストは「イザヤ書」6章1節~8節  タイトルは「私がここに居ります」でした。



上田光正牧師の説教の全文は美竹教会ホームページ「9.説教集」に載っています。
掲載にタイムラグがありますが、上田先生のお説教、是非お読みください。



公園のサッカー場に<トラツグミ>がいました。
遠くてうまく撮れませんでした、残念。 後ろにいるのは<ツグミ>です。
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「ヨブ記」の解説

2014-02-26 15:17:47 | 聖書
ヨブ記は、旧約聖書中の*)知恵文学の一書で、人が何の理由もなく苦しまなければならないことがなぜあるのかを問題とする。

本書の中心的問題の背後に、不条理の苦しみの中にある者と外にある者が異なる次元に立っているという事がある。
後者による苦しみの説明が前者の現実の解決にならない、つまり、諸民族にある知恵の伝承において、善を行えば幸いを得、
悪を行えば災いを招くという因果応報の観念が常識であるが、何の悪も行っていないのに災いのどん底に落とされるという現実がある。
主人公ヨブの嘆きはその現実の中からの叫びである。

このヨブの目から見れば、因果応報というモラルの秩序ではこの世界は無意味であり、神がいるとも思われない。
ヨブ記の著者によると、そのような秩序は人間が捉えた限りの秩序であって、これを超える神の秩序がある。
これを認めなければ、現実にある不条理の苦しみは無意味に終わる。

それゆえ、いかなる災いに襲われようと、神を畏れ敬う心を貫くヨブにこそ、真の神の信仰者像がある。

このヨブは、神とその民との契約の仲介者であり、自ら何の罪もなかったにもかかわらず、約束の地を前にネポ山で死んだ主の僕モーセと、
また主の僕の歌(イザヤ書42:1-4、49:1-6、50:4-9、52:13-53:12)の僕とも重なって通じている。


↑「聖書事典」ヨブ記の項からの抜書きです。
今回は読み終わってから解説を読みました。 
な~るほど、そうなのか~と勉強になりました。


*) 知恵文学(ちえぶんがく、英語: Wisdom literature)とは、
  古代イスラエルの宗教文化を始めとして、古代オリエント世界における国際的な文学活動によりできた特定グループの文学である。
  旧約聖書の正典の中ではヨブ記、箴言、伝道者の書、詩篇の一部がそれに属する。
  正典以外は、「ベン・シラの知恵」「ソロモンの知恵」「トビト書」「第四マカベア書」などが挙げられる。



公園の水場に梅が咲いて、そこに<ルリビタキ(♂)>が止まります。
絵のような(笑)美しさです。


美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
毎週日曜日午前10時半から礼拝がもたれています。 教会の扉を押して、どうぞお訪ねください。
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「ヨブ記」読み終わり

2014-02-25 21:22:54 | 今日の聖句
「ヨブ記」32章1節~6節
ここで、この三人はヨブに答えるのをやめた。ヨブが自分は正しいと確信していたからである。
さて、エリフは怒った。この人はブズ出身でラム族のバラクエルの子である。
ヨブが神よりも自分の方が正しいと主張するので、彼は怒った。また、ヨブの三人の友人が、
ヨブに罪のあることを示す適切な反論を見いだせなかったので、彼らに対しても怒った。
彼らが皆、年長だったので、エリフはヨブに話しかけるのを控えていたが、この三人の口から
何の反論も出ないのを見たので怒ったのである。
ブズ人バラクエルの子、エリフは言った・・・・・・



このあと32章から37章まで延々とエリフのヨブに対する糾弾の言葉が続きます。

そして38章に突然、「主なる神の言葉」が現れます。

38章1節「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。」から始まって39節まで神のヨブへの
語りかけがあります。

40章4節から5節で、ヨブは「わたしは軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論など
できましょう。私はこの口に手を置きます。 ひと言語りましたが、もう主張いたしません。
ふた言申しましたが、もう繰り返しません。」と神に答えます。

40章6節から41章まで、再び嵐の中からヨブに答える神の言葉が続きます。

42章でヨブは自分の理解や知識の小ささ、無力さを悟り、塵と杯の上に伏し、悔い改めることを
偉大な全能の神に誓いました。

ヨブのように神について正しく語らなかったとして、主はヨブの友人三人に対する怒りを表しますが、
ヨブの祈りを受け入れ、三人に罰をあたえることをしませんでした。
主はその後、ヨブを以前にもまして祝福されました。


今夜あたり「ヨブ記」を読み終えられそうです。
こんな風に、サッササッサと通読しているだけですが、よろしいのでしょうか。 (^^;)

「ヨブ記」のあとは「詩編」ですが、「詩編」はお祈りの参考とするために(?)
毎晩一篇ずつ読んでいますので、明日からは「箴言」を読み始めるつもりです。



今日の野鳥は公園の<コゲラ>です。


美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。

美竹教会は上田牧師は三月で辞任され、四月からは左近豊牧師が私たち教会員を導いてくださいます。
神さまが私も含めた兄弟姉妹の健康を支えてくださり、左近先生に導かれて、神様を中心とした
教会を建てて行かれますように、とお祈りしています。
三月いっぱいで上田先生ご夫妻、Y・M神学生が美竹教会を去ることを考えるととても寂しいです。
神様、これからも美竹教会をどうぞ守り導いてください。 アーメン。
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讃美歌9番 「力の主をほめたたえまつれ」

2014-02-24 23:42:58 | 讃美歌
昨日の礼拝で歌いました。

1) 力の主を ほめたたえまつれ
   我が心よ、今しも目覚めて
   竪琴(たてごと) かき鳴らしつつ
   御名(みな)をほめまつれ

2) 救いの主を ほめたたえまつれ
   御言葉もて 我が身を励まし
   悩みに 勝たしめ給う
   みいつ類(たぐい)なし

3) 命の主を ほめたたえまつれ
   繁(しげ)き恵み 雨と降り注ぐ
   尽きせぬ 御慈(みいつく)しみを
   いかで忘るべき

4) 栄えの主を ほめたたえまつれ
   世をこぞりて かしこみ崇(あが)めよ
   光に います我が主を
   永久(とわ)にほめまつれ


作詞者 ヨアヒム・ネアンダー Joachim Neanderについては「ココ」をクリックしてお読みください。
作曲者はなんと、あの有名なヨハン・セバスティアン・バッハ Johann Sebastian Bach です。

讃美歌9番、ここをクリックするとYouTubeで聴くことができます。



今日の野鳥は公園の<ルリビタキ(♂)>です。


美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
ホームページをご覧になったら、実際に教会の扉を押して、どうぞお訪ねくださいませ。 (^-^)
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「エレミヤの召命」

2014-02-23 20:45:53 | 説教
今日の礼拝説教 テキストは「エレミヤ書」1章4節~10節
タイトルは「エレミヤの召命」でした。


美竹教会初代牧師の浅野先生はエレミヤ書の連続講解説教を3回もなさいました。

当時の中東がアッシリアからバビロニアへと移行する激動の時代(日本は縄文式土器の時代)にエレミヤは召命を受け40年間、
イスラエルの民の預言者として使命を果たしました。 
「エレミヤ記」は苦しい時代のイスラエルに将来のイエスによる救いを預言した物語です。

今日は5節を中心として学びましょう。
「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。
母の胎から生れる前にわたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」


エルサレム神殿に仕える祭司の息子エレミヤはイザヤとは正反対の内気な内省的な人物でした。
先を見通す力を持ち、預言者として生涯重荷を負い続けたエレミヤはこの時代に最もふさわしい預言者だったと言えるでしょう。

今日は彼の召命記事から三つのことを学びたいと思います

第一は「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた」という神の言葉です。 
聖書の信仰は常に神が最初にあるということです。
創世記の第一声が「初めに神は天地を創造された」とあり、神がこの世を造られ、私をこの世に生まれさせたということです。

第二は、神は永遠の昔からエレミヤを選ばれていたという事です。
「知る」=「選ぶ」 つまり聖別する、ということです。
私たちが選ぶのではなく神が価なき私を恩寵を持って選んでくださっているのです。
「選びの信仰」が分からないと召命も分かりません。
「選びの信仰」は他の人と比べたり他人を云々する余地はなく、自分が選ばれたことを堅く信じて確信することが大切です。
神を「父よ」と読んで祈ることは御霊の恩寵で、これは信じるに足るものです。
信じて聖餐に与り続ければ神の選びがよくわかります。

第三は、召命を受けた者は新しい命を与えられる、ということです。
私たちは、この世のどのような仕事にあってもクリスチャンとしての使命をそこに見ることができるはずです。 
そして主が共におられる希望を持っていることは他の人とは違うはずで、召命の先には新しい命の希望があります。
幸いな時のみでなく、苦しい時も主が最期まで責任を持ってくださいます。


エレミヤは人々の平安の向こうに腐敗や滅びを見ていましたが、人々が絶望している時、その向こうに希望を見て、
神から授かった言葉、慰めを語りました。
エレミヤはその生涯を通して、救いより審判の言葉を多く語らねばなりませんでしたが、
イスラエルを裁く神の苦しみを最もよく知っていました。そして涙ながらに神に執り成しの祈りもしました。

そのエレミヤの最大の使命は裁きの向こうに救いがあることを語ることでした。
彼は甦りの命を語りました。

私達も(聖書を通して)神と共に生きることが大切です。
エレミヤの後、第二イザヤが現れ、不幸な暗い時代の向こうに神の救いがあることを語り続けました。
浅野先生が三度もエレミヤ書の講解説教をなさったのは、当時の暗い世相の中に聖書の語る希望を語られたのではないでしょうか。
聖書の御言葉を聞き、礼拝に与り神からの希望を与えられる私たちは、それを隣人にも伝え語りたいものです。 (以上、文責はゆうゆうにあります。)



公園のグラウンドに<カワラヒワ>の群れがいました。
地味な野鳥ですが、羽を開いて飛ぶと明るい黄色が綺麗です。


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今日は初めての方が来られました。
以前一度いらした方とご一緒でした。嬉しいことです。                                            
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「ヨブの信仰」

2014-02-22 19:57:46 | 「先週の講壇より」
  2月9日(日)の礼拝説教の一部が「先週の講壇より」として週報に載りました。
  説教のテキストは「ヨブ記」1章13節~22節  タイトルは「ヨブの信仰」でした。

  

  上田牧師による説教の全文は(タイムラグがありますが)美竹教会のホームページの中の「9.説教集」に
  載っています。  どうぞ、是非お読みください。


   
   真冬の寒さが続いていますが、公園ではいつの間にか寒桜が咲き始めました。
   寒桜の蜜を吸いに<メジロ>が来ていました。
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ヨブの信念 

2014-02-20 22:22:51 | 今日の聖句
「ヨブ記」27章1節~10節
ヨブは更に言葉をついで主張した。
わたしの権利を取り上げる神にかけて わたしの魂を苦しめる全能者にかけて 私は誓う。
神の息吹がまだわたしの鼻にあり わたしの息がまだ残っているかぎり
この唇は決して不正を語らず この舌は決して欺きを言わない、と。
断じて、あなたたちを正しいとはしない。
死に至るまで、わたしは潔白を主張する。
わたしは自らの正しさに固執して譲らない。
一日たりとも心に恥じるところはない。
わたしに敵対する者こそ罪に定められ わたしに逆らう者こそ不正とされるべきだ。
神に命を断たれ、魂を取り上げられるのだから 神を無視するものにどんな望みがあろうか。
災いが彼に臨むとき その叫びを神は聞いてくださるだろうか。
全能者によって喜びを得 常に神を呼び求めることができるだろうか。



あなたたち」は三人の友人を指しています。
友人たちは「神の前に懺悔し、悔い改め、赦しを願うように」とヨブに忠告します。
一見、神の前に謙虚で信仰深い三人と思いますが、ヨブは間違っているのは三人の方だ、
私は神の前に何ら恥じることは無い、と主張します。

何と言うヨブの信念、ヨブの信仰でしょう!

「死に至るまで私は潔白を主張する
私は自らの正しさに固執して譲らない
一日たりとも心に恥じるところはない」  こんな風に自分の信仰を確信できたら・・・・・

私は神を信じイエス・キリストの説く道を信じて、クリスチャンとして生きることで自分の
生を納得できています。
主に生かされているという思いが無かったら、私の毎日はなんと虚しいものでしょう。
これは私の信念です。
しかし、自らの正しさに固執して譲らない、一日たりとも心に恥じるところはない、と私は言えません。



公園の<コゲラ>
日差しは明るく春の訪れを感じさせますが、北風の冷たいこと!


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讃美歌546番 「聖なるかな」

2014-02-19 21:45:01 | 讃美歌
日曜日の礼拝で歌いました。 Johann P.Neumann 作詞  Franz Peter Schubert 作曲の讃美歌です。

あの有名な、シューベルト(Franz Schubert)が作曲した「ドイツミサ曲」の中の第5番目の曲です。
「ドイツミサ曲」というのは文字通り、ドイツ語の歌詞がついたミサ曲です。
ミサ曲とは、ローマカトリックの典礼で使われる音楽ですが、
第二バチカン公会議(東京オリンピックの頃)までは、典礼文は全てラテン語でした。
ですから、ミサ曲の歌詞も全てラテン語でした。

しかしそうなると母国語でも歌いたくなるのが人情というものでしょうか。
シューベルトはドイツ語によるミサ曲を作りました
もちろん、教会での演奏は禁止されていました。

歌詞をかいたヨハン・フィリップ・ノイマンは
シューベルトと交流のあったウィーンの工業学校物理学教授で、教会音楽を解かりやすいものとし、
民衆に親しみやすいものにする運動を推進していたそうです。

讃美歌546番は、プロテスタント教会では毎回の礼拝のほとんどで歌われているそうです。
シューベルトはカトリックなのになぜかプロテスタント教会の讃美歌になってるのが面白いですね。

それにしても素直で優しく美しい~
歌曲王とよばれたシューベルトの面目躍如たる作品ですよね~♪

↑以上、解説はネットからの抜き書き、寄せ書きです。
プロテスタントの教会ではお馴染みの讃美歌のようですが、私は初めて聴き、歌いました、新参者です。 (^^;)

讃美歌546番の美しい歌声、ここをクリックすると聴かれます。

Heilig, heilig, heilig,  聖なるかな 聖なるかな 聖なるかな
heilig ist der Herr!   主は聖なるかな
Heilig, heilig, heilig,  聖なるかな 聖なるかな 聖なるかな
heilig ist nur Er!    主のみ聖なり
Er, der nie begonnen,   主には初めがなく
Er, der immer war,    常におわしまし
ewig ist und waltet,   永遠に統べ治められる
sein wird immerdar.    主は永遠なり

Heilig, heilig, heilig,  聖なるかな 聖なるかな 聖なるかな
heilig ist der Herr!    主は聖なるかな
Heilig, heilig, heilig,   聖なるかな 聖なるかな 聖なるかな
heilig ist nur Er!     主のみ聖なり
Allmacht! Wunder! Liebe!  全能、奇跡、愛
Alles ringsumher!     全てを天と地に!
Heilig, heilig, heilig,  聖なるかな 聖なるかな 聖なるかな
heilig ist der Herr!    主は聖なるかな



<ヒヨドリ> 実を咥えて嬉しそうです。 (^-^)

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ヨブの信仰

2014-02-18 21:13:39 | 今日の聖句
「ヨブ記」13章1節~8節
そんなことはみな、わたしもこの目で見、この耳で聞いて、よく分かっている。
あなたたちの知っていることぐらいはわたしも知っている。
あなたたちに劣ってはいない。
わたしが話しかけたいのは全能者なのだ。
わたしは神に向かって申し立てたい。
あなたたちは皆、偽りの薬を塗る役に立たない医者だ。
どうか黙ってくれ。
黙ることがあなたたちの知恵を示す。
わたしの議論を聞き、この唇の訴えに耳を傾けてくれ。

神に代わったつもりで、あなたたちは不正を語り、欺いて語るのか。
神に代わったつもりで論争するのか。
そんなことで神にへつらおうというのか。



3章でヨブは自分の生まれた日を呪います。
そんなヨブを慰めようとエマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルの三人が見舞いに来ました。

4章から三人の友人とヨブの論争が始まります。
三人は最初から、神に対してヨブに非がある者としてヨブを諌めます。
自分の思いを理解せず、神に執り成そうとするだけの友人にヨブは苛立ちます。

私には、友人たちの表面的な諌めの言葉は、自分もそんな風に言うのではないかな~と思って理解できる気がします。
ヨブの友人への怒りは、そうなのか、ヨブは神に対して自分は正しいという思いがあるから、こんな風にいらだつのだろう、
とは思いますが、ヨブの強さにただただ圧倒されます。
神の前に自分は正しい、というヨブの強い信仰に圧倒されます。

深い物思いもなく、すぐに反省したり、(口先だけで)悔い改める・・・・
「正直と言う美名に隠れた」狡くて軽薄な自分が恥ずかしい気がします。



雪の残る公園で餌を啄む<カシラダカ>です。


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上田先生のセミナー(第二回)

2014-02-17 21:11:21 | 美竹教会
美竹教会は4月から左近豊先生を牧師としてお迎えします。
それに先立って、上田先生は三回にわたって「美竹教会の形成と発展のために」というタイトルでセミナーを開いてくださり、
私たち教会員にクリスチャンとして、教会員としての心構えをお話し下さいます。

第二回目の昨日は「(b)教会の自立」からでした。
第一回目についてはココをお読みください。



(b)教会の自立について

 (イ)それは、一人ひとりが主と結ばれることである

    ()すべての教会員がキリストと直結し、キリストの祭司である「万人祭司」の原理が出てきます。
       聖霊は元々一つですが、その御霊が一人一人の信徒に分かれて住み、各々が教会形成の主人公として力を出すのです。
    ()キリストに直結することの基本は・礼拝を重んじること・神を「父よ」と呼ぶ祈り・聖書をよく読む、ということです。
    ()礼拝について  信徒にとって最大の奉仕は礼拝に出て、神の御言葉(説教)をしっかり聞き、力いっぱい神を賛美することです。
       そして家族や友人も礼拝に誘ってくることです。
    ()祈りについて  祈りは「伝道する教会」を形成する基本です。
    ()聖書をよく読むこと  聖書を読むことによって一人一人が聖書に直結した信仰を持ち、福音をじっかり自分の魂の糧とすること。
    (-)分かっても分からなくても先ず、聖書全66巻を一通り読む。
         まんべんなく繰り返し読むことによって、聖書独特の神中心的な考え方が体得できます。
         次に、神の救いの御決意の確かさと救いの歴史の全貌を知り得ます。
         自分が何のために生まれ、何のために召されたかを悟り、自分が歴史の中でどこに立ち、何をなすべきか知ることができるようになり、
         信仰と希望と愛に満たされます。
    (-)聖書をよく読むという事は教会員にとって実行困難な課題ではありません。 
         母親が旧約聖書の「救済史」を理解すれば子供に家庭で物語る豊かな時を持つことができるでしょう。
     (-)すべての教会員がそうなれは、高齢化に悩む美竹教会の五年後、十年後の姿は相当に明るいものとなりましょう。

 
 (ロ)会議は祈りによってキリストと結びついたものであること

     ()教会の自立でもう一つ重要なことは教会総会、役員会、CS教師会などの教会会議がキリストと結びついたものとなることです。
        教会会議は、教会の「主」または「所有者」のキリストの御心を聞き分ける「御前会議」ならなけれはなりません。
     (-)教会の会議でキリストは直接言葉を語ることはありませんが、御霊を通してその御意志は会議の構成員の誰かに伝え、
          その口を通して語られます。
          自分に示されたキリストの御意志は遠慮せず、きちんと語り、お互いは相手の言葉をよく聴きあうことが大切です。
     (-)会議においては「計画」し「実行」し、最後に「反省」する。
          そして必要な記録を取り「積み重ね」て行くことが大切です。
          そうすれば一人一人が現在、教会にはどのような課題があり本当に教会を建てるのにふさわしい行動がよくわかるようになります。
          「教会的な発想法」ができる信徒が育ち、教会は見違えるように活発になるはずです。
          教会内の問題を牧師やその周辺の少数の人々が背負い込み、重荷となったり放置されたりすると閉塞感が増します。



***************************************************** 今回はここまででした。

↓の項目については、次回、最終回に話されるはずですが、まだまだ先が長くて、積み残しになりそう・・・大丈夫かな・・・・

(c)教会の自給について

     ()「自立」の精神が具体的に現れるものの一つが「自給」の精神です。
     ()献金の意義 献金には「献身」の意味がある。
     (-)
     ()「十分の一献金」
     ()

Ⅲ 教会の形成

(a)「御言葉の役者」について

     ()信徒であることは一切の思い煩いから解放された存在で。教会を建て福音を告げ広める尊い使命を神から与えられている
     ()家庭、職業、社会形成はこれを「世俗の仕事」と誤解してはいけない
     ()
     ()
     (-)

(b)信徒の役割について

  (イ)奉仕について
     ①「職制」の中の奉仕職について
       ()長老
       (-)
       (-)
       (-)
       (-)

     ②自発的な奉仕職について
       ()
       (-)教会役員、CS教師、各委員会、礼拝当番・受付、オルガニスト、会計担当、伝道委員会、教会報委員会、
            営繕係、ホームページ係、お花当番、会堂掃除当番等々
       ()
       (-)
       ()
       ()
       ()

  (ロ)交わりについて
       ()
       (-)主にある一致 「慰めの共同体」
       (-)謙遜
       (-)無責任は噂話は信じない
       (-)

  (ハ)証しについて
      ①教会全体としての伝道について
       ()
       (-)

      ②信徒の証しの生活
       ()キリスト者は「神と人間の間の仲介者」人間に対して神と神の国の豊かさを代表し、神に対しては
          貧しい人間を代表する。
       (-)
       (-)
       (-)
       (-)教会で行われる結婚式や葬儀などの儀式も重要な伝道の場
       ()他者の隣人となり、他者との交わりを持つこと
       (-)自分がキリスト者であることを公表する
       (-)
       (-)
       (-)
       (-)家族伝道
       (-)家族への伝道



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