ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

「姦通の女」

2018-04-30 17:39:10 | 今日の聖句
今日の聖句は「ヨハネによる福音書」8章1節~11節です。

08:01イエスはオリーブ山へ行かれた。 08:02朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、
御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。 08:03そこへ、律法学者たちや
ファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
08:04イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。 08:05こういう女は
石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
08:06イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で
地面に何か書き始められた。 08:07しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして
言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
08:08そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。 08:09これを聞いた者は、年長者から始まって、
一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。 08:10イエスは、身を
起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
08:11女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。
行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」


聖書の中で、個人的にこの挿話が好きだという遠藤周作氏は、著書「イエスに邂った女たち」の中で
下のように書いています。

**********************************
はっきり言うとこの(イエスの)答えは問題のすりかえです。石うちの刑の問題を逆利用して人々に
「お前たちに彼女を裁けるほど罪のない者がいるか」という別の次元の問題にすり替えているのです。
しかし、それはイエスの思想の核心にもふれています。
イエスはここで二つのことを言っている。ひとつは社会的な道徳でいう罪と宗教的な罪とは違う
ということです。第二に我々には本当は誰をも裁く能力などないということです。
これこそあきらかにイエスの思想だと私は思います。
社会的道徳の罪などは時代や場所によってすぐ変わります。たとえば戦争中は人を殺すことを教えられた
私など、社会のいう善悪基準が時代や環境でいかに変わるかを充分、思い知らされたものでした。
姦通の女は石うちの刑をうけるにふさわしい悪女だ・・・・それはイエスの眼からみると集団道徳の
判定にすぎません。
宗教的な倫理とは、このような社会的な集団道徳とはまったく違います。なぜならそれはまず神と
人間個人との関係だからです。そして神は人間の行為の結果だけを重視しません。
行為の表面的動機は問題にしません。神の眼は我々の心の底の底までふかく見ぬいているからです。
神は善を行った者の自己満足や虚栄心も承知していますし、逆に罪を犯した者の屈辱感、うしろめたさ、
怯え、悲しみも承知しているからです。
余談ですが、新聞でもテレビでもあまりに他人を裁くことが多くなりました。アナウンサーや記者が
裁き手となって誤った者を非難しているのをみると、私はこのイエスの言葉を思い出し、自戒を
くわえたくなります。私も善人面をすることが多いからです。
もちろん、社会秩序を保つために人間が人間を裁くことは必要かもしれませんが、それはたんに
必要だから行われているのであって、本質的には人間が人間を裁く権利などないように私には思えるのです。
「わたしもあなたを罪に定めない、行きなさい」と言われたイエスの言葉は何度くりかえして読んでも
深く感動的です。イエスの人間洞察、イエスが人々の悲しみや苦しみにどんなに共感しようとしたか、
そして律法(社会的道徳)よりもっと大事なものがあることを人々に教えようとしたことが、
すべてこの言葉に含まれています。
********************************

この本は、私のキリスト教の知識があまりに貧弱だと思ったらしいノンクリスチャンの友人が
「ササッと読めるから・・・・」といって貸してくれました。
私は書かれている聖書のエピソードはほとんど知っていますし、姦通の女を石うちにするかどうか
の問いに対するイエスの答えが社会的道徳、倫理を問題にしていないことも分かっていました。
しかし、善行を行った人間の心に宿る自己満足や虚栄心までをも遠藤周作は語っています。
確かにそうです。
私たち人間の罪の深さ、救いがたさについても、私は分かってはいるつもり、と思っていても
「自己満足や虚栄心」をまったくもたないでいることは不可能です。
胸打たれました。 義人はいない、ひとりもいない。

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公園の新緑、美しく新鮮です。
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美竹教会ホームページ、リニューアル!

2018-04-27 21:40:52 | 美竹教会
美竹教会のホームページが一層明るく軽快にリニューアルされました。 ヽ(^◇^*)/
皆さま、クリックしてどうぞお訪ねください。

新しいホームページには礼拝説教も載っていますので、このブログの「説教」カテゴリは任務終了、
カテゴリ「讃美歌」も出尽くした感があり、さて、これからはどんな記事を載せてゆきましょう・・・・・・
これまで以上にノンビリと、心に響く「今日の聖句」でも時々アップすることにいたしましょうか。


「目白押し」という言葉がありますが、メジロの並ぶ姿を見たことはありません。
公園で偶々並んだ二羽が撮れました。
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「焼き魚とキリスト」

2018-04-21 21:53:56 | 説教
4月15日(日)主日礼拝 説教は左近豊牧師によるものでした。
テキストは「ルカによる福音書」24章36節~43節
タイトルは「焼き魚とキリスト」 でした。

**************
今年度はルカによって証しされるイエスを学んでゆく予定
医者であったと言われるルカ、彼はしっかりした歴史観を持っていた
「ルカによる福音書」→「使徒言行録」へと、歴史観が共通した一続きのもの
ルカによる福音書1章『敬愛するティオフィロさま、わたしもすべてのことを
はじめから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのが
よいと思いました。』
使徒言行録1章『ティオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、
また教え始めてから、・・・・・すべてのことについて書き記しました。』
2巻本の証言集とみられる。 始めがあれば終わりがあるという直線的な歴史観
夫々の地域、編む人によって異なる歴史観があるが、ルカは歴史を三つの区分
(旧約の時代/イエスの時代/教会の時代)に分けたとみる神学者もいる
ルカの語るキリストを礼拝してゆきたい
「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ24:36)
これは弟子だけでなく、読み手にむかっても言われている(現在形で書かれている)
イエスの弟子たちへの言葉を私たちも聞いているのが礼拝
「平安あれ、あなたがたに」とイエスは教会の群れに語られ、そこに立たれている
『エゴ・エイミー(わたしは在る)』(出エジプト3:14)
「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20:24-28)
この言葉はトマスに続く私たち、現代の人に向かって言われている

今日の聖書箇所は後の信仰者への招きにつながる
焼き魚を食されたイエスは、パン5個と二匹の魚で5千人を満ちたらせたイエスや、
復活の朝の海辺での食事(ヨハネ21:9-13)や、最後の晩餐を思い起こさせる
礼拝の度に主の食卓を思い、先達に連なるものとして共に感謝したい
************

自分の興味ある部分だけを書いておいたあやふやな私のメモから強引にまとめました。
特に最後の方は自信ありません。
私のまとめでは全くお伝えしきれず残念ですが、左近豊牧師の説教は本当に勉強に
なります、というと堅苦しく聞こえるかもしれませんが、聖書の様々な箇所が引用されて、
聖書に疎く読みこなせていない私は新しい発見に気付かされとてもワクワクします。
深恵子牧師と豊牧師、お二人の説き明かしを聴けるなんて感謝です。

それにしても、説教プリントはいただけないとしたら、カテゴリ「説教」の今後は
危うくなりました。
カテゴリ「讃美歌」も出尽くした感があり、サテ、このブログ、これから何を
書いていこうかなぁ・・・・「今日の聖句」は多分続けられそうだけど・・・・

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公園で<ゴマダラチョウ>の蛹(さなぎ)を見つけました。
美しいです。
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「イエスは家に入られた」

2018-04-17 20:32:48 | 説教
4月8日(日) 主日礼拝説教は左近深恵子牧師によってなされました。
テキストは「ルカによる福音書」24章28節~35節
タイトルは「イエスは家に入られた」でした。

********************************************************
復活の出来事は人間の理解を超えたもの、人間の思いを超えた大きな出来事

エマオに向かってエルサレムから離れていく二人は、復活といえども死には
勝てない、と絶望していた
死の力の前に挫折した二人の思い
イエスは何故、唯々諾々と殺されたのか
何故、自分たちの挫折を放っておかれるのか→ 揺らぐ信頼→ 復活も信じきれない
そんな二人は追ってきたイエスのことが分からなかった  認識できなかった
過去の出来事としてイエスとその働きを語る二人、見当たらないあの方へのいら立ち
から彼らは復活したイエスを見いだせなかった
現象を見る目はあっても内なる目が閉ざされていた→ 嘆くイエス
イエスの語る言葉を聞く二人の心は内側から熱くされた
宿に着いた二人はイエスをもてなしたいと望み、イエスは家に入られた
イエスは彼らの生活の場に入ってくださった
食卓に着きパンを割かれるイエスを見た時に二人の目は開かれ、その時には
イエスの姿は見えなくなった
仲間に知らせようと、二人はすぐにエルサレムにとって返した

神の思い、なされることの深さ
食卓の光景は5個のパンと2匹の魚で五千人が満足した食事や最後の晩餐の
光景を思い起こさせる
二人の目は自分たちの力で開いたのではなく神によって開かされた
その時、彼らは今も復活のイエスは共に在る、今も我らと共に在りと信じる
ことができた
イエスは彼らを追いかけ近づき共に歩み、絶望した二人と家に入り客となってくれた
イエスの地上での生き方→ 神は必要ないという人の傍に来て追いかけ歩んでいるイエス
イエスは人間生活の時間、空間の中に入り込み、苦しみや喜びを共にしてくださる
今も家庭の食卓に来られ食卓の主となられ、私たちに応えてくださっている
主無くして生きていけると言う人々への働きかけをしておられる
今日も晩餐に招いてくださり、命の糧を与えてくださる
聖書を通して語りかける神に自分の心を開いて導かれるよう、過ごしたい
*******************************************************

大好きなエマオの出来事からの深恵子牧師の説教、「復活の主は今私たちと共に
いてくださる」というメッセージが胸にスッと入り込んで来ました。
神様によって心の目がいつも開かれて過ごせますように!祈りました。
以前、ブログに書いた「私のエマオ」 
落ち込む夫と私を見舞ってくださった別病棟の看護師さん、夕暮れの病室の光景は
今思い出しても「私のエマオ」だったような気がします。

説教はあやふやな私のメモ(しかも終わりの方だけ)から朧気に思い出して書いた文章で、
文責は勿論ゆうゆうにあります。これから先、説教プリントいただけたら嬉しいけれど・・・・

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花壇のチューリップ、今年はもう終わりましたね~
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讃美歌39番 「日暮れて四方は暗く」

2018-04-11 23:09:40 | 讃美歌
8日(日)の礼拝で歌いました。エマオの出来事がもとになっている讃美歌です。

讃美歌39番 「日暮れて四方は暗く」
“Abide with me:fast falls the eventide” by Henry Francis Lyte, 1847
「EVENTIDE」 by William Henry Monk,1861

1)日暮れて 四方(よも)は暗く
  我が霊(たま)は いと寂し
  寄る辺(べ)なき 身の頼る
  主よ、ともに宿りませ
2)人生(いのち)の 暮れ近づき
  世の色香 移り行く
  とこしえに 変わらざる
  主よ、ともに宿りませ
3)世の闇 押し迫りて
  誘(いざな)いの 声繁(しげ)し
  時の間も 去りまさで
  主よ、ともに宿りませ
4)死の刺(はり) 何処(いずこ)にある
  主の近く ましまさば
  我勝ちて 余りあらん
  主よ、ともに宿りませ
5)十字架の くしき光
  閉ずる目に 仰がしめ
  御栄(みさか)えに 覚むるまで
  主よ、ともに宿りませ

作詞は英国国教会の聖職者ヘンリー・ライト。
彼は小さな漁村の教会の牧師として、病気がちで喘息と結核に苦しみながらも死ぬまでこの教会に仕えました。
彼の歌の多くは漁夫や幼児や病人のために作られていたようです。
彼自身の病状が悪化して転地療養のために村を離れることになり、最後の説教をすることになった時、
その説教の直前にこの讃美歌が書かれたのです。彼は転地療養のためにイタリアに向かう途中で召天しました。
54歳でした。その悲しい知らせを聞いて、彼のいた漁村の人々は教会に集まり、この讃美歌を歌い、
故人を偲んだということです。
最も頻繁に合わされる曲は "Eventide" で、ウィリアム・ヘンリー・モンクが1861年に作曲したものです。
作詞家自身も作曲し、その他にも何人かが作曲しています。
マハトマ・ガンジーのお気に入りの讃美歌でもあったそうです。
クリスチャンの葬儀でしばしば歌われますが、タイタニック号の悲劇があったとき、沈みゆく船の上で
船のバンドはこの曲を演奏していたと、生き残った人々が証言しています。

夕べの讃美歌として世界中で愛唱されている歌で、「主よ、ともに宿りませ」というフレーズが繰り返されて
いるこの讃美歌は、『ルカによる福音書』の「エマオに帰る二人の弟子」の話がもとになっています。

***********イエスの二人の弟子が、十字架の出来事に落胆し、とぼとぼエマオに向かって歩いておりました。
すると復活されたイエスが彼らに近づいてきて、一緒に道を行き始めました。ところが、弟子たちはそれが
イエスであることに気づきません。二人はなおも悲しみに暮れながら、主と共にエマオへの道を歩いていくのでした。
その二人に、イエスは道々、聖書を丁寧に解き明かしてくださいました。その話を聞いているうちに二人の心は
段々と立ち直っていきます。そして、夕暮れ、エマオについたとき、二人は無理に引き留めて不思議な同行者に
「一緒にお泊まり下さい」と頼んだのでした。
こうしてエマオの宿で三人は食卓につきました。イエスがパンを裂き、感謝と讃美の祈りをされると、二人の目は開け、
その方がイエスであるということに気づいたという話です。***********
(以上、解説はネットからの引用です。)

ここをクリックすると讃美歌39番を聴くことができます。


エマオに帰る弟子二人と同行される主イエス・キリスト


↑ 復活されたイエスのことを知らせるためにエマオから
 エルサレムに戻る二人の弟子の絵だと思います。

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8日(日)の主日礼拝の説教は左近深恵子牧師による「イエスは家に入られた」というタイトルで「ルカによる福音書」の
エマオに帰る弟子と復活したイエスの話でした。
説教をお聞きしながら書きなぐった乱筆乱文の私のメモをまとめることができたらブログにアップしようかと考えています。
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ダニエル書は黙示文学

2018-04-07 15:33:43 | 今日の聖句
今日の聖句は「ダニエル書」7章1節~8節 です。
07:01バビロンの王ベルシャツァルの治世元年のことである。ダニエルは、眠っているとき頭に幻が浮かび、
一つの夢を見た。彼はその夢を記録することにし、次のように書き起こした。 07:02ある夜、わたしは幻を見た。
見よ、天の四方から風が起こって、大海を波立たせた。 07:03すると、その海から四頭の大きな獣が現れた。
それぞれ形が異なり、 07:04第一のものは獅子のようであったが、鷲の翼が生えていた。見ていると、
翼は引き抜かれ、地面から起き上がらされて人間のようにその足で立ち、人間の心が与えられた。
07:05第二の獣は熊のようで、横ざまに寝て、三本の肋骨を口にくわえていた。これに向かって、「立て、
多くの肉を食らえ」という声がした。 07:06次に見えたのはまた別の獣で、豹のようであった。
背には鳥の翼が四つあり、頭も四つあって、権力がこの獣に与えられた。 07:07この夜の幻で更に続けて見た
ものは、第四の獣で、ものすごく、恐ろしく、非常に強く、巨大な鉄の歯を持ち、食らい、かみ砕き、残りを
足で踏みにじった。他の獣と異なって、これには十本の角があった。 07:08その角を眺めていると、もう一本の
小さな角が生えてきて、先の角のうち三本はそのために引き抜かれてしまった。
この小さな角には人間のように目があり、また、口もあって尊大なことを語っていた。


ここを読んだ時一瞬、えっ?今読んでいるのは「ダニエル書」でしょ、「ヨハネ黙示録」ではないでしょう?
と思ってしまいました。早速「聖書事典」の登場です。

「聖書事典」の「ダニエル書」の解説
『セレウコス朝シリアのアンティオコスⅣ世エピファネスは、BC175年に即位し、ユダに対してヘレニズム化政策を
推し進め、BC167年末からは大規模な宗教迫害を開始し、神殿を冒涜する。それに対してマダティアの一族
(マカバイ派)が武装抵抗運動を開始し、ここにマカバイ戦争が始まる。マカバイ派はBC164年末にエルサレムを奪還し、
神殿浄化をする。ほぼ同時期にアンティオコスⅣ世も東方で死に、迫害は事実上終結した。
ダニエル書はこの迫害の末期に、苦難の中にある人々を励ます目的で書かれたと思われる。
ダニエル書は・・・(中略)・・・本格的黙示文学であることは疑いない。』

「聖書事典」の「ヨハネ黙示録」の解説
『ヨハネの黙示録の理解のために、この文書が記された状況が顧慮されねばならない。著者が目の当たりにしている
小アジアの諸教会は血なまぐさいキリスト者迫害を経験してきた。そしてさらに恐ろしい苦境を眼前にしている。
ローマによる迫害である。ローマは、神のメシア的王としてのイエスへの信仰のかわりに、皇帝礼拝を要求する。
教会にとって、皇帝はまさに反キリストを体現している。著者の教会は、ローマ帝国の速やかな崩壊・没落を
何よりも切望している。をれゆえ、審きの待望と教会の救いへの待望が他文書にないほど強く刻印されている。』  
(多分、ローマ皇帝ドミティアヌスによる大迫害です。)

黙示録とは迫害を受けて苦しんでいるキリスト者がメシアの再来を、神の全き支配を待望する書だったのですね。 
「ヨハネ黙示録」も「ダニエル書」も何回も読んでいるのに、「ダニエル書」7章、8勝と「ヨハネ黙示録」の類似に
今回ようやくきづいた自分の読解力、記憶力の欠如は棚に上げて! (・・;)💦💦 
本当に!聖書は何回読んでも頭に沁み込まず忘れてしまう、けれど、だからカナ? 何回読んでも飽きることがなく、
新たな発見の連続! こんなペースと理解力では、ず~っと神様の御許に召される時まで読んでいられそうです。 (・・;)
**********************************
ネットから「黙示文学」のコピーです。
黙示とは「隠されていたものが明らかにされる」という意味であり、ギリシャ語でアポカリプス(Apocalypse)と呼ぶ。
この形式の文章を「黙示文学」とも言う。
現在「黙示録」のタイトルを持つ書の中で、ただ一つ宗教的な正典として生き延びた『ヨハネの黙示録』は新約聖書中で
唯一「預言書」として分類されている。 神、あるいは天使などそれに近いものが夢や幻などを通じて知られていない真実を
知らせる、というものであり、特に予言された終末について明かすというものが多い。
コンセプトは旧約聖書、ユダヤ教にも見られ、旧約聖書の中にはこの名称がなくとも黙示文学に分類されるものが存在する。
またイスラム教にもみられる。
またヨハネ黙示録以外の外典黙示録には旧約聖書の外典および偽典も含まれる。  これらの文学は宗教にまつわるものが多く、
アッシリアやバビロニアの神話などに見られ、それらがヘレニズム時代の前後、終末への期待を求めていたユダヤ教関連に
取り込まれ、記述の一部は預言書とされるエゼキエル書や、イザヤ書などに見られる。
特に有名なものがダニエル書の後半部である。  
「ピクシブの百科事典より」

黙示文学はユダヤ教・キリスト教・イスラム教の伝統において極めて重要である。 黙示文学では、天地創造以来現代を経て
終末に至るまでの時代区分の説明、善と悪の対立、現代が悪の支配する時代であるという認識、終末による悪の時代の終焉、
死者の復活、最後の審判、天国と地獄などの教義が与えられている。「ウィキペディアより」

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ほころぶ前、山吹の花の蕾です。
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「復活の朝」

2018-04-02 14:25:35 | 説教
4月1日(日)イースターの礼拝説教は左近深恵子牧師がなさいました。
テキストは「ルカによる福音書」24章1節~12節 タイトルは「復活の朝」でした。

メモを取らなかったため終わりの方だけ、しかもうろ覚えで申し訳ありません。<(_ _)>
十字架の上で死にゆくイエスを仰ぎ見、その死を見届けた三人の婦人たちの行動、
その思いから説き明かしをされました。

掟に従って安息日を休んだ婦人たちは、明け方近くイエスの遺体を大切に葬ろうと香料を
持って墓に行きました。依るべきイエスの死によって婦人たちの人生もまた死に向かうだけで、
心は絶望に打ちひしがれていたことでしょう。
墓の中は空でした。
主に人生のすべてをゆだねる喜びに目覚めていた彼女たちはイエスを葬ることすらできず、
イエスと繋がる手段も奪われた状態におかれました。
遺体の無いことにより生きる目的、進み方も見失った婦人たちに、神の使いは「なぜ生
きている方を死者の中に探すのか」と問いました。
「あの方は復活なさったのだ。ガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。
三日目に復活することになっていると、言われたではないか。」

神は、婦人たちにすでに生きるべき道を備えてくださっていたのです。
婦人たちは復活を告げるイエスの言葉を思い出し、神の言葉によってすでに知らされていた
事を思い出しました。ペトロも自分が聞いていたことを思い出したはずです。
彼らは復活を信じ、その復活の福音を信じ、述べ伝えることを使命としました。
その先頭に三人の婦人たちがいた、婦人たちも福音の聞き手として認められていました。

主の後に従い旅する者、なんとか主に繋がろうとする者を神は導いてくださいます。
神の許に行く旅の備え、そこに導く方(イエス)がおられます。
イエスは生きていると信じる強さを持って、生けるキリストを信じて証しする、
生ける主に従う道を歩きたいと願います。

<<お知らせ>> ***********

4月1日から、美竹教会の主任担任教師は左近深恵子牧師になりました。
美竹教会は新年度より左近深恵子先生と豊先生の牧師二人体制となります。
協力牧師として浅原一泰先生が、また神学生の方も美竹教会の新しい歩みに伴われます。

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植えた覚えの無い<木瓜(ボケ)>が庭の片隅に咲いていました。 y(^ー^)y
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