ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

「新しい朝」

2016-08-30 19:39:55 | 説教
8月29日(日)主日礼拝の説教です。
交換講壇ということで日本基督教団曙教会の左近深恵子牧師による御言葉の説き明かしでした。
テキストは「ヨハネによる福音書」18章28節~38節 タイトルは「新しい朝」でした。






『王なるキリストは肉体の死に閉ざされない真の命に私たちを招いてくださる、これが真理です。
人がすべてを委ねて信頼することのできる真理です。
真理はあっても無くてもよい抽象的な飾りでも、余裕のある人が学ぶ知識でもなく、それが無くては
生きることにはならない、人に命をもたらすものです。』
『私たちは自分の深みにおいて主なるキリストに出会い、主イエスという王にどこまでも従って
いるでしょうか。』
左近深恵子牧師の説教の語り口はよどみなく、ためらいなく、静かな迫力をもって胸に迫りました。

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クルマユリ?の蜜を吸う<ジャコウアゲハ>です。
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讃美歌501番 「命のみことば」

2016-08-28 20:53:27 | 讃美歌
今日の主日礼拝で歌いました。
このブログのカテゴリ「讃美歌」はすでに130曲を数えました。
礼拝で新しい讃美歌を歌うことも少なくなって、今日は久しぶりの「讃美歌」記事掲載です。

讃美歌501番 「命のみことば」 
"Sing them over again to me"    Philip Paul Bliss,1874         

 1 生命のみことば たえにくすし
   見えざる御神の むねをしめし
   つかえまつる みちをおしう。
   生命のみことば たえなるかな
   いのちの御言葉 くすしきかな

 2 主イエスの御言葉 いとしたわし
   あまねくひびきて 世のちまたに
   なやむ子らを あめにまねく
   生命のみことば たえなるかな
   いのちの御言葉 くすしきかな

 3 うれしき音ずれ たえずきこえ、
   ゆるしと和らぎ たまうかみの
   ふかきめぐみ 世にあらわる。
   生命のみことば たえなるかな、
   いのちの御言葉 くすしきかな

Philip Paul Bliss(1838-1876 米国人)の作詞作曲によるものである。
ブリスは、福音唱歌(Gospel Songs)作家中の優れた人である。
ペンシルバニア州に生まれ、シカゴで音楽を学んだ後、音楽を指導し、聖歌隊の指揮者として
又日曜学校の校長として日曜学校用の歌曲を作った。
19世紀後半の米国ではキリスト教の改革運動(大覚醒運動 the Great Awakening)のう
ねりの中で19世紀最大の説教家(evangelist preacher)と言われる
Dwight Lyman Moody(1837-1899)が、聖歌歌手(gospel singer)Ira D. Sankey
(1840-1908)と組んで全米はもとより英国を始め大陸諸国を巡回伝道し多くの人々を信仰へと導いた。
各地での集会で Sankey が好んで用いた聖歌の一つがブリスの作ったものである。
Gospel Songs(Hymns)のカテゴリーは Moody と Sankey の活躍によって確立されたもので
米国讃美歌の第2期黄金時代を形成した。
Gospel Songsの特徴は、福音書の教えを強調した平易、簡素で反復的、庶民的、律動感ある
旋律で愉しく歌い易い作品が多い。
Gospelの起源について
英語の讃美歌 "hymn" がギリシャ語 "hymnos-神々、英雄或は著名人を称えるための歌―" を
語源としている様に、ローマ帝国でキリスト教が認知され帝国の内外に布教されていったので
キリスト教に関する用語(聖書、礼拝など)は当時のローマ帝国で使用されていたギリシャ語や
ラテン語がそのまま或は語源として取りいれられていった。
教会 "church" オルガン "organ" ミサ "mass" 司祭 "priest" などギリシャ語或は
ラテン語から英語になった。ところが "God" は数少ない英語のオリジナルで、紀元4、5世紀から
英国に移住し始めた現在の北ドイツ地方に住んでいた Anglo-Saxon 系の神を表わす言葉である。
6世紀の終わり頃、教王グレゴリウスが布教の為聖アウグスティヌスを英国に派遣した際、
改宗を容易にするため Anglo-Saxon 系民族固有の宗教用語を尊重した為といわれる。
そして "Gospel" は Anglo-Saxon 系の "Godspell" 即ち”良き報せ=福音”から来ている。
(記事はネットからのコピペです。m(-_-)m )

ここをクリックすると讃美歌501番を聴くことができます。

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公園の<センニンソウ>が割き始めました。
そろそろ9月、淋しい秋がそこまで来ています。
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「ルツの決意」

2016-08-25 12:01:43 | 説教
8月21日(日)主日礼拝の説教です。
テキストは「ルツ記「1章11節~19節 「ルカによる福音書」9章57節~62節
タイトルは「ルツの決意」でした。






  ルツから100年を経てダビデが登場し、さらに1000年を経てキリストがお生まれになった。
  聖書の旅は壮大な物語、そして2000年後の今、私がここにいる。
  健やかなる時も病む時も、得る時も失う時も神様の御業は聖霊を通して今も進んでいます。
  そして主は常に私と共に在り、私を愛で包んでくださっています。
  私が孤独の淵に佇む時「わたしがここにいるではないか」と呼びかけてくださいます。
  信仰が無かったら私は今頃どこを彷徨っていたことでしょう。
  人間は神様を信じないで生きることが果たしてできるのでしょうか?

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  8月28日(日)は曙教会との交換講壇ということで、
  曙教会の左近深恵子牧師が礼拝説教をしてくださいます。
  
   どんな御言葉の解き明かしを聴くことができるでしょう、楽しみです。
  これまで教会に行ったことが無いというアナタも是非お出かけください。


大木の足元に咲く<ヤブラン>
夕暮れ散歩でのワンショットです。
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?(ハテナ)マーク  その2

2016-08-22 22:36:30 | 聖書
何回か聖書を読んでいると、自分のお気に入り聖句や納得できない出来事、感動的出来事などが
煮詰まってきて、私は自分の中で勝手に三大〇〇などと呼んでいます。
今日は「納得できない出来事」の二つ目を載せます。
ちなみに「?(ハテナ)マーク」の一つ目は「カインとアベル」の出来事でした。
三つ目のハテナ?はまたいつかアップさせていただきます。

モーセは、神にもモーセにも従順とは言えない、時には反抗的な民を40年間も導いて
(実際は神様が導かれたのですが)荒野を旅しました。
そんなモーセなのに、彼はヨルダン川を渡ることを神様から許されませんでした。
イスラエルの民も出エジプトを果たした者は一人も約束の地には入れず、次の世代の民が
新しい地に入ることになるのですが、なぜモーセは許されなかったのでしょう? 
メリバの泉の出来事のどこが神様の怒りに触れたのでしょう? 
私にはハテナ?ハテナ?です。 

「出エジプト記」17章1節~7節
主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、
レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水が無かった。
民がモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」と言うと、モーセは言った。
「なぜ、わたしと争うのか。なぜ主を試すのか。」しかし、民は喉が渇いてしかたないので、
モーセに向かって不平を述べた。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、
家畜までも渇きで殺すためなのか。」
モーセは主に「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で
打ち殺そうとしています」と叫ぶと、主はモーセに言われた。「イスラエルの長老数名を伴い、
民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。見よ、わたしはホレブの岩の上で
あなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」
モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。
彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が「果たして、
主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。


「民数記」20章12節~
主はモーセとアロンに向かって言われた。「あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの
人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった。それゆえ、あなたたちはこの会衆をわたしが
彼らに与える土地に導き入れることはできない。」


「申命記」34章1節~4節
モーセはモアブの平野からネボ山、すなわちエリコの向かいにあるピスガの山頂に登った。
主はモーセに、すべての土地が見渡せるようにされた。
ギレアドからダンまで、ナフタリの全土、エフライムとマナセの領土、西の海に至るユダの全土、
ネゲブおよびなつめやしの茂る町エリコの谷からツォアルまでである。主はモーセに言われた。
「これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。
わたしはあなたがそれを自分の目でみるようにした。
あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない。」


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公園の<ノカンゾウ>の花もそろそろ終わりです。
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「サムソンの最期」

2016-08-17 16:55:38 | 説教
8月14日(日)主日礼拝説教
テキストは「士師記」16章23節~31節 「ヘブライの信徒への手紙」11章32節~34節
タイトルは「サムソンの最期」です。





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  ホームページにもお知らせが載っていますが・・・・・・
  8月28日(日)は曙教会との交換講壇ということで、
  曙教会の左近深恵子牧師が礼拝説教をしてくださいます。

  どんな御言葉の解き明かしを聴くことができるでしょう、楽しみです。
  これまで教会に行ったことが無いというアナタも是非お出かけください。

  
  <夕暮れの公園>暑い夏の一日もようやく終わりそうです。
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神、我と共に在り

2016-08-13 16:33:47 | 祈り
今日はネットで心に響く三浦綾子さんの「祈り」に出会いました。  

  三浦綾子の祈り

    神よ
    人生は
    一人 林を歩み行くようなものかも知れません
    自分の前には何の道もなく
    また 自分の後を従いてくる者もありません
    そんな辛いものかも知れません。
    でも、どんな辛い道でも
    主が手を引いて下さるなら
    私たちは 安んじて生きて行けるのではないでしょうか
    何十年かの人生の中で
    人は幾度 大きな重荷を肩に負い おろし 
    また負って来たことでしょうか
    でも 主が共に在すならば
    ああ 本当に共に在すならば
    それは 何と幸いな人生であることでしょう


五月の末に連れ合いに旅立たれてから二か月半が経ちました。
日常生活は夫婦二人のものから自分独りのものに少しずつシフトしています。
家を空けるときの火の元、鍵の点検から食事時間の配分など細々したことにも
少しずつ慣れてきている気がします。
しかし心の空洞は相変わらず暗く深く、時に叫びだしたくなるほどの寂寥感に襲われます。
毎日聖書を読み、朝晩祈り、主日礼拝に出席して、私は自分が必死に神様にしがみついて
過ごしている気がいたします。
自分の心も体も委縮して小さくなってしまった実感がひしひしと迫ります。
「前向きに」「立ち直って」「外に出るように」 心優しい友人知人が励ましてくれます。
今、私の心は内側にねじ曲がり、入り込んでいることがよくわかります。
いつか、神様に向かって、世の中に向かって、隣人に向かって、無理せず自然の流れの中で
大きく開かれる時が来ますように!ひたすら願い祈る毎日です。

伴侶がいなくなった寂しさは衝撃的なものではありますが、私の場合、たった一人になって
しまった、という心もと無さと不安感がジワジワジワジワ心を締め付け、いたたまれなく
なるのです。 
神様を信じているのに! 神様にすべてをお委ねしているのに! です。
「主が共に在すならば ああ ほんとうに共に在すならば それは なんと幸いな人生で
あることでしょう」 三浦綾子さんの祈りが胸に迫ります。
もし信仰が無かったら、もし祈ることが許されていなかったら、もし聖書を読む恵みが
無かったら私はいったいどうしていたでしょう。
インマヌエル、主、我と共にあり。 アーメン。

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公園のクサギボタンに止まる<クロアゲハ>
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「救いの青写真」

2016-08-06 14:53:37 | 説教 十戒
7月24日(日) 左近豊牧師によってなされた主日礼拝説教
テキストは「出エジプト記」20章1節~17節 「コリントの信徒への手紙二」3章18節
タイトルは「救いの青写真」でした。





二週間遅れの掲載です。m(_ _)m
明日7日(日)は仏式で弔った夫の新盆供養で菩提寺に行きます。
美竹教会の礼拝は欠席で、礼拝説教のプリントを戴けません。
24日の説教プリントが未掲載だ! ということに気づいてアップさせていただきます。
十戒は人を裁くためのものではなく神の御心に沿って新たに歩みだす私たちの生活のガイドである、
私も少しずつでも前に歩み始めなくては・・・・・。

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<マルタンヤンマ(雄)>
気温35℃を超えるとヤンマたちは涼しさを求めて崖の藪木立の中にぶら下がります。
ヤンマのぶら下がりを撮るためにカメラを持った人が何人も公園の木道をウロウロ。
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うめきながら待ち望む

2016-08-05 12:34:12 | 今日の聖句
今日の聖句は「ローマの信徒への手紙」8章18節~26節です。

現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないと
わたしは思います。被造物は神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。
被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、
服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。
つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く
自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを
味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく“霊”の初穂を
いただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、
心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって
救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。
現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは目に見えないものを
望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。
同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを
知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。


パウロの熱き思い、祈りが胸に響きます。
弱い私たち人間は虚無に服しているのです。それは自分の意志によるのではありません。
私たちは、私は、うめきながら待ち望んでいます。
私たちは忍耐して目に見えぬものを待ち望みます。
私の姉は「汝、証し人となれ」という御声を聴いたそうです。
私はいまだに御声を聴いたことはなく御姿を見たこともありません。待ち望みます。

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公園の薄暗い藪に<ハグロトンボ>がいました。
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