ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

なぜうなだれるのか、わたしの魂よ。

2018-06-29 23:18:10 | 今日の聖句
今日の聖句は「詩編」第43編です。

43:01神よ、あなたの裁きを望みます。
   わたしに代わって争ってください。
   あなたの慈しみを知らぬ民、欺く者
   よこしまな者から救ってください。
43:02あなたはわたしの神、わたしの砦。
   なぜ、わたしを見放されたのか。
   なぜ、わたしは敵に虐げられ
   嘆きつつ行き来するのか。
43:03あなたの光とまことを遣わしてください。
   彼らはわたしを導き
   聖なる山、あなたのいますところに
   わたしを伴ってくれるでしょう。
43:04神の祭壇にわたしは近づき
   わたしの神を喜び祝い
   琴を奏でて感謝の歌をうたいます。
   神よ、わたしの神よ。
43:05なぜうなだれるのか、わたしの魂よ
   なぜ呻くのか。神を待ち望め。
   わたしはなお、告白しよう
   「御顔こそ、わたしの救い」と。
   わたしの神よ。


詩を読むのは苦手なのですが、新約聖書、旧約聖書と共に、一応毎日「詩編」を一編ずつ読むようにしています。
神様への賛美、感謝、願い、嘆き、時には怒りの「詩編」は確かに神様への「祈り」で、こんな風な言葉で神様に
祈るのか~、と感心することもあります。
行間や余韻を読めない私は集中して心を込めて読まないと(読んでも)詩の言葉が心に留まらず流れてしまうことが
ままあります。感謝なことに、心に響く言葉にも出会います。

今日は同年輩の友人に会いました。若い頃からの友人たち、皆年をとりました。
楽しいひと時ではありましたが、大病を抱えている友人もいて淋しい話題、悲しい話題も多くなりました。
「神、我と共に在り」の信仰を与えられているのに、なぜか、私はうなだれることの多い昨今です。
友人たちは皆、クリスチャンではありません。人は、神無くしていきてゆけるのでしょうか。

私の魂はうなだれます。
それでも、私はなお、告白したい。「御顔こそ、私の救い」と。
感謝、賛美には程遠く、いつも神様に縋りつくだけの私です。ハァ~ (´Д⊂

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夕暮れの公園の<菖蒲> 美しかった~~!
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アブラハムの信仰

2018-06-21 21:47:59 | 今日の聖句
旧約聖書は何巡目かの「創世記」を読んでいます。
今日の聖句は「創世記」22章1節~13節 です。

22:01これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、
「はい」と答えると、 22:02神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、
モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」
22:03次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、
神の命じられた所に向かって行った。 22:04三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が
見えたので、 22:05アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。
わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」 22:06アブラハムは、焼き尽くす献げ物に
用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。
22:07イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」
と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」
22:08アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」
二人は一緒に歩いて行った。 22:09神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、
息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。 22:10そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、
息子を屠ろうとした。 22:11そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。
彼が、「はい」と答えると、 22:12御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが
神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしに
ささげることを惜しまなかった。」 22:13アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の
雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。


実はここを読むといつも、当時の旧約聖書の世界では人身犠牲はすんなりと受け入れられるものだったのだろうかと
思ってしまいます。そして、聖晩餐でパンをイエスの体、ぶどう酒をイエスの流された血、と譬えてそれらを食する
ということは、新約の当時のパレスチナ地方でも人の体や血を食するということが共通認識として受け入れられていたのか?
カニバリズム*1)?と思いました。
キリストの十字架の贖いを実感し、救いを感謝する記念が、なぜ肉を食べ血を飲むことなのか疑問でした。

元、仙台教会牧師の吉田隆先生の書かれた解説は、この疑問に明快に答えてくださるものでした。
(特に以下の文章・・・・・・・・・・
何の変哲もないものを、なぜわざわざ御自分の体や血とおっしゃる必要があったのか。それが次の問いです。
それにはちゃんと理由があると信仰問答は答えます。第一に「ちょうどパンとブドウ酒がわたしたちのこの世の命を
支えるように、十字架につけられたその体と流された血とが、永遠の命のために、わたしたちの魂のまことの食べ物
また飲み物になるということを、この方はわたしたちに教えようとしておられる」からです。
パンとブドウ酒は、当時の人々の日々の命を支える基本要素でした。つまり、聖餐式は、私たちの魂をキリストという
“糧”によって永遠の命へと養う食事だということです。
・・・・・・・・・そういうことなのですね。)

ようやくイエス様の祝福されたパンとぶどう酒の聖餐式を受け入れられる気持ちになりました。
7月の第一主日、聖餐式が待たれます。
美竹教会の長老のお一人が「アブラハムの信仰を私も持ちたい・・・・・」と言っておられたことを
思いだします。 今日の聖句を読んで、私も、と祈りました。

*1) ウィキペディア「カニバリズム」の解説の中には『聖書中のカニバリズム』として
   「レビ記」 26章27節~29節
   「列王記下」 6章28節、29節
   「ヨハネによる福音書」 6章52節~54節 が載っています。

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梅雨入りしましたね~、公園のアジサイが一際美しい。
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聖晩餐

2018-06-17 20:31:50 | 今日の聖句
今日の聖句は「マタイによる福音書」26章26節~30節 聖晩餐のところです。

26:26一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。
「取って食べなさい。これはわたしの体である。」 26:27また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。
「皆、この杯から飲みなさい。 26:28これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
26:29言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは
決してあるまい。」26:30一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。


これと同じような聖晩餐の記述は「マルコによる福音書」14:22~26、「ルカによる福音書」22:19~20 
「コリントの信徒への手紙一」11:23~25にもあります。

美竹教会では毎月、第一主日に聖餐式が行われます。
2㎝角のパンをキリストの体と思って食べ、5㏄くらいの小さなグラスのぶどう酒をキリストの血と思って飲みます。
十字架の上で私たちを贖われたキリストの苦しみを偲び、救いに与る喜びを感謝するのですが、信仰弱い私は聖餐式に
臨む姿勢と真剣さがどこかあいまいです。聖餐式の意義をもう少ししっかり知りたいと思い、今週は私の持っている
朝岡勝著「ハイデルベルク信仰問答を読むーキリストのものとされて生きる」の問75~問79を読みました。
問答も浅倉氏の解説も私には難しくて読んだだけでは理解できず、書き出してみました。
少しは頭が整理されて、聖餐式の意義が以前よりはわかった気がしました。 ホントかな~~(・・;)
今日のブログは自分のためのメモです。 本からの引用文ばかりですみません。<(_ _)>

問75 あなたは聖晩餐において、十字架上でのキリストの唯一の犠牲とそのすべての益にあずかっていることを、
    どのように思い起し、また確信させられるのですか。
答:キリストはご自身を記念するため、この裂かれたパンから食べこの杯から飲むようにと、わたしとすべての信徒にお命じに
  なりましたが、その時こう約束なさいました。
  第一:この方の体がわたしのために十字架上でささげられ、引き裂かれ、その血がわたしのために流されたということ。
     それは主のパンが私のために裂かれ、杯が私のために分け与えられるのをわたしが(聖餐式で?)目の当たりに
     しているのと同様に確実である、ということ
  第二:この方ご自身が、その十字架につけられた体と流された血とをもって、確かに永遠の命へとわたしの魂を養いまた
     潤してくださる、ということ。それは、主のパンと杯とをわたしが(聖餐式で?)奉仕者の手から受けまた実際に
     食べるのと同様に確実である。

この約束とは (以下は朝岡氏の解説から)
  第一は:「罪の赦し」:聖餐式においてパンとぶどう酒を口にするときに、私たちの食するという体験、パンを噛み、
      ぶどう酒を飲み込むという感覚が確かなのと「同様」にそこに表されるイエス・キリストの十字架の死がまことに
      私の罪の赦しのためであったという事実を確かな仕方で表しています。
      こうして聖餐式はそれに与るたびごとに私たちが自らの罪の赦しを疑いない仕方で確認することができるようにと
      与えられている恵みの礼典なのです
  第二は:「永遠の命の獲得」:イエスはかつて荒野でイスラエルが天からのマナによって養われ命を保たれたように、
      ご自身が永遠の命を与えるパンであると語られました。(「ヨハネによる福音書」6:32~40)
      聖餐式は主イエス・キリストが私たちに永遠の命の祝福を勝ち取ってくださったことの確実な約束として、
      私たちに与えられる命の養いなのです。

問76 十字架につけられたキリストの体を食べ、その流された血を飲むとはどういうことですか。
答:それは、キリストのすべての苦難と死とを、信仰の心を持って受け入れ、それによって罪の赦しと永遠の命をいただく、
  ということ。それ以上にまた、キリストのうちにも私たちのうちにも住んでおられる聖霊によって、その祝福された御体と
  いよいよ一つにされてゆく、ということです。
  それはこの方が天におられわたしたちは地にいるにもかかわらず、わたしたちがこの方の肉の肉、骨の骨となり、ちょうど
  わたしたちの体の諸部分が一つの魂によってそうされているように、わたしたちが一つの御霊によって永遠に生かされ
  また支配されるためなのです。

問77 信徒がこの裂かれたパンを食べ、この杯から飲むのと同様に確実に、御自分の体と血とをもって彼らを養いまた潤して
    くださると、キリストはどこで約束なさいましたか。

(問77への朝岡氏の解説から)
主イエス・キリストが定められた聖晩餐は、単にパンとぶどう酒を食するという飲み食いの儀式にとどまるものではありません。
むしろそこで起こっているのは、聖霊によって生けるキリストと一つに結び合わされるという命の交わりです。
この意義を繰り返し覚えて、この身にキリストのいのちを刻む者でありたいと願うのです。

問78 それでは、パンとぶどう酒がキリストの体と血そのものになるのですか。
答:いいえ。神聖なしるしまた保証にすぎません。聖晩餐の聖なるパン、ぶどう酒はキリストの体そのものになるわけではなく、
  ただ礼典の性格と方法に従ってキリストの体と呼ばれているのです。

(問78への朝岡氏の解説から)
現実にパンとぶどう酒が変化するのか・・・・・・
当時のローマ・カトリック教会においては、パンとぶどう酒がキリストの体と血に変化し、キリストは実質的にパンとぶどう酒の
中に存在する「化体説」を主張
プロテスタント教会では
  ルターの立場:主イエスの「これは私の体である」と言われた御言葉をそのまま受け取り実体的に変化せずとも、
         パンとぶどう酒と「共に」「中に」「下に」キリストが現臨されるという「共存説」を主張
  ツウィングリの立場:「これはわたしの体である」の「である」を「意味する、象徴する」と理解してパンとぶどう酒は
            体と血の象徴に過ぎない、聖餐式はキリストの贖いの記念
  カルヴァンの立場:地上におけるパンとぶどう酒を通して天におけるキリストの臨在に与らせるのは聖霊なる神の働きである
           とした。私たちが信仰を持ってこれを食するときに、聖霊なる神の働きによって私たちはキリストの体と
           血にあずかり、キリストとひとつにされるのだと教えた。

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冬鳥が渡ってしまい、公園は蝶や虫の世界になりました。
アカツメクサと<モンキチョウ雌雄>です。
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讃美歌21 79番「みまえにわれらつどい」

2018-06-08 19:05:09 | 讃美歌
先週の日曜日は第一日曜日、美竹教会では毎月第一日曜日には聖餐式が行われます。
今日の讃美歌は聖餐の感謝として歌った「讃美歌21」の79番「みまえにわれらつどい」です。
この讃美歌は讃美歌第二集179番と同じで、以前にもこのブログに載せました。
今回は素敵な歌声が見つかったので再掲することにいたします。

ここをクリックすると伸びやかな男声で日本語の「讃美歌21」79番を聴くことができます。
1 みまえにわれらつどい、ともにわかつみ糧(かて)を、
  世(よ)の光(ひかり)なる主(しゅ)のことばもて祝(しゅく)したまえ。

2 み招(まね)きにこたえつつあずかるさかずきをも、
  世(よ)の光(ひかり)なる主(しゅ)のことばもて祝(しゅく)したまえ。

3 みわざをたたえうたい、みまえにつどう民(たみ)を、
 世(よ)の光(ひかり)なる主(しゅ)のことばもて祝(しゅく)したまえ

そして、ここをクリックすると Joan Baez が歌う
“Let us break bread together” を聴くことができます。

  Let us break bread together on our knees, (on our knees)
  Let us break bread together on our knees. (on our knees)
  When I fall on my knees with my face to the rising sun,
  O Lord, have mercy on me.

  Let us drink wine together on our knees, (on our knees)
  Let us drink wine together on our knees. (on our knees)
  When I fall on my knees with my face to the rising sun,
  O Lord, have mercy on me.

  Let us praise God together on our knees, (on our knees)
  Let us praise God together on our knees. (on our knees)
  When I fall on my knees with my face to the rising sun,
  O Lord, have mercy on me.

なんと懐かしい! あのジョーン・バエズですよ!
「べ平連」の集会かコンサートか忘れましたが、ライブで、清々しくも力強いバエズの歌声を
聴いたことを思い出しました。 
朝日のあたる家、花はどこへ行った、ドナドナ、We shall overcome, などなど。 
若い時に覚えた歌は今でも忘れていませんね~。 (^-^)

↓ ネットからこの曲の解説です。解説は相変わらずネットからのコピペですみません。
聖餐を主題とした数少ない黒人霊歌である。
3節からなる英語の歌詞は、1節がパンを割き、2節がぶどう酒を飲み、3節が神を称えたものだが、
その他の歌詞は全く同一である。しかし、実際に聖餐式で使うことを考慮し、
各節の後半の同一歌詞の2行は原歌をやや離れて意訳されている。
この歌は、素朴で敬虔な表現ゆえに1955年頃からアメリカで大変ポピュラーになった。
この歌の成立時期と場所は詳しくは不明だが、いつのまにかアメリカ中にひろがった。
おそらくアフリカから奴隷として連れてこられた人たちが、即興的な自由な礼拝を行い、
そこで歌われていたものを聖公会が典礼歌として採用したものであろうと言われている。

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初夏の公園、今日も強い日差しでした。
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口から出てくるものは人を汚す

2018-06-02 14:55:45 | 今日の聖句
今日の聖句は「マタイによる福音書」15章10節~20節 です。

15:10それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。 15:11口に入るものは人を汚さず、
口から出て来るものが人を汚すのである。」 15:12そのとき、弟子たちが近寄って来て、「ファリサイ派の人々が
お言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか」と言った。 15:13イエスはお答えになった。「わたしの天の父が
お植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。 15:14そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内を
する盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」 15:15するとペトロが、「そのたとえを
説明してください」と言った。 15:16イエスは言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。
15:17すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。 15:18しかし、口から出て来るものは、
心から出て来るので、これこそ人を汚す。 15:19悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から
出て来るからである。 15:20これが人を汚す。
しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」

大切にしているCDがあります。二十年以上昔、友人からプレゼントされたもので、
1984年にプリントされた「タブラ・ラサ・/アルヴォ・ペルトの世界」というCDです。
魂を鷲づかみにされるような音に、いつ聴いても何度聴いても言葉を失います。
音楽音痴の私でさえ知っているギドン・クレーメル(ヴァイオリン)キース・ジャレット(ピアノ)
アルフレート・シュニトケ等の演奏による名盤(・・・・だと思います。)


ウォルフガング・ザントナーという人によって書かれたこのCDの解説文
「アルヴォ・ペルトについて」はライナー・マリア・リルケの詩から始まっています。
**************************************************************
あなたはあの聖者たちのことを御存知でしょうか、主よ。
彼らは閉ざされた修道院のなかでさえ、世の笑い声や泣き声が聞こえすぎると感じ
地中深くもぐりこんでしまったのです。

そしてひとりひとりがわずかな光とわずかな空気を穴のなかで享けながら、
自分の年も、顔さえもわすれはて、窓のない家のように生きつづけ、
死んだも同然で、そのために死ぬ必要すらありませんでした・・・・・・

ある円形の部屋のなかで
銀のランプが香油で光を放っており、この部屋で金色の扉と金色の庭をまえにして、
仲間同士でときたま集い合うのでした。
そして不信をぬぐい切れず夢のなかをのぞきこみ、長いひげをかすかにふるわすのでした。

いまでは都会や田舎から巡礼にくる何千というお遍路さんに彼らを拝観させています。
300年もまえから彼らはここに横たわり、その肉体は腐乱さえしていません。
煤けた光のように、黒光り色を放って、ミイラがるいるいと横たわったおり、
そのミイラは布にまかれてそっと安置されています・・・・
そしてその手はかたく組み合わされ、胸の上でやまのように盛り上がっているのです。
(ライナー・マリア・リルケの詩集「時祷集」中「巡礼の書」抜粋)

リルケは、11世紀に造られたキエフの地下僧房と、そこで生活した僧たちに魅せられ、その「時祷集」で
これらの僧たちのために一つの詩碑を建立した。リルケをかくも魅了したのは、ロシア正教の精神だった。
東方教会のこの精神性は、ローマ教会よりもはるかに世俗にかかわること少なく、教理をこねるよりは神を称え、
説教するよりは光明で満たそうとする。そしてその核心は、他人を改宗させようとするよりは、まず自分自身の
心に目を向け、諦念を学ぼうと心がける。

アルヴォ・ペルトの作品は、これまで隠者の音楽、いわばヘシカスト*)の祈りのように、神秘的かつ単純、
啓示的かつ愛に満ちた響きを伝えている。
*)ヘシカスト:14世紀にギリシャのアトス山中に住んでいた修道士たちの広めた神秘主義の信奉者、
静寂主義者ともいう。

エストニア人アルヴォ・ペルトは1935年にパイデに生まれタリンで育った。1976年にピアノのための小品
<アリーナのために>を出版してようやく、彼自身がいうところの”Tintinnabuli Style” を完成させた。
"Tintinnaabulum” とは鐘を意味する中世の言葉である。
ペルトは「この様式ではわたしは沈黙とひとつとになっていられる。わたしが見いだしたのはたったひとつの
響きが美しく奏でられるだけで十分だということである。静けさとも沈黙ともいえる、たったひとつのこの
ひびきは私の心を落ち着かせる。わたしはわずかな音素材、ひとつの声部、またはふたつの声部で作曲する。
わたしはもっとも単純な手段で、3和音で、ある特定の調で曲を構成する。3和音の3つのおとのひびきは、
鈴の音に近い。だからわたしはそれをティンティナブリと名付けたのだ。」と言っている。
************************************ 以上、ウォルフガング・ザントナー氏の解説より

口から出るものは、心から出てくるものでこれこそ人を汚す。
世俗の喧噪、笑い声や泣き声に耐え切れず地中に潜り込んだ僧たち・・・・・・こういう信仰もあるのですね~

それにしても、ナザレのイエスという青年、神の御子イエス・キリストはなんと素晴らしいお方なのでしょう!
私は私なりの信仰しか持ちえませんが、主を信じる信仰を与えられたこと、神、常に我と共に在り、と
信じて賜る平安、感謝です。
人は神なき世、主無き世を生きて行かれるのでしょうか?

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雑草生い茂る静かな静かな公園の午後です。
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