ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

旧約の世界

2014-08-30 13:32:06 | 今日の聖句
今日の聖句は「創世記」34章24節~29節 です。
町の門のところに集まっていた人々は皆、ハモルと息子シケムの提案を受け入れた。
町の門のところに集まっていた男性はこうして、すべて割礼を受けた。
三日目になって、男たちがまだその傷の痛みに苦しんでいたとき、ヤコブの二人の息子、
つまりディナの兄のシメオンとレビは、めいめい剣を取って難なく町に入り、男たちをことごとく殺した。
ハモルと息子シケムも剣にかけて殺し、シケムの家からディナを連れ出した。
ヤコブの息子たちは、倒れている者たちに襲いかかり、更に町中を略奪した。 
自分たちの妹を汚したからである。 そして、羊や牛やろばなど、町の中のものも野にあるものも
奪い取り、家の中にあるものもみな奪い、女も子供もすべて捕虜にした。


34章は「シケムでの出来事」について書かれています。
レアとヤコブとの間に生まれた娘のディナは、ある日土地の娘たちに会いに出かけたのですが、
土地の首長のヒビ人ハモルの息子シエルに捕らえられました。 シケムはディナと共に寝て辱めました。
ヤコブの息子たちはこのことを聞いて、イスラエルに対して恥ずべきことを行ったということで、嘆き
激しく憤りました。
しかし、ディナに心奪われ、この若い娘を愛し言い寄ったシケムは彼女との結婚を父に頼みます。
父ハモルと息子シケルはヤコブの所に出かけ彼らに、ディナをシケルの嫁に・・・・と話しました。
ヤコブの息子たちは「あなたたちの男性が皆、割礼を受けて我々と同じようになれば同意しましょう。」
と言ってシケルとハモルをだましました。
ハモルとシケルはその条件を受け入れました。
特にシケムはヤコブの娘を愛していたので、ためらわず実行することにしました。
彼らはそれを町の人々に提案し、受け入れられました。
その後の出来事が↑上の聖句です。

ヤコブたちイスラエルの民にとってヒビ人とはどういう位置(地位)にある部族だったのかは分かりませんが、
ヤコブの息子たちにとって妹ディナを汚されたということはハモルの町の男たちを皆殺しにして
家畜を奪い女子供を捕虜にするほどの屈辱だったのでしょう。 
旧約聖書には部族皆殺しや、家畜の掠奪、女子供を捕虜にするなどの記述がこの後もたくさん、たくさん出ていますが、
あまりに徹底的で驚かされます。
このような徹底的破壊が当時のパレスチナ地域では当たり前のことだったのでしょうか。
今の日本に生きていて理解できないと言っている私が平和ボケなのでしょうかね。



親鳥と一緒の公園の小雀(手前)
餌の捕り方を習っているようでした。


美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
明日は日曜日、主日礼拝のひです。 午前10時半からです。
どなたでも教会の扉を押して、どうぞお入りください。
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イエスは神の独り子

2014-08-28 12:26:42 | 今日の聖句
今日の聖句は「マタイによる福音書」からです。

22章34章~40節
ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。
そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 
これが最も重要な第一の掟である。 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている。」


22章41節~46節
ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。
「あなたたちはメシアのことをどう思うか。 だれの子だろうか。」
彼らが、「ダビデの子です」と言うと、イエスは言われた。
「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。 
『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。
わたしがあなたの敵をあなたの足元に屈服させるときまで」と。』 
このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」
これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。


深く大きな話をされるイエス、大工の子として生まれ育ったイエスは
いつどこで聖書(旧約)について勉強したのでしょうね。 
福音書を読むたびにイエスの人智を超えた深さと大きさに圧倒されます。
イエス様は神から遣わされた神の独り子です。 


公園で今年初めて見られた<マイコアカネ(♂)>です。
成熟した♂の青白い顔面と真っ赤になった腹部との対比が美しく、
白粉で装った京の舞妓を思わせることから名づけられたようです。


美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
今の日本で生きていく時、私たちは苦しみ、悩み、孤独、等など、様々な喜怒哀楽にまみれます。
でも、イエスを神の独り子と告白しクリスチャンとして過ごす私の毎日は、平和と平安に満たされています。
インマヌエル「神、我と共にいます」 この言葉が私の慰め、救いです。
神に出会えたこと、教会の礼拝に集えること、生きている意味(意義)が実感できることに感謝です。
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西南支区 教会フェスティバル 2014

2014-08-27 16:13:23 | その他
「西南支区 教会フェスティバル 2014」という催しが9月23日(火・祝)にもたれるそうです。
会場は日本基督教団渋谷教会 時間は13時~16時です。

西南支区は渋谷区、世田谷区、港区で、日本基督教団に属する44の教会があるそうです。
このフェスティバルは2009年に第一回、2012年に第二回がもたれ、今年は第三回目のようです。
詳しくは↓下のビラをご覧ください。

   

   
いつもは別々に礼拝を守っている44の教会の仲間が一堂に会して礼拝を捧げたり、講演を聴く。
きっと楽しい集まりでしょうね。
これまでキリスト教を知らなかった方、キリスト教をもっと知りたい方々、たくさん参加してくださるといいですね!


私が所属している美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
教会の扉はいつでもあなたに向かって開かれています。 どうぞ扉を押してお訪ねください。
神さまはいつでも、何処でもあなたと一緒に居られます。
大きな大きな存在、絶対的に大きな方がいつも共にいてくださる安心、平安にあなたも与かりましょう。
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讃美歌8番 「きよきみつかいよ」

2014-08-26 17:39:28 | 讃美歌
先週の礼拝の最初に歌った讃美歌です。 「礼拝 讃美」に分類されています。

 1)  きよきみつかいよ、 かみをたたえよ、
     月も日もほしも よろこびうたえ。
     かみはあめつちを つくりたまいて、
     とわのおきてもて おさめたまえり。

 2)   かみにたよる民 つみと死に勝ち、
     ともによろこびて 代々(よよ)にたたえよ。
     みいつたぐいなく めぐみつきせぬ
     かみの大御名(おおみな)を もろびと讃(ほ)めよ。

この讃美歌についての日本語の解説はネットでは見つけられませんでした。
英語のタイトル(Praise the Lord・・・・・)から探してみるといくつか見つかります。
英語の得意なかた、訳してくださいませ。 m(_ _)m

讃美歌集の作詞欄には "Praise the Lord: ye heavens, adore Him"
            Foundling Hospital Collection, 1796 とありました。
孤児のために病院のコレクションに入っていた讃美歌、ということでしょうか。

作曲の欄には "FABEN" John Henry Wilcox, 1849 とありました。
ネットには John Henry Wilcox についての解説(英語)もいくつかありました。
英語、お手上げです。 (^^;)

讃美歌8番のめはココをクリックすると聴くことができます。
後のビルの窓のライトが十字架に変わって行きますよ~  (^-^)



池の菖蒲の葉に二頭の<アゲハ>
じっと向き合って動きません、お見合いでしょうか。


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「謎と啓示」

2014-08-24 19:41:06 | 説教 使徒信条
今日、8月24日(日)の礼拝説教
テキストは「イザヤ書」7章14節 と 「マタイによる福音書」1章18節~25節 タイトルは「謎と啓示」でした。

礼拝の説教では今、二千年にわたって教会で受け継がれてきた「使徒信条(信仰告白)」を学んでいますが、
今日は「主は聖霊によりて宿り、乙女マリアより生まれ・・・」という事をみてゆきましょう。

クリスチャンはイエスが乙女マリアから生れたことを本当に信じているのか、どうしてそのようなことがあるのか、
と問われることがよくあります。 説明できないことを無理やり信じているのか、そのことについては思考を停止して
やり過ごすのか、男女の関係なしに生まれたことにクリスチャンはどう答えたらよいのか、戸惑う事ではあります。

ここで、教会が言えることは一つ、教会はまず救い主である主を知り、祈り、礼拝し、自分はこの方に救われたのだ
と言う喜びの中でイエスの誕生を祝う時(つまりクリスマスの時)クリスチャンは、
イエスは聖霊により乙女マリアより生まれたとしか言いようがないということです。
説明に苦しむが、それを私たちの信仰とし、葛藤もひっくるめて受け入れている、としか言いようがないのです。

この信仰を最もよく体現しているのはヨセフではないでしょうか。
ヨセフは旧約の律法に従う真っすぐな正しい人でした。
婚約と言うことは結婚と認められていた当時の社会においては、夫と関係無く身ごもったマリアの行為は
石打の刑を含む厳罰にあたいするものでした。
ヨセフはマリアがそうなることを望まず、ひそかに婚姻関係を解こうとしました。
マリアが独身者として子をむのなら彼女を守ることができると考え、このようにして舞台から静かに下りることを
選ぼうとしました。
マリアが聖霊により身ごもったという事が納得できなかった最初の人はヨセフでした。
男性との関係なしに子供が産まれることは受け入れられなかったヨセフを通して「乙女マリアより産まれ・・・」
という事が信じられないすべての人々への招きをみることができます。

律法に忠実で人間的に誠実で愛情深いヨセフですが、「マタイ伝」1章1節から記されているヨセフの系図は
決して美しく正しいものではなく、人間の汚れやスキャンダルなどに満ちた人間のありのままが刻まれたものです。
例えばダビデですが、自分の家臣ウリヤの妻を奪い、ソロモンをもうけました。
しかも夫のウリヤを戦場の最前線に送って亡き者にしています。
この系図は人間の醜い歴史に属していて、この人間の的外れな生き方(罪ある生き方)を贖う救い主として
イエスは誕生したと記されています。

ヨセフの系図は、16節で「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。」
と、突然ヨセフから離れ「このマリアからイエスがお生まれになった」と続いています。
イエスがどのように偉大で、立派な人であったとしても、ヨセフの系図に繋がっていたとしたら、
人間の究極の希望はあり得なかったでしょう。 ヨセフの系図に繋がらないことに意味があるのです。
人として生まれ人間の苦しみを味わいながら、しかも罪とは無縁で死を滅ぼして甦られた人(神)であるならば、
この罪無きひとによって私たちの罪は解決していただける、本当の救いがあるのです。

マタイはパウロや後の神学者のようには言葉によってイエスを証しすることなく、淡々とヨセフの系図を示すことで
イエスを証しています。 神学的に納得して受け入れるのではなく、ヨセフは系図の中に自らの罪を見出して、
深い理解に導かれて「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」という言葉を受け入れたのではないでしょうか。
この子は自分の民を贖い、罪から救うために生れたのだ、ヨセフは恐れを勇気に、疑いを信仰に、哀しみを喜びに変えていきました。
そしてマタイは、この救いは決して唐突なものではなく「イザヤ書」を証しするもの、そこで言われたものであると記しています。
ヨセフは、インマヌエルの聖句を聞き、それを受け入れる最初の人になったのです。
ヨセフは舞台から下りることなく自らの使命を全面に受けて生きました。
今でいうと難民生活のようなエジプトへの逃避行とそこでの生活ではマリアとイエスを命がけで守り抜きました。
信仰なくしては生きられなかった労苦の中を最も弱い幼子のイエスとマリアを守り通しました。

イザヤの預言がイエスによって成就すると言う信仰者とヨセフは繋がっています。
遥かに望みを見て喜んで死んで行ったヨセフ。 
教会は、このヨセフの信仰をしっかりと見ながら「乙女マリアより生れ・・・」と救い主キリストを告白しているのです。
ヨセフの如き信仰をしっかり抱えて今週も過ごして参りましょう。         (以上、文責はゆうゆうにあります。)


信仰告白(使徒信条)を学んでいます。 
左近先生の力強いお説教で一つ一つの文言が説き明かされ、私の弱い信仰も毎週の礼拝によって強められてゆき感謝です。
ヨハネの心(気持ち)からその信仰を学ぶということ、胸に刻まれました。
16節の解き明かしは「目から鱗」でした。
願わくば、説き明かしが心に染みついていつまでも残って、積み重なってゆきますように!



残暑の中、蝉たちは精一杯命の詩を歌っているようです。


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今月末には会堂外壁のリフォームが終わりそうです。
新装の美竹教会、どんな風になるのでしょう。 写真を載せますね、どうぞお楽しみに。 (^-^) 
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アブラハムの信仰

2014-08-22 13:04:53 | 今日の聖句
今日の聖句は「創世記」22章2節~13節、 「アブラハム、イサクをささげる」 です。

神は命じられた。
「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。
わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」
次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、
神の命じられたところに向かって行った。
三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、アブラハムは若者に言った。
「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」

アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。
二人は一緒に歩いて行った。
イサクは父アブラハムに「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、
イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする子羊はどこにいるのですか。」
アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えて下さる。」

二人は一緒に歩いて行った。
神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。
そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
そのとき、天から主の御使いが「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が「はい」と答えると、御使いは言った。
「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。
あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。
アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに破棄尽くす献げ物としてささげた。



このあと、神は「自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、
あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう」とアブラハムに約束されました。
アブラハムの信仰は独り子すら献げるほどに強いものでした。
ここを読んで、ヨブの信仰のことを思い起こしました。
このように強い信仰、信頼をどのようにしたら持ち得るのでしょうか。
「インマヌエル(神我と共に在り)」そう思っているのに、願っているのに、祈っているのに、
信仰の確信が持てない自分に茫然とします。
神のいまさらぬ世界は私にとっては地獄である、と信じているのに、この私の不信仰。
聖書を読み、祈り、礼拝に集い、神に依り頼むのみ、です。
このような私を神は愛し、子として受け入れてくださっているのです・・・・・ね!



いつも歩く公園の池です。


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あなたが苦しむとき、あなたが悩むとき、あなたが弱っている時、神様はあなたを背負って歩ませてくださいます。
いつか必ず死ぬ運命の私たち人間を、虚しさから解き放ってくださるのは神様です。
教会の扉はいつもあなたに向かって開かれています。 扉を押して教会をお訪ねください。
心満たされる時があなたを待っていると思います。
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口から出たものが汚す

2014-08-20 17:26:03 | 今日の聖句
今日の聖句は「マタイによる福音書」15章10節~
それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。 「聞いて悟りなさい。 口に入るものは人を汚さず、
口から出てくるものが人を汚すのである。」 そのとき、弟子たちが近寄って来て、「ファリサイ派の
人々がお言葉を聞いて、つまずいたのを御存じですか」と言った。 
イエスはお答えになった。 「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。 
そのままにしておきなさい。 彼らは盲人の道案内をする盲人だ。 盲人が盲人の道案内をすれば、
二人とも穴に落ちてしまう。」 
するとペトロが、「そのたとえを説明してください。」と言った。 イエスは言われた。 
「あなたがたも、まだ悟らないのか。 すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。 
しかし、口から出てくるものは、心から出てくるので、これこそ人を汚す。 
悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出てくるからである。 
これが人を汚す。 しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」



ファリサイ派の人々と律法学者たちがイエスの弟子たちが食事の前に手を払わないことを咎めたことに対するイエスの答です。
イエスはまた「あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。
 偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見ごとに預言したものだ。 
『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。 
人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしを崇めている』」と言われました。
大工ヨセフの子としてお生まれになり、成人してイエスが福音を述べ伝えられたのは、十字架にかかられる前の
二年?か三年?の短い間です。
イエス様はいつ、どんなふうに旧約を勉強なさったのでしょう。

神様の教えを身をもって教えられたイエスの言葉があふれている福音書は、何度読んでも心に響きます。
イエス様の教えは深く真実で、二千年にわたって語り継がれ信じられ、今、わたしを捉えています。 
福音書を読むと、死にて葬られ黄泉に降り死に打ち勝って甦られたイエスを信じ、神を信じ、
召される時まで信仰の生涯を全うしたいと切に願ってしまいます。



今、公園は蝉しぐれに覆われています。
今日も happy birthday の子がいました。


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今日も暑い中で教会の補修工事が進められているのでしょうか。
工事の方々、見守る左近先生、熱中症にお気をつけてお過ごしください。
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産めよ、増えよ、地に満ちよ

2014-08-19 20:12:05 | 聖書
「創世記」10章から13章にかけてノアの子孫が書かれています。
読んでいるうちに興味津々、いたずら書きでメモをとってみました。
神さまからの「産めよ、増えよ、地に満ちよ」は決して言葉のアヤではなく
ヘブライ人は本当にパワフルに増えていったのですね。




メモ見て、あらためて子孫の多さに驚きました。
「創世記」46章にはヤコブのエジプト下りの話が載っていますが、エジプトに
下った時のヤコブの一族は総勢70名、大家族です。
ヨセフも死んで何代か先になると、ファラオはヘブライ人の潜在能力を恐れて
彼らを虐待しましたが、ファラオの恐れも納得できる気がします。



公園では<センニンソウ>が咲き始めました。
夏はまだまだ真っ盛りですが、時間は確実に進んでいます。


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ノアの箱舟

2014-08-18 09:30:16 | 今日の聖句
「創世記」8章3節~12節

水は地上からひいて行った。 百五十日の後には水が減って、第七の月の十七日に箱舟はアララト山の上に止まった。 
水はますます減って第十の月になり、第十の月の一日には山々の頂が現れた。
四十日たって、ノアは自分が造った箱舟の窓を開き、カラスを放した。
カラスは飛び立ったが、地上の水が乾くのを待って、出たり入ったりした。
ノアは鳩を彼のもとから離して、地の面から水がひいたかどうかを確かめようとした。
しかし、鳩は止まる所が見つからなかったので、箱舟のノアのもとに帰って来た。
水がまだ全地の面を覆っていたからである。 ノアは手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のもとに戻した。
更に七日待って、彼は再び鳩を箱舟から放した。
鳩は夕方になってノアのもとに帰って来た。 見よ、鳩はくちばしにオリーブの葉をくわえていた。
ノアは水が地上からひいたことを知った。
彼は更に七日待って、鳩を放した。 鳩はもはやノアのもとに帰って来なかった。



ノアの話は私が子供の頃、姉が家で開いていた教会学校で、何度も聞きました。
紙芝居や子供劇でもやったかもしれません。
地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計らっているのを御覧になった主は、
洪水によって生きるのもすべてを滅ぼそうと決められました。
主に従う人と認められたノアは、自分の家族、全ての生き物の一番(つがい)を大きな箱舟に避難させるよう、
主から命じられました。
ノアが主の言われる通りに行うと、その後四十日間にわたって雨が降り続き、地上を覆って生きる者すべてが
死に絶えた、という話で、神からの罰・・・・恐ろしい出来事です。

上の聖句は地上の様子を知るためにカラスや鳩を使って地上の様子を調べるノアの姿です。 
オリーブの葉をくわえて船に戻った鳩、美しい光景です。
しかし、神がお怒りになり、人間に罰をお与えになる時はなんと恐ろしいものなのでしょう。
ノアの一家と一番(つがい)の生き物たちを除いて残りのものすべてを神は滅ぼされました。
バビロンの捕囚も民族の悲劇として伝えられていますが、残らず水の下に葬られたノアの箱舟の話は
本当に恐ろしい出来事です。

水が引いたのち、ノアは主のために祭壇を築き、焼き尽くす献げ物を祭壇の主にささげました。
それに対して主は、8章21節で・・・・
主はなぐさめの香りをかいで、御心に言われた。
「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。 人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。
わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。
地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも 寒さも暑さも、夏も冬も 昼も夜も、やむことはない。」
と言われました。

神の存在をないがしろにして生きることは恐ろしい報いを受けることになります。
「地獄とは神が存在しない世界だ」と聞いたことがありますが、神様の存在を信じなければ、
私の毎日はそれは虚しく孤独なものなると確信しています。



夕方から開き始める<カラスウリ>の花
夏の夜の公園といえばこの花を思います。


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昨日は所用のため、礼拝に行けませんでした。
今週の説教も、今週の讃美歌もブログに載せることができません、残念です。  m(_ _)m
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十分の一の献げ物

2014-08-15 08:34:53 | 今日の聖句
マラキ書の3章にある「十分の一の献げ物」が今日の聖句です。

「マラキ書」3章6節~10節  悔い改めの勧告
まことに、主であるわたしは変わることがない。
あなたたでぃヤコブの子らにも終わりはない。
あなたたちは先祖の時代から わたしの掟を離れ、それを守らなかった。
立ち帰れ、わたしに。
そうすれば、わたしもあなたたでぃに立ち帰ると 万軍の主は言われる。
しかし、あなたたちは言う。
どのように立ち帰ればよいのか、と。
人は神を偽りうるか。
あなたたちはわたしを偽っていながら どのようにあなたを偽っていますか、と言う。
それは、十分の一の献げ物と 献納物においてである。
あなたたちは、甚だしく呪われる。
あなたたちは民全体で、わたしを偽っている。
十分の一の献げ物をすべて倉に運び わたしの家に食物があるようにせよ。
これによって、わたしを試してみよと 万軍の主はいわれる。
必ず、わたしはあなたたちのために 天の窓を開き 祝福を限りなく注ぐであろう。



マラキは、律法を無視する人々に諸規定の中から「十分の一の献げ物」を取り上げて彼らの罪を示し、
それが神の祝福を失っている原因であると指摘し、悔い改めて神に立ち帰るよう迫っている。
自分の所有の十分の一を神に献げることが聖書で最初に記されているのは「創世記」14章で、
申命記、民数記、新約聖書のマタイ、ルカにも記されている。
すべてのものを賜る神への感謝として、すべては神のものであるとの信仰の告白として献げられたのである。 
(以上は「聖書事典」からの抜書きです。)

年金生活の私ですが、なんとか十分の一の献金を続けています。
「マタイによる福音書」23章で、イエスは、十分の一は献げても正義、慈悲、誠実をないがしろにしている
律法学者やファリサイ派の人々を非難しました。
献げ物の多少だけが問題ではないということですね。
心を込めて祈りつつ、なるべく多くの献金を神様の御用のためにささげたいと願っています。



夜行性の<ゴイサギ>は夕暮れになると目がパッチリ、餌捕り開始です。


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